とても繊細で傷つきやすいぼくの奥さんは、今日もまた何かに傷つき引きこもっていた。
 引きこもる場所が自室かつ赫子の中なのは、何とかしてほしい。せっかくの新婚さんなんだから一緒にいっぱいいたいのに。新婚じゃなくたって、ずっと暑苦しいって言われても一緒がいいけど。
 まるでシェルターみたいにナマエだけをぐるりと包み込む赫子の表面をノックして、ぼくは呼びかける。

「ナマエ、どうしたの? 言ってくれなくちゃ、ぼくにはわからないよ」
「……自己嫌悪してるだけなの。大丈夫」
「大丈夫じゃないから聞いてるのに。ねえ、赫子しまって出ておいで。ナマエ」

 何度か呼びかけると、ようやくナマエは出て来てくれた。自分の部屋ならわざわざ赫子のなかに引っ込む必要ないと思う。何度言っても直さないのは、多分、常に警戒しながら生きてきた彼女のクセみたいなものなんだろうなあ。そんな心配もうしなくていいんだよ。そういう意味を込めて「ぼくが一緒にいるんだから」とささやいた。通じたかはわからない。ナマエのどんな姿もぼくには大切だからしっかり確かめたいのに。
 ちょっとだけ、ナマエの目が腫れている。頬には涙が滑っていったあとがあって、ナマエの手はしきりに目を擦っていて。これじゃ腫れても仕方ない。

「擦っちゃ駄目だよ。もっと腫れちゃうから。とりあえずこっちおいで」

 抱きしめてしまえばナマエも引きこもりシェルターを出そうにも出せなくなって、ぐずった子供のような小さな呻きを上げて大人しくなった。

「どうしたの? 新妻さん」
「……それ」
「それ? ……どれ?」
「新妻」

 顔を赤くしてナマエは言う。言ってくれなきゃわからないとは言ったけど、そんな一つの単語だけじゃ“わかれ”っていう方が無理がある。よくわからないから、とりあえず、ナマエを抱えてベッドに座る。こうやって彼女を膝にのせて、髪を撫でながらくっついているのが好きだ。とってもつやつやで、柔らかい髪。大きなネコでも抱えている気分になる。
 そうやっていると、ますますナマエは顔を赤くして、しかめっ面をして、

「新妻っていうより、養子みたいな状態じゃない、これじゃあ」
「……そうかな?」
「歳もそんなに変わらないのに、私、どう考えてもウタの子供みたいな扱いでしょ、今まさに」
「ぼくはナマエみたいに大きな子供がいる歳ではないし覚えも無いよ」
「またそーやってとぼけて! だから、もっと私は、妻という呼称を与えられただけじゃなくって、もっとその呼称に相応しい言動とか、ウタと釣り合うようにしたいっていうか、そうこう悩んでるうちに何か堂々巡りしちゃって……」

 捲し立てるナマエの勢いは、ぎゅるるという盛大かつ下品な音に遮られて急速に衰えた。
 ……ナマエのお腹の音だった。

「お腹が空いてるから、余計なことを考えるスキマが出来ちゃうんじゃない? とりあえずご飯にしようか」
「……うん」

 ナマエはとっても恥ずかしがっていたけれど、ぼくは、こういう生き物らしさを剥き出しにしてる彼女が大好きだ。ナマエにはそんなつもりがないとしても、ぼくには、そう映っていた。
 ――こんな荒れ果てた区で、よくこんなに毒気なく育って生き抜いてきたね、君は。
 適当に肉を咀嚼するぼくの横で、黙々と食事を進めるナマエ。そのまま食べるより噛みやすいからと、肉に火を通す彼女の食事方法を一度真似たことがあったけれど、ぼくには合わなかった。生の方がいいなあ、って。でも人が食べているものは、何となく魅力的に映ってしまう。

「ねえナマエ。一口ちょうだい」
「ええ? 前に“食感が変わり過ぎてる”ってしょぼくれてたでしょ」
「いいから、ちょうだい」

 渋々ナマエは肉を小さく切り分けてくれ――ナイフとフォークを完璧に使いこなしてる、と思う――、彼女がそれを差し出そうとする前にぼくは指で摘まんで食べてしまった。「行儀悪い!」とナマエが非難してきたけど、美味しく食事が楽しめたら作法も何も関係ないと思う。
 細工は嫌いじゃないから指輪というものをふたつ拵えて、一番心臓に近いという指にお互いはめて、まだ一か月と少し。その前からずっとナマエに「好きだよ」と言ってきたのに、こういう事態になるまで彼女は本気だと思ってくれなかった。
“冗談が冗談に聞こえない”とか“ウタにはもっと良い人が見つかる”とか言って。ぼくとしては珍しいぐらいドキドキしながらした告白を、バッサリ切り捨てるぐらいにナマエは彼女自身を無価値と信じ込んでいたから、薬指に枷をつけるまで本当に長かった。
 焼けた肉を噛み続けながら、ぼくはナマエの横顔を見つめる。
 どうしてこんなに自信がないのかな。どうしてそんなに臆病かな。ああ、だからこの場所でも生き残ってこれたのかな? 住みやすいとは嘘でも言い難い地区(ぼくはそれなりに楽しいけどナマエは渋い顔をしてる)にあえて住み着いていた理由自体はわからないままだけど。

「た、食べにくいよ。あんまり見られてちゃ」
「ああ、ごめん。気にしないで」

 やっぱり焼かない方が好きだなという感想は胸の中に秘めておく。
 ぼくより大分遅れて食事を終えたナマエは、食器を片付け戻ってくると、じいっとぼくを見つめてきた。さっきまで見つめられていた仕返しのつもりかな。

「……ウタはどうして私と結婚してくれたの?」
「いきなりどうしたの」

 ナマエの視線はぼくの手に移った。タトゥーではなく、左の薬指をぐるりと一周する輪っかを見つめていた。

「イトリさんみたいな抜群のプロポーションの持ち主でもなく、入見さんみたいに優しくて知的なひとでもなく、どうして私にしちゃったの?」
「もしかしてナマエ、マリッジブルーっていうやつになってる?」
「時期的におかしいでしょ。あとね、質問してるの、私のほう」「ああ、そうだったね。ごめん」

 でも、ぼくにはナマエが納得するような答えを出せる自信がなかった。
 だって、恋愛とか結婚って、そんなギチギチにつまった理論でするものでもないし、気が付いたらそういう気持ちになって、そういう方向に行ってしまうものなんじゃないかな。最初で最後の“結婚”に踏み切ったぼくには、同じく初めてな彼女に――できたら彼女にとっても最初で最後になってほしいなと思っていて――、適切な返答をするための知識も経験もない。ナマエもぼくと一緒にいていいと思ったからいてくれているはずなのに、どうしてここまで気にしてしまうんだろう? ……でも、これも、ぼくにないものを持つナマエらしさのひとつで、大好きで、楽しいから、ぼくはナマエが良いと思ったんだろうな。だからってナマエ以外の人が同じような振る舞いをしても惹かれたりしない自信がある。すべてはナマエだから。ナマエの言動だからぼくには愛おしくて愛らしくて究極的なんだ。
 ある日突然、漠然とそれに気づいて、どういう形で伝えようかと悩んで、その間に誰かのものになるなんて事態は避けるべく、迅速に気持ちを伝えて、奥さんになってもらった。
 上手くまとめてそれらを伝えようとするけれど、いまだかつてないぐらい思考が滞ってしまう。あまりだらだらと話していたら、ナマエはきっと、ぼくがわざわざ理由を繕っていると勘違いするに違いない。

「ぼくにとってナマエは究極だから」

 だからぼくは、短くてインパクトのある言葉で押し切るしかなかった。
 究極? と、ナマエが瞬きする。
 うん、と頷いてぼくはナマエを抱き上げた。膝の上に座らせて、ぎゅうっと抱き締めて、逃げられないように全身で愛情を伝えながら。

「恋は落ちるものとか、結婚はタイミングとか言うでしょ。ぼくにとってナマエは落ちるところで、ぴったりのタイミングで来てくれた、究極のひとなんだよ」
「ウタの言葉はいつもよくわかんない」

 ナマエは無抵抗だった。ぼくにしがみ付きながら、まだちょっと拗ねたような顔で文句を言ってくる。さっきに比べて彼女がいつもの調子に戻りつつあるのがわかった。

「これからもずっと一緒にいれば、いやでもわかってくるよ。ナマエのことは、ぼくに結構筒抜けだから。早く追いついてきてね」
「気長に待って」

 急かすぼくに、最初からナマエは降参してしまった。すっかり笑顔が戻っていたから、ぼくは不満を言おうなんて微塵も思わずにつられて笑う。

「……頑張ってこの場所に住んでてよかった」

 そうだ、こんな風に。ぼくにとって究極といっていいほどのタイミングで彼女は行動し、話す。
 ぼくが口にしなかった疑問の答えを、まるで察していたかのようにくれるから。

「ああ、ぼくが好きだからここにいてくれたんだね」

 この血の気の多いひとたちが集る場所にわざわざ居座っていたのは、怯えながらも結ばれる以前からぼくのそばにいてくれたのは、そういうことだったんだね。
 てっきり片想いをしていたのはぼくの方だとばかり思っていたけれど、もしかすると、それよりずっと先にナマエはそうだった? 一緒に住もう、危ないでしょ、と提案した時にほっとして微笑んだのは、安心したと同時に、その気持ちが大きかったんだね。そう自惚れてもいいよね?
 だってとっくにシェルターに引きこもってもよさそうな究極に愛しいきみは、相変わらず大人しく抱かれて嬉し泣きをしてるんだから。
「筒抜けだったんじゃないの? 私のこと」揚げ足をとられたのもなんだか嬉しくてこそばゆくて、ぼくは緩ませた頬をナマエに押し付けて返すしかなかった。


::企画「造花」さまに提出


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