妖狐、微睡より目覚める
――あくまでもこれは人の世なのだと、何度も言い聞かせて生きてきた。
例えば今、この目の前で命喪った亡骸。これに僕の力を使えば、再び生を与えることが出来るだろう。
しかし、そこまで踏み込む訳には行かない。
僕が手を下した瞬間、それは人のものではなくなってしまうからだ。
かつては人であったろうそれに、僕と同じ咎を背負わせなければならない。
最初から化け物だった僕にさえ辛いこれが、人であったものたちに耐えられるはずがない。
人が人であるために、僕は彼らに貸す力に線引きをした。
しかし荒れに荒れた戦国の乱風は、その線を掠め、次第に薄れさせていった。
僕がそれに気付いたのは、本当に後になってしまってからだった――。
「……う、夢うつつだった」
きらきらと輝く水面が、瑞火の目を突く。その目映さに眩みながら、瑞火は、自分が転た寝していたことを知った。
海上要塞・百鬼富嶽。海を行くこの要塞に、いまだに瑞火は慣れなかった。自分が陸の生き物である自覚を持つと共に、時代にそぐわぬこのからくりに、どうしようもない不安を覚えるのだ。
要塞を作り上げた当人は、お気に入りのこれの説明を丁寧にしてくれるのだが、物事を知識ではなく感覚で覚えていく瑞火が理解するのは、なかなか難儀なものだった。
結果的に覚えてるからよしとしてほしい。良さが判るかどうかと聞かれると困りものだが。
瑞火はゆるりと腰を上げた。体解しもそこそこに、軽やかに駆け出していく。
「姫ちゃあん」
緩い瑞火の呼び声に振り返ったのは、屈強な体躯に逆立つ銀髪を持った男だった。
長曾我部元親――。
要塞と、海に育まれた勇ましい兵を率いる、長曾我部の総大将である。兵たちには“アニキ”と慕われる彼を、妖狐は独自の愛称で呼んでいた。
「おぅ、起きたか」
「起こしてくれて良かったのにー」
「珍しく人前で寝てっからよ。そんなん忍びなかったぜ」
そして元親も、瑞火が用いる愛称を許容していた。瑞火も瑞火で、他人がいるときはなるべく名前を呼ぶように気を遣ってはいる。
これでも瑞火は、彼に仕えているのだ。状況に応じて、態度も口の聞き方も柔軟に変えていく。奔放に振る舞っているようで、公私を混同することなく弁えていた。
そこまでして砕けた交流をするのは、ひとえに“絆”のためであった。
「うふふ。姫ちゃんったらー。あんまりボクの寝顔が可愛いからって見惚れてたかのぅ?」
「先の戦のこと、気に病んでんのかと思ってな」
「うわ人のボケを完全に無視とか……ひっどーい」
おどける瑞火に、元親は隻眼を細めた。
傍目では溌剌そのものな妖狐の心の内を、いとも容易くこの鬼は察していたのである。元親に、瑞火の道化は殆ど通用しなくなっているのだ。
「やっぱり気にしてたんだな、アンタ」
「……そりゃあ、ねぇ」
彼にはお見通しと悟るや、瑞火はあっさりと頷いて見せた。ふざけた雰囲気から転じて、別人のように静まり返る。
遠くに思いを馳せるように、琥珀の眼差しが伏せられた。
先の戦とは、この要塞・百鬼富嶽に毛利軍が襲撃してきたことを指していた。どうやら百鬼富嶽を奪おうと言う魂胆だったらしい。
毛利にしては雑な奇襲だと思いながらも応戦していた最中、それは起こった。
瑞火の目の前で、瑞火を庇うために一人の兵が命を散らしてしまったのだ。
「……腹が立ったんだよ、色々、たくさん」
自分が攻撃の隙などを見せたために、無意識のうちに力を制御しながら戦っていたために、無駄に命を張らせてしまった。
瞬間、瑞火は悩んだのだ。
離れた魂をそのままに、人として死なせるか。
魂を呼び戻し、妖としてでも生かすべきか。
兵の亡骸を見て、混乱のあまり瑞火は禁忌に触れる選択を浮かべてしまった。
結局瑞火は前者を選んだが、それで正しかったかは判らない。答えは死んだ当人の中にすら在るか判らないのだ。
瑞火が妖術使いだとは知れ渡っているが、禁忌に及ぶ力を持つことは誰も知らない。
誰にもこの葛藤は知れない。
知らせてはならない。
だからこそ瑞火は深く悩んでいた。
信頼する“幼馴染み”である彼にすら話せずに。
黙する瑞火を、元親は何とも言えない眼差しで見守っていた。
「瑞火がそんなに悩むとこ、なかなかお目にかかれねぇよな」
「姫ちゃん……」
「とりあえず俺が言えるのは、アンタは悪くねぇってことだけだ」
ぽん、と瑞火の頭を一撫でし、元親は笑った。
不思議なものだ。元親のその行為たったひとつで、瑞火の心の揺らぎは大分収まっていた。完全とは言えずとも、冷静に判断を下せる程までの平常を取り直していたのである。
気恥ずかしさを露に、瑞火は笑い返した。
「わ、悪いねぇ。若者に気ぃ遣わせちゃってぇ」
「昔から年寄りは敬えってな」
「そだねぇ、ボクみたいな立派な年寄りは……って誰が年寄りかー!」
きゃっきゃとじゃれつく瑞火を、元親は仕方なさそうに笑って宥める。親兄弟のように気心知れたふたりは、しばらくそうしながら潮風を楽しんでいた。
鬼たちの船はひたすらに海を進む。
先の戦の被害も取り返しつつあった。至って順調な船旅であった。
しかし瑞火の胸には、またもや靄が立ち込める。
死なせてしまった部下。
仲間が死ぬことは初めてではないし、永く生きてきた瑞火にとって、死が齎す別れは、否が応でも重ねてきた経験のひとつだった。
それを今更になって動揺した理由は、恐らく“庇われた”――自分のせいで死なせてしまったこと。
以前より情の増した瑞火は、強くなると共に弱さを身に付けてしまっていた。
その自覚があったゆえに様々な可能性を巡らせていたつもりが、甘かったのかもしれない。
(――もしかして)
考え込むうちに、瑞火はひとつの仮説に思い当たる。
もしやあの奇襲の狙いは、初めから自分だったのではないか――。
力ある故に、何時からか長曾我部軍の要となりつつある妖狐。元就ならばまずこの要を挫こうと画策するだろう。これはその一手に過ぎないのかもしれない。
瑞火はひっそり眉を顰めた。
この弱味を、生まれた情を、よりにもよって奴に知られては困る。あいつは其れらを利用する術に長けていた。
瑞火の妖術を以てすれば、憂いは幾らでも断てるだろう。
対抗策だって存分に浮かぶだろう。
しかし時として人は、自分たちの想像の範疇を超えてくる。
人を想い、見つめ、知った瑞火は、十二分にそれを理解していた。
「瑞火」
瑞火は、案じるような元親の呼び声を、思考の一区切りとすることにした。
「なあに?」
「……いや、もうすぐ目的地に着くからな。用意しとけ」
「まだちょろっとしか島っこ見えてないよー?」
「こいつに掛かりゃあ、あっという間よ」
自慢げに笑む幼馴染みに、瑞火は「そうだったね」と笑い返す。
本当に元親が言わんとしたのは別の話だったはずだ。
判っていながら瑞火は、言及することなく、上陸の支度のために船内へ向かったのだった。
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