ブルーキャッツにて
翌日、カノンは、ミソラタウン商店街へとやって来ていた。きょろきょろと忙しなく視線を動かしながら歩を進め、目的の場所を見つける。
「ブルーキャッツ……。ここですわね」
青い喫茶店の看板の名を確かめると、カノンはおそるおそるその扉を開いた。
「ごめんください」
こういった店に入るのは初めてであった。足を踏み入れると同時に、香ばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。それから淡い照明で照らされる内装を一通り見渡して、カノンは、自分以外の客がいないことに気付いた。
もしかしたら開店前だったのだろうか? 不安になってカノンが引き返しかけた時、カウンターの奥から人影が現れた。
「いらっしゃい」
男性であった。独特の癖のついた長髪は深い青色で、サングラスを掛けている。服装からして、この喫茶店のマスターらしい。
カノンは慌てて頭を下げた。人見知りしやすい性分を必死に心の奥に追いやって、声を絞り出す。
「こ、こんにちは。あの、わたくし、こちらに用事がありまして……」
「用事? 会ったこともないお嬢さんがうちに?」
「はい、わたくし、鳳来寺孜郎の娘でカノンと申します」
カノンが名乗ると、マスターは瞬きした。
「鳳来寺カンパニーのご令嬢か……」
「ご、ご令嬢だなんてそんな……。あの、わたくし、こちらにいらっしゃる檜山様にお渡ししたいものがあって来たんです」
「そうか、なら丁度良かった。檜山なら俺だよ」
「そうでしたの! 失礼致しました」
カノンはまた慌てて頭を下げた。気にしなくていい、という風にマスター……檜山が苦笑する。
それからカノンはカウンターに歩み寄った。檜山の前で、自分の手提げ鞄からUSBメモリを取り出した。
「わたくしの父が、これを檜山様に届けるようにと。大事な仕事のデータだから誰にも内緒にしなさいと言われました」
「……そうか、ありがとう」
メモリを受け取った檜山が礼を言うと、カノンは「どういたしましてですの」と会釈して返した。そんな彼女に檜山は微笑んだ。カウンターに腕組みしながら寄りかかり、カノンにこう訊ねる。
「そうだ、カノン。君はLBXに興味はあるか?」
「は、はい。まだまだ初心者ですけれど、大好きですわ!」
檜山があえてメモリから話題を切り替えたようにも思えた。しかしカノンは“LBX”という単語に思わず反応してしまった。屈託ない笑みを浮かべて、少女は何度も頷きながら答える。
カノンの返答に、檜山は笑みを深くした。どこか不敵な、大人の男性ならではの表情であった。
「丁度今日、この店でLBXバトルの大会が行われるんだ。アングラビシダスって言うんだが……良かったら観ていかないか」
「是非とも! 実はわたくし、そちらの方が本命の用事でしたの」
「そりゃ良かった。まあ、ちょっとお嬢様には刺激が強すぎる大会かもしれないがな」
「大丈夫ですわ!」
カノンが即答すると、檜山は、アングラビシダスの説明をしてくれた。
ルールが無いのがルールと言われ、通常のLBXバトルでは禁止されているアイテムの使用・LBXの故意的な破壊が許されている。故にアングラビシダスに参加するプレイヤーたちは、必然的に血気盛んな人物が多くなることなど……だ。
話を聞いているうちに、カノンは少々緊張していった。先程までの期待や好奇心が、僅かに揺らいでいく。
檜山にもそれが伝わったらしい。明らかに強張る少女を観て、微笑ましそうに彼は目を細めた。
「やっぱり止めておくか?」
「い、いいえっ! わたくし、ひとつでも多くのバトルを見てみたいんですの。ですから絶対観戦致しますわ!」
両手を握り締めながらカノンは意気込みをそう伝えた。それを聞いた檜山は、もうカノンを止めようとはしなかった。
二人の話が一段落したとき、カウンターの奥から再び誰かが現れた。カノンは反射的にそちらを向いた。
現れたのは金髪の男だった。年は檜山と同じぐらいだろうか。スーツを着込み、短い髪は後ろへときっちり撫で付けるように整えられている。
カノンは反射的に「こんにちは」と頭を下げた。男性は一瞬驚いたが、すぐに「こんにちは」と返してくれた。
檜山がカノンと男性の間に立ち、カノンに男性を紹介する。
「カノン、こいつは宇崎拓也。俺の友人だ」
「初めまして。鳳来寺カノンと申します」
「まさか、鳳来寺カンパニーの……?」
「はい、鳳来寺カンパニーは両親の会社です」
「そうか。初めまして、どうぞ宜しく」
拓也が右手を差し出すと、カノンはそれに応じ、握手を交わした。そうして拓也の顔をまじまじと見つめていたカノンは、ふと、彼の顔に見覚えがあることに気付いた。
「もしかして、タイニーオービット社のお方ですか?」
「ああ。そこで開発部部長として勤めている」
「やっぱりそうでしたか!」
カノンは目を輝かせた。タイニーオービット社といえば、宇崎悠介が社長を勤めるLBXメーカーの大手である。
以前両親の仕事を学ぶために同行していた際に、タイニーオービットを訪ねたことがあったのだ。
その頃のカノンはまだLBXへの興味に乏しく、今以上に人見知りであったために、緊張で硬直したまま両親のそばに立っていることしか出来なかった。様々な話を宇崎社長が直々に説明してくれたのにだ。
今思えば勿体ないことをした。もっと積極的にあの時、色々なことを訊ねてみれば良かった。その後悔を拭おうとするかのように、カノンは気持ちのままに言葉を溢した。
「以前宇崎社長にお会いしたことがありますの。すごく親切な方でしたわ。……あら、拓也様、同じ宇崎様でいらっしゃいますのね」
「ああ。社長……宇崎悠介は俺の兄だからな」
「なるほどですわ! わたくし、拓也様のこと誰かに似てらっしゃると思って……。ご兄弟でしたのね」
ああ、と頷く拓也の笑みがやや固いことにカノンは気付いた。
何か失礼なことを言ってしまっただろうか? カノンは不安になったが、それを彼に訊ねる勇気はなかった。
会話がそこで終わると、「さて」と檜山が呟いた。
「俺はそろそろ会場に向かうとするかな。……カノン、大会まではもう少し時間があるから、ここで適当に寛いでてくれ」
「有難うございます、お言葉に甘えさせていただきますわ」
カノンが会釈すると、気にするな、という風に檜山は手を振る。そして彼はカウンター脇の扉を開けて――おそらくその先がアングラビシダス会場なのだろう――行ってしまった。
「あいつがアングラビシダスの主催者なんだ」
不思議そうに扉を見つめていたカノンに、拓也がそう教えてくれた。
「檜山自身、凄腕のLBXプレイヤーでね」
「確かに、とっても強そうな雰囲気でしたわ。いつか檜山様のバトルも拝見したいです」
ふむふむと頷くカノンを、拓也は複雑な表情で見つめている。
カノンはその視線に気づくと、首をかしげた。
「いかがなさいました?」
「……いや、君とご両親のことが気になってな」
「え? それは――」
拓也の言葉に疑問を持ったカノンが口を開いたその時、ちょうど遮るようにブルーキャッツの扉が開いた。
中に入ってきたのは、昨日ゲームセンターで出会った中学生たちであった。カノンはもちろん、彼らをしっかりと覚えていた。
アミ、カズヤ、そして……バン。
もし出来るならば友達になりたいと思った子達。
カノンは思わず満面の笑みを浮かべた。