人間の食べ物を味わうことのできない存在である自分にとっては全く不要な物であると知りながら、ナマエは菓子を買う。口にすれば吐き気や悪寒に襲われ絶不調に陥る毒薬のようなそれらを、ナマエは買い続けていた。勿体ない金の使い方だとは思う。それでも、止められない訳がある。
 舌で味わうことは出来ずとも、その造形・色彩を目で味わう。じっくり眺めるのだ。自分たち“喰種”の食事はこんな風に手間暇を掛けることがないから――少なくともナマエはそんなこだわりを持っていない――、人間のこの感性と才能には、素直に尊敬と羨望の念を抱いた。なかでもナマエは人間が食べる菓子を眺めるのが好きで、季節の果実を溢れんばかりに盛り込んだフルーツタルトなどを見ると胸が躍る。
 その買いたてのタルトたちの入った小さな箱を大切に抱えながら、ナマエはウタの店……『HySy Art Mask Studio』へ向かった。

「ただいま帰りました、ウタさん」
「おかえりナマエさん」

 くるりと椅子を回転させて、ウタはナマエを迎えた。
 彼女のるんるんと明らかに浮かれた足取り。緩んだ顔と弾んだ声。抱えている箱。それらを見て、ウタはナマエがご機嫌な理由をすぐに察した。

「遅いと思ったら、良いお菓子見つかったんだね」
「ええ! やっぱりお菓子は良いわー! キラキラ輝く宝石みたいで、たまらないよ。これで食べることが出来たら良いんだけどなぁ」
「また食べてみてもいいけど今度吐くときはトイレまで我慢してね。掃除大変だから」
「気を付けるわ……」

 作業に一区切りをつけたウタは、席を立つと、ナマエの傍まで歩み寄ってきた。

「ぼくも見てみたいな。ここに広げていいよ」
「でも、ニオイで気持ち悪くなっちゃっても知らないよ?」
「大丈夫だから。はい」

 てきぱきと机のスペースを空けたウタは、小さく笑ってナマエを見る。
 ぱあっと顔を輝かせたナマエは、菓子の箱を机に置いた。購入してきたケーキを一つずつ丁寧に取り出し、ゆっくりと並べていく。ナマエの言う通り“喰種”の嗅覚では、菓子の香りがただの異臭としか捉えられない。それでも、菓子を見つめて喜ぶ彼女を見るのが、ウタは好きだった。
 あっけらかんとしていてのびのびとしていて、妙に人間っぽい彼女の姿。
 昼間、人間たちとまじって仕事をしている時も、同僚たちの弁当や食事を眺めては楽しんでいるという。時には分けてもらうこともあるそうで、そんな人間たちの厚意をナマエは嬉々として受け入れていた。勿論、消化が始まる前に吐き出さなくては体調を崩してしまうので食後は人知れずトイレに向かうそうだ。……トーカをもっと能天気にして間の抜けた感じで成長させていったら、多分、ナマエのようなひとになる。

「今日ね、ミネストローネっていうのをおごってもらって食べたんだけど、あれはとんでもなかった。見た目が真っ赤だから血だと思ったらいけるかなって思ったけど、無理。喉に口の中にびったりくっ付いてこびりついて大変で大変で! でもキラキラってしててやっぱり綺麗なのよね」

 話しながら、ナマエはケーキの写真を撮っていた。食べられない代わりに目で楽しみ、写真に残す。
 ウタの店に居座る傍ら、彼女も彼の創作活動を手伝っていた。時には自分自身で作品を作ることもある。だが手掛けるのはマスクではなく服飾。普通の衣服から、チームを組んでヒトを狩ったりする“喰種”用の揃いのコスチュームまで、様々だ。そのデザインにこれら人間の菓子から得たインスピレーションが活かされるというのも、奇妙で皮肉な話である。
 二人にとって、人間の菓子は「食べ物」ではなく「芸術品」に近い。触り方も眺め方も、人間のそれとは全く異なった。
 ……ただ、ナマエだけは、耐えきれずにその菓子を口にしてみることがある。結局戻してしまうのだが、人間との生活での食事の作法を磨く訓練の一環として彼女は行っていた。
 ウタが満足して作業机に戻ってからも、ナマエはきらきらの瞳で、きらきらの菓子たちを眺め、写真に撮り続けた。
 何度も響くシャッター音をBGMに、ウタは作業を進める。

「ナマエさん、そっちはどう?」
「うーん、撮っても撮っても撮り足りないねぇ。カードの容量がまたパンパンになっちゃった。新しいの買っておいてよかったー」
「調子良いんだね。もし一段落したならちょっとこっちを見てほしいんだけど」
「はい?」
「頼まれてたマスクが修理出来たから」
「本当っ!?」

 がばりと勢いよくナマエはウタを顧みた。ケーキを見つめていた時以上の輝く瞳に、ウタは微笑む。

「うん、本当。ほら、ナマエさんのマスク」

 そう言ってウタは、マスクを手に取り、ナマエへと見せた。
 すっかり新品同様に戻ったマスクを見て、ナマエは歓喜の声を上げる。

「わぁ! さっすがウタさん! まだホヤホヤ喰種だった頃を思い出すピカピカ具合……」
「ナマエさんが派手にマスク壊しちゃうなんて珍しいね。ちょっと骨が折れたよ」

 探るようなウタの視線に、ナマエは曖昧な笑みを溢すのみだ。
 ……何年も前に「マスクを作ってほしい」と彼女に頼まれたとき、正直ウタは気が乗らなかった。いつでも彼女は自身にとってキラキラと輝き心惹かれるものだけを追う純粋な存在であるとばかり思っていた。だがマスクを依頼してきた彼女の声には、重苦しい淀みが在った。それだけでウタは察した。
 今まで“狩ることが出来ない喰種”だった彼女が、大切なものを狩られ、遂に“狩ることが出来る喰種”になろうとしている――……。
 新たな彼女の門出に携わることを喜ばしく思いつつ、新たな彼女にならざるを得なくなった現実を憂いもした。
 ――ご飯ならいつでもぼくを頼ってくれていいんだよ?
 あえて見当違いな問いを投げかけるウタに、その時のナマエは笑った。
 ――いい加減、大人にならなくちゃいけないので大丈夫です。
 不思議なことに、ナマエの目は今のようにキラキラと輝いていたのが印象に残っている。

「……勝手に刺繍増やしちゃったけど良かった?」
「とっても素敵でナイスだわ! ありがとうー!」

 マスクを抱き締めてナマエは笑った。
 狩りを知ってもナマエが変わることはほとんど無かった。時の流れや積み重ねた経験による、必要最小限の変化だけが彼女に訪れていた。
 その心を支えているものは何なのだろう。
 その瞳に映る世界はどんな姿をしているのだろう。
 変わっていくものが多いなかで、彼女が変わらずに在る理由は、その瞼の奥にあるのだろうか。
 どう足掻いてもナマエの瞳と同じ景色を見ることはできない。唯一、瞼を閉じた時に生き物の視界を埋め尽くす黒だけが共通の世界だ。
 大事にマスクを鞄へしまってから、ナマエはウタを振り返る。

「あの、これ修理代」

 小さな封筒をウタに突き出してナマエはニコニコとしていた。ウタもこの商売で生計を立てている以上、これは受け取って当然の報酬なのだが、

「修理代は要らないよ」

 彼はあっさり断り、ナマエの手をそっと押し戻した。
 まさかの返答に、ナマエは狼狽える。

「え、えっ!? 駄目だよ、泊まらせてもらってる上に修理代チャラとかじゃあ、こっちの気分がよくない」
「ここにいる分のお礼は普段のお手伝いで十分だから。それに今回は、修理代の代わりに聞きたいことがあるんだ」

 立ち上がったウタが、ナマエの顔をじいっと覗き込む。
 小首を傾げながら、彼は問うた。

「どうしてマスクがボロボロになるようなことをしたの?」

 ナマエの顔に明らかな緊張が走って、強張った。しばらく視線を彷徨わせていた彼女は、遂に観念したように苦笑して、

「ようやく“白鳩”に復讐したの」

 それで納得したウタは「そっか」と一言だけ溢し、言及するような真似はしなかった。ナマエの表情を見れば、聞かずともだいたいのことが判る。
 ケーキを箱の中へ戻しながら、彼女は微笑み続ける。

「これで、私のなかで一区切りついた。今日いっぱいケーキを買ったのも、そのお祝いと言うか、戒めと言うか、そんなところ」
「ナマエさんがケーキを買う時は、いつもそうだよね。何かがあったとき。フラれたときとか」

 そうそう、とナマエはウタの指摘に相槌を打ちつつ、

「キラッキラのお菓子で気持ちを切り替えるの。今日の私を明日まで引きずってつまづかないようにね」

 ひとつのタルトを残して、それ以外は全て白い箱の中へ片付けた。どういうつもりかは、ウタには悟れない。
 ……不意にそのタルトを鷲掴みにしたナマエは、一気に口の中へソレを放り込んだ。
 豪快な食べっぷりにウタは僅かに目を見開いた。今まで探り探り一口ずつ食べる姿ばかり見ていたから、まさかそんな行儀悪く咀嚼するとは予想だにしなかった。
 手についたクリーム、机に落っこちたフルーツや欠片。それも全てナマエは拾いあげ、頬張る。
 流石に銀紙たちは除いていたが、ものの数秒で彼女はヒトの食べ物を胃の中へひとつ落とした。浮かべていた微笑みは次第に歪み、顔色はみるみるうちに白くなっていく。
 これは吐くかもしれない、とウタはゴミ箱を引き寄せた。

「大丈夫」

 ウタの行動を見て、ナマエは必死に口元を吊り上げる。

「今日は、吐かない」

 何かの儀式か、決意の印なのか。
 不器用で奇妙な彼女の行動に、「そう」と、ウタは短く返した。
 ナマエの決めてしたことなら、心を上向かせるためにそうしたのなら、遮ったり横やりを入れてはならない。
 彼女の目は、相変わらず無垢に輝いている。
 それを濁らせてはならないから、ウタは彼女の思うままにさせてやりたかった。

「後で、ちゃんと食事も摂ろうね。少しはマシになるかも」
「私はO型のお肉が食べたい……」
「どうせ食べても血液型の判断つかないでしょ、ナマエさん」

 ウタの言葉にナマエは押し黙る。図星だった。血がどうのだなんて、気まぐれで言ったにすぎない、戯言だ。
「付き合いが長いし、そのくらい判るから」珍しくウタが声をあげて笑う。
 敵わないといったふうにナマエは顔を綻ばせて、椅子に座った。今にも押し込んだケーキが逆流してきそうだったが、無駄な意地を張ってそれを抑え込む。
 吐く暇があったら、ウタと共にいたかった。
 どんな時も穏やかな凪ぎのように自分を受け入れてくれている彼に募らせているただならぬ思いを隠し持ちながら、ナマエはウタとくだらない談笑を交わす。

「ああヤバイ、やっぱり吐きそう……」
「トイレまで我慢して」
「は、吐きそうなだけで、吐くって決まってはいないから!」

“喰種”として生きる以上、失うものは多かれど、この穏やかな時間は守り抜かなくてはと心底願った。

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