なつかしい記憶
 夏の匂いがする。もう、春と呼ぶには暖かすぎる時期になった。
 夏の匂いがする。青が映える季節が、再びやってくる。
 夏が巡るそのたびに、元親は思い出した。小さなちいさな友人のことを。大事なだいじな幼なじみ。過ごした時間はひと月にも満たぬほど。ほんの僅かだったが、それはそれは幸せで、暖かな時間だった。

“ねぇ、ひめわこなの? おひめさまなの? ひめちゃんなの?”

 初めて出会ったのは、初夏の原っぱ。家から飛び出した元親が、ひとり草を千切っていじけていた時だった。
 唐突に現れたその子は、金色の髪と眼を陽に煌めかせ、無垢な声で元親に訊ねてきた。さらさらのおかっぱ髪が風に揺れて、絹糸のような細やかさは触れずとも伝わってくるようだった。
 でも、失礼な子だ。
 元親は抱えた膝を更に抱き寄せて、自分より小柄なその子どもを見た。
 長曾我部家の嫡男でありながら、戦を嫌がり、なよなよしかった時代が元親にはあった。そんな彼を、家の者たちは“姫若子”と揶揄していたものだ。会ったもこともないその子どもは、何処かでそんな元親のことを聞いたのだろう。
 情けなくて、恥ずかしくて、視界が潤む。知らない子にまで、馬鹿にされているなんて。
 幼い元親は、泣きそうになりながらも首を振って訴える。

“ちがうよ、ひめじゃないよ…。やめてよ”
“そっかあ、じゃあなんていうの?”
“それは……知らない子におしえるのは…”
“じゃあーひめちゃんでいーや”

 元親の非難するような眼差しは通用しなかった。涙を堪えて熱を持った彼の瞳を、子どもは悪びれた様子もなく見つめ返してくる。諦めた元親が眼差しをずらせば、子どもの金の髪に、美しい赤の花飾りが揺れているのに気づいた。腹を立てながらも、その子の可愛らしさに何も言えなくなってしまう情けない自分に、元親はひっそりと落ち込んだ。


 それから金髪の子と元親は、何故かよく遊ぶようになった。ひとりでいる元親の前に、子どもはひょっこりと現れたのである。お互いに名前を知らぬまま、あちらこちらを駆けた。城下を、土佐の浜辺を、誰かの屋敷の庭を、森の中を。最初は嫌だったあだ名もいつの間にか慣れて、家を抜け出して一緒に悪戯を働くのが癖になっていった。陽が傾き始めるまで遊び、「またね」と帰路につく。大人たちに咎められることもあったが、元親の父は逆に嬉しそうに元親を見ていた。引っ込み思案な息子が活発になるさまを、ただただ喜んでくれていたのだろう。
 初夏の陽に見守られ、元親は小さな友人との時間を楽しんだ。


 ――しかし、その出会いが唐突であれば、別れもまた唐突であった。
 子どもに付き合い、大量の蛙を捕まえて民家に投げ込む悪戯をした後、原っぱまで逃げてきた時のことだ。
 蛙が苦手な元親がげんなりしているのに気づいたのか、子どもは元親を労るように顔を覗き込む。元親がぼんやりと野花を眺めていることを知ると、嬉々として彼に言い寄った。

“ひめちゃん、はなすき?”
“うん”
“じゃあ、これあげる!”

 子どもは、初めて会った時から身につけていた花飾りをとり、そして元親に押し付けてきた。今思うと、子どもは、内気な元親を女の子と勘違いしていたのかも知れない。それでも元親は嬉しかった。綺麗なその飾りは生花のように瑞々しく、艶やかであった。元親が目を輝かせていると、子どもはにんまり微笑んだ。

“やくそくのしるしね!”
“やくそく?”
“そうなの。やくそく!”

 そうして指切りをし、子どもは一方的な“やくそく”を結んだ。それからはいつものように夕日が見えるまで遊び呆け、ふたりは別れた。

“じゃあね、さよなら!”

 ――またね、では無かった。
 その時は、意味に気付けなかった。
 次の日。また次の日。子どもは元親の前に現れなくなった。探してみようにも宛てなど無かった。あの子はいつも元親を迎えに来てくれていた。元親からあの子に会いに行ったことなど無かった。だから、あの子の居場所なんて判らなかった。
 悲しくて、寂しくて、どうしようもなかった。忽然と姿を消した友に怒りを感じた時もあった。恨みもした。しかし、感情は一通り巡って、友を失ったさみしさに帰ってきてしまう。堪えきれない涙が幾つも零れて、喉も目も熱くなって息が詰まりそうなくらいだ。
 久々にひとりで見上げた空は広すぎて、傾いだ日を見つめることも出来ずに俯いて歩いた。
 そうやって、ぱったりと姿を消した友人を思ううち、元親はようやく理解した。
 花飾りと共に交わした約束と、初めての“さよなら”。あれは、あの子なりのお別れだったんじゃないかと。


 元親は少しずつ立ち直った。赤い花飾り。やくそくの印。それは小さな灯火となって、彼の道行きを照らすもののひとつとなった。
 灯火を頼りに、己の内に生まれた信念を支えに、元親は大きくなった。四国を統べる領主となり、“西海の鬼”という異名を持つほどに――。

(ああ、あの飾り…何処にしまったっけか)

 何時の間にかやってきて、何時の間にかいなくなってしまった、ちいさな友だち。可愛くて破天荒で、一緒にいると息つく間も無いほどに騒がしかった。お人形のような顔をしていながら毛虫は掴むし、崖を登るし。けれど、そんな友が元親に与えたものは大きく、掛け替えのないものばかりだった。

「元気だと良いな」

 この戦乱の世では、贅沢な願いかもしれない。しかし元親は祈らずにはいられなかった。
 常識に縛られない、自由な奴だった。幼かった元親の手をとって、獣よりも獣らしく駆け回って。無知で非常識だからこそありのままで。
 花飾りと共に託された約束は、今でも覚えている。

“きみに何かあったら、ぜったいにちからになるよ! そしてね、やくそくするよ、ひとりにしない!”

 擦り傷を作っても、大人に怒られても、ちいさな友人は泣かなかった。なのに元親が泣けば急に慌てて、花やら蝶やら抱えてなだめようと必死になって。おかしな奴だった。
 そんな彼との無邪気な約束を思い返す度、胸は痛む。
 なあ。元気にしてるか? 俺も強くなったつもりだぜ。お前にはまだ及ばないかもしれねぇが、成長したんだ。大事な仲間もできて、これでも、守るべきもんを抱える立場になった。結構やりがいあって楽しいもんだぜ。

「会いてえなぁ」

 もう一回、あの時みてえに真夏のお日様の下をよ、一緒に駆け回りてぇなって思ったりすんだ。無垢に、無邪気に、有りの儘で。今度は、俺が手を引いてやりてぇなって――。
 ざわり。側の茂みが揺れたことに気づき、元親は我に返った。音を頼りに視線を巡らせる。
 一匹の狐が、元親を見つめていた。毛並みは金。眼差しも金。光を返し、その姿はほんのり輝いているようだ。まるで昔、共に駆け回ったあの子どものように……。
 なんとなしに元親が手を伸ばすと、狐は素早く身を引っ込めてしまった。

「――まさか、な」

 脳裏に、あの子どもの姿が過ぎる。綺麗な顔ににんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべる、金色の友。
 元親はもう一度空を仰いだ。
 まだ彼は知らない。密かに願う再会の時は、存外近いのだということを――。

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