とても体が重たかった。血液がすべて鉛に変えられでもしたんじゃないかしら、と有りもしない憶測をしてみる。次いで、うだるような暑さ。惰性で出しっぱなしの毛布類を全部丁寧に被って寝ていた自分が馬鹿臭いほど暑かった。昨日まではでも、本当にこいつらを被っていても平気だったのに。

「ナマエ、水飲む?」

 まるで私の渇きを察知したかのように、ウタの声がした。
 ――そういえば、この狭いベッドの隣が随分ぬくいなあと思ったんだ。

「……飲む」

 ベッドからようやく這い出した私は、彼の差し出すコップを受け取った。氷の入った冷たい水。ごくごくとのどを鳴らして一気に飲み干す。まだ足りないなあ、と思っていたら、「足りる?」とまたもやウタが。私の返事を聞くより先に様子から察した彼は、コップを持って再び台所へと向かう。
 ――随分、人の家を慣れた調子で歩くなぁ、ウタ。
 彼に出会ったのは随分前だけれど、家へ招いたのは今回が初めてだ。一応私も女子として、男性に対して『自宅に誘う』というのはそれなりに勇気と警戒を持つ行動である。その結果、私はウタと寝た。……比喩ではなく本当の意味で。
 最初に私は、ベッドを使うように勧めた。けれどウタはいまいち具合のよろしくない顔をしていた。ならソファーしかないけれど、と伝えると、それにもいまいち不満げな顔。「ナマエはベッドで寝なよ」と言われてそうすることにしたら、いつの間にかウタが隣に入り込んできて。私が眠りにつくまで彼は私の背中をぽんぽんしながら……――それで、今に至る。
 二杯目の水を飲み切ってから、私はウタへ向き直った。

「ねえ、昨日のは何なの?」
「添い寝」
「こんな暑苦しい時期に?」
「暑いの?」

 ウタが瞬きした。まるで意外そうな、不思議な顔で私のベッドを見つめながら。

「毛布とか出しっぱなしだから、寒がりなのかと思ってた」
「……しまい忘れてたの!」
「あ、そうだったんだ。ごめんね」

 あまり表情が変わらないウタに反して、私は今更ながら恥ずかしくなってくる。
 ウタと初めて出会った時も、私はそうだった。
 当時私は、会社の同僚とハロウィンパーティーの仮装を用意しようと話し合い、ウタのマスク屋へ行った。どうせやるなら一生モンにしようとか意味不明な同僚たちに流れされて、いちいちお高いマスクを拵えるために、あの日、店へ入った。
 そうしたら、びっくりするほど細やかで美しいものから何かおどろおどろしい感覚に陥るものまで、様々なマスクが揃い並ぶ奥に、こんなにもインパクトのある男性――ウタがいたのだ。同僚たちの存在を忘れて私は「ぐ、“喰種”!?」と素っ頓狂な声を上げて、ウタにも同僚にも笑われた。そんな、ありきたりな出会いがきっかけだった。
 同僚たちはウタの奇抜で個性的な前衛的ファッションにきゃいきゃいと騒ぎつつ、彼がかっこいいだのミステリアスだのと仮装マスク完成後もしばらく語っていた。彼女らの意見には正直私も内心賛同していた。
 しかし、足しげく彼の店まで通うようになってしまったのは、私だけらしかった。いつ訪れても、不思議とウタの店に会社の同僚の姿はなかった。
 ……つまり私は、人様を“喰種”呼ばわりしたくせに、その人に一目惚れしたおかしな人間であった。

「暑苦しかったの、気付かなくてごめんね」
「ううん、大丈夫。眠れたし」
「良かった。今日は休みなんでしょ? もっとゆっくりしなよ」

 部屋の主は私のはずがどうしてかウタのものみたいになっている。そんなことはさておき。

「どうして添い寝し」
「くっつきたかったし、くっついてほしそうだったから」
「は……い?」

 私の訴えを予測し、遮断し、ウタは答えた。彼も水を飲んでいた。言ってくれればお茶でもアルコールでも出すのに、とまた雑念がわきかけるのを押さえ込み、私はウタの言葉について必死に考えを巡らせる。
 ――くっつきたかった? くっついてほしそうだった? どういうこと? 私そんな物欲しそうな顔をしてたの? というか、ウタもくっつきたかった? あの狭いベッドで大の男が精いっぱい縮こまって私とくっついて寝る意味とは?
 答えは勿論でない。ただ、私がウタのより近い場所に寄り添えたらなんて夢を思い描いたことがあるかないかで言うと前者であり、くっつかれて正直驚きや暑さより喜びが勝ったから眠ってしまったという事実もついている。

「……恋愛経験浅い女子をからかわないでよ」
「からかってないよ」
「尚更タチ悪いと思うんですけどソレ」

 文句を言いつつ朝食の準備でもしようかなあと私が動き出した瞬間、

「ナマエはぼくが好きで、ぼくもナマエが好きだからいいと思って」

 予想だにしない追い打ちをかけられて、私はこたつテーブルに思い切り左足をぶつけて転がる羽目になった。「だいじょうぶ?」と声がしたので、覗き込まれる直前に近くのクッションに頭を埋める勢いで顔を押し付けた。今の表情は見られたら恥ずかしい。だって淡々と「今日の朝食はアレにしよう、君もソレでいいよね」みたいなフランクな会話のテンポでぶちかまされたらそりゃあ赤くもなる。しかも好きな人を家へ誘っていて、その好きな人に添い寝されて、好きな人に言われたとなったら。
 ――良いの? 本当にいいと思ってるの!?
 クッションに顔をうずめてじたばたしていると、「そんなに痛かったの? 大丈夫?」とウタが私の足を心配し始める。

「ちょ、ちょっと休めば平気だから! からかわないで本当に」
「……ナマエ」

 溜息が聞こえたのと、クッションを剥がされたのはほぼ同時だった。

「それじゃあ逆に聞くけれど、ナマエは冗談で男の人を家に上がらせたりするの?」

 予想外に強い力と、低い声。
 黒くて赤い瞳が私をじっと見据えている。綺麗な色。

「……しません」
「ならわかってくれるよね」
「……あまりに自分に好都合なことが起きすぎてわかりたいけれどわかれません」
「仕方ないなあ」

 きれいな瞳が、きれいな顔が、近づいてくる。
 無防備な私の額へと、やさしい口付けが。
 ほんのわずかな間だったけれど、離れていく温度を名残惜しくも思ったけれど、ウタの微笑みを見た途端、私は頭が真っ白になるほどの幸福へ包まれてしまった。

「……本当に好きです」
「ぼくもだよ」

 もし本当にこのひとが“喰種”で私を食べちゃおうとしたとしても、良いかなあ、なんて思った。

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