Date et dabitur vobis.

「妖怪がいるの。そこにも。ここにも。どこにでも。きっとそれはこの街だけじゃないよね」

 そう言って笑う少女は、目前の男がその妖怪の類であることを見抜いていた。ただ、他の妖怪とは違う。妖怪は本来人間の目には見えぬ者。彼は人間も視認できる体を得ていた。しかしその代償として、人の生き血を摂取せねば生きていけぬ存在へ変わってしまった。絡繰り仕掛けの、機械の体。普段は人と同等の見た目を保ち、変じて妖怪の力を最大限発揮する仕掛けを加えられた新たな妖怪。彼らを御座と言う。

「あなたにも人間の血が必要でしょう。さあ」

 そう言って少女が両腕を、真っ白な両腕を男――鵺へと伸ばす。確かに彼は飢えていた。なにせこの体になってから人間の血を啜ったことなど。自らそうすべきと選んだ体ならば、自らの勝手で人の血を奪うべきではないと選んだのだ。自分たち妖怪と隣り合い生きる人間を脅かしては、妖怪を信じてくれる人間から存在可能の力を得る妖怪にとっては、御座の仕組みは妖怪と呼べるものではなかった。だからこそ。
 ……彼女はどうして“血が欲しい”ではなく“血が必要”だと言ったのだろう。
 鵺の中でふとわいた疑問。
 そもそもどうして、御座であることを見抜き、その体の事情すら見抜いたのか。
 気配も能力もただの人間だ。今さっき鵺が助けるまで、破落戸の慰み者にされかけていた。無抵抗で。

「私に出来るお礼はそれくらいしかないから」
「……何であっしが“血を飲む妖怪”だとわかったざんすか」
「人の強さじゃないし、一瞬ちらついたの」

 少女はそう言って、未だ鵺が握る拳銃を見た。正しくは銃口近くへ刻印されている文字を。

「そこに“鵺”って書いてある。鵺って、とっても有名な妖怪でしょう。私は、妖怪、好きよ」
「これを丸のみで信じたと……?」
「嘘を吐くひとに見えないから」

 鵺は嘆息し、銃をしまった。まさかこんなところから信じ込む人間がいようとは。
 死にかけにしてしまった破落戸を見てから改めて鵺は大きく息を吐いた。どうして気紛れにこの少女を助けてしまったのだろう。思った以上にややこしい相手だ。
 にこにこと微笑む少女の、曇りのない瞳が眩しい。

「そんな目ぇされてもなぁんにも出ないざんすよ」
「私ね、ひとりなの。ひとりになったの。機械の妖怪が私の家族みんな飲んじゃったから」

 鵺は言葉を失った。ますます関わるべきではないと思った。よりにもよって御座に襲われたうちの生存者だとは。
 しかしおかしなことに、少女は怯えるでも怒るでもなく、にこにこと鵺を見ている。

「だからね、ちょっとでも良いから一緒にいさせて。嫌なら、ここで私を食べて家族のところへ連れて行って」

 あっさり自分の命を天秤にかける危うさに、鵺は思わず返した。

「ちょっとの間だけ、ざんすよ」

 この手で人は殺めないと誓った身だ。選択するならば前者しかない。何も言わず逃げ去ることなど鵺にはできなかった。彼には、一人きりにさせている兄弟がいる。その為に今必死に戦っている。だから、ひとりぼっちの少女を見捨てられなかった。浅はかな同調、同情。
 案の定、少女は満面の笑みで「ありがとう」と頭を下げた。
 ……少女の名前は歩佳と言った。いつ頃ひとりきりになったのか知れないが、そのやつれようと危機感の消失した思考回路から、どれほどの傷を心に負ったか想像は出来た。歩佳は会って間もない鵺に一気に懐き、鵺の方が驚く羽目になった。自分に飛びついてくる細いほそい体をいつもあやすように受け止めては背中をさすり、少しずつ彼女が食事を行う意欲を取り戻せるよう、食べやすい流動食なんかを手に入れては与えた。
 ちょっとだけ。少しだけ。そうやって“なんとかの間”を繰り返し、くりかえし、いつの間にか、歩佳と歩くことが当たり前になっていった。ひとりの旅路に、ひとりが加わった。

「へえ、妖怪は写真に写らないのね」
「そうざんすよ。あっしや弟なんかは、体を変えちまいましたから、こうやって写るようになりました」

 御座になって間もない頃に弟と共に撮った写真を見せながら、鵺は弟のことを歩佳へ語った。

「その弟を迎えに行かなくちゃいけないんでさぁ、あっしは」
「私は足手まとい? 非常食ぐらいにはなれるわ」
「大丈夫ざんす、あなたの存在が足手まといになるほど弱くはない。……もしそんなに弱かったら弟には会えやしません」

 良かった、と少女が微笑んだ事実に、鵺の胸は安堵してしまった。いつの間にか鵺の中に歩佳という不思議な少女の存在は、強くしっかりくっついてしまっていたのだと気付いた。
 このままではいけない。だがどうすればいい。今はよくてもこの先はどうだ。御座でありながら御座と戦わねばならない自分と一緒では。それすら彼女の望みのうちなのか。戦いに巻き込まれて消えゆくことで失った家族の元へ辿り着くことが、彼女の目的なのか。いつも笑っているのは、いつも楽しそうなのは、いつか自分の願いが叶うと期待しているからなのか。
 ――叶わぬ期待に焦がれる少女の目を、覚まさせる一手が必要だと考えた。
 いつものように歩佳の食事を見守りながら、いつもとは違う覚悟を秘めて鵺は告げる。

「歩佳。きっとあっしには貴女の願いを叶える力はござぁせんよ」

 パンを頬張る歩佳の動きが止まった。ごくん、と最後にちぎった一欠けを飲み込み、少女は鵺を見る。

「どういうこと?」
「あっしといても貴女が家族の元へ行ける確信はない。死に急ぐこともありません。貴女はちゃんと人間の輪に入って生きるべきでやんしょ」

 最初からそうするべきだったことを、今更になって言い聞かせる。何もかも間違いだった。この少女の瞳に捉われるまま同行を許したときから。居場所を与えたときから。助けてしまったときから。なあなあにしてきたツケを払うときが来た。
 互いにとって互いの存在が同行者以上となってからそれを言う羽目になるとは。
 今更与えられた居場所たちをこの少女が容易く捨てられるはずもない。「どうしてそんなこと言うの」初めて彼女が怒る姿を見ることになった。パンをぐしゃりと握り潰して、じとっと恨めしそうに鵺を睨んでくる。

「今更、どうして。そうやって捨てるために私にいろんなものをくれたの?」
「謝って許されるとは、あっしも思ってやしません。本当に歩佳が幸せになるために、そうすべきだと今更気付かされただけ、それだけざんす」
「私だけだったの? たくさんもらって、たくさん嬉しくなって、たくさん楽しくなっていたのは」

 裏切りよ、そんなの。歩佳は小さな声でそう呟いた。
 近くにあった空瓶を手にした彼女は、ビルの壁目掛けて思い切りそれを投げる。激しい音を立て瓶がガラス片へと変わった。距離があったにも関わらず、破片の幾つかは鵺たちの方に飛んでくる。無意識に、ほぼ反射的に鵺は、破片と歩佳の射線に入り込んでいた。か弱い彼女に一片たりともぶつからないよう、その薄く白い皮膚を裂くことがないよう、庇った。
 それを見て、ますます歩佳は怒り狂った。

「どうしてまたそんな優しくするの! またもらった、私、何も返せないのに、またもらってしまった!!」
「何でざんしょねぇ……。体が勝手に動いちまったんでさぁ。仕方ないでやんしょ」
「そんな破片くらい、私どうってことない」
「あっしの気持ちとしては、どうってことあるざんすよ」

 やはり無理だと鵺は思った。自分がこんな調子では、別れられるはずもない。歩佳が怒るのも当然だ。
 自分の行動が更に歩佳を縫い付けることになっているのだから。
 誰にも何にも馴染めない機械の体を得、それを保つために人間の血を必須とする絶望を宣告され、唯一心を許せた弟と引き離され、鵺はひとりで続けてきた。なにもかも、なにもかもを。
 それを、ちょっと変わり者の人間に乱されてしまった。この変わり者がいないといけなくなってしまった。

「あっしは、いっちょ前に寂しがってたんでやんすかねぇ……」

 その時、鵺の体がふらりと傾いだ。「鵺、」何か歩佳が言いかけたのは気付いたが、どうしたのか訊き返すより先に鵺は倒れ込んでしまった。長期に渡って人の血を摂取しなかった体で無理をしたツケが来たというところか。自分でも驚くほど体が重く、手から足から震えてきた。目前にある“血”を察知した本能と、それを抑え込む理性の激しい葛藤が始まる。

「鵺、あなた、苦しいのね、苦しいのよね? ずっと人を食べていないから……!!」
「はは、いよいよ本当に歩佳といるのは難しいでやんしょ……これじゃあ……あっしは」
「辛いんでしょう、大丈夫、大丈夫よ」

 怒っていた歩佳の表情は、鵺を心配するあまり弱々しいものに変わっていた。鵺の頭を撫でて、何度も呼びかける。
 鵺の飢えを満たすものが何か判っている彼女が迷ったのは、一瞬のことだった。
 歩佳は鵺の体を起こそうとした。が、非力な彼女の体では僅かに上体を持ち上げるだけで精いっぱいだ。諦めて歩佳は、鵺の頭を自分の膝の上に乗せ、少しでも楽になるよう祈った。
 己の腕を、彼の口元に差し出しながら。
「歩佳……?」鵺の声に微笑んで歩佳は言う。

「食べてとは言わないわ」

 手には小さなナイフ。鵺から渡された護身用のそれ。万が一の時は使いなさい。そう言われた。
 そして今、ある種“万が一の時”であると歩佳は判断した。
 ――いつも鵺さんに庇ってもらってばかりで、怪我させてしまってるんだもの。
 決した少女は言うや否や、

「けれど、私を受け入れて」

 自分の腕にナイフを滑らせた。

「一滴でもいいから」

 真っ白な肌が薄く浅く切れて、伝う血が鵺の口へと落ちていく。痛みはあったが覚悟していたほどではない。歩佳は安堵した。
 呆然と鵺は、滴る歩佳の血を口で受け止めていた。体は血を受け入れ、求め続けていた。尽きぬ恵みの雫に歓喜していた。だが鵺の理性は、その歓喜に流されるほど惰弱ではなかった。
 皮肉にも血を摂取したことで活力を取り戻した体を跳ね起こして、歩佳の腕を掴む。

「何てことを……!」
「もらうだけじゃ嫌なの。私だってあなたに何かあげたくて、それがコレくらいしかなかっただけだよ」
「だからって……痛いざんしょ……!?」
「私の心配より、今は自分の心配をしてほしいわ」

 それでも鵺は素早く歩佳の腕へ清潔な布を巻き、応急処置を済ませる。
 彼の手際の良さに微笑みながら、少女は言った。

「血が必要になったら私にまた教えて、いつものお礼にあげるから!」

 嬉しくなったのか、彼女は無防備に鵺へ抱き着いた。鵺も仕方なく、と言った苦笑交じりの顔で受け止める。彼女が生きていることを、健康を取り戻しつつあることを、触れ合って確かめた。せっかくこんなに元気になってくれたのだ、無用な怪我や無茶はしないでほしい。ぎゅっとその身を抱き締め返して、鵺は大きく息を吐いた。妖怪から御座になっていなかったら、こうして直に歩佳と触れることもなかったのだと思うと、それなりにこの体も良いところがあるといえるのやもしれない。不都合と苦しみの方が大きいが、それだけではないのだと励まされているようだ。

「存外お転婆ざんすね、歩佳」
「そうよ。だから鵺さんもたまにはあげるだけじゃなくもらう側になってよね」
「……要らないって言っても寄越すつもりざんすね」

 ふふ、と耳元でくすぐったい笑い声がして、鵺は嘆息する。
 歩佳は反省はすれど全く後悔していない様子で、腕の傷を痛がるふうもなく笑った。

「与えるひとには、それと同等のものが与えられてしかるべきだもの」

 これでも足りないくらいなの、と擦り寄る彼女。
 機械の妖は、勘弁してください、と疲弊しきった声で返す。どうしてこんなにか弱い人間にここまで敵わないのだろう。女という生き物の独特の強さを、鵺は、ひしひしとその身で感じていた。

::企画「Mechanical」さまに提出

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