きえてしまわないように

※少しですが自傷描写があります



 歩佳は脆弱だった。日の光さえ毒である彼女が今まで生きてこれたのは、妖怪が彼女を守ってくれていたからだった。淡く光る妖怪の姿を見ることができた歩佳を、たまたま妖怪が気に入り、その気まぐれのまま守ってくれていたのだと。彼女の家族が御座に食い荒らされた時も、その妖怪がいてくれて、守ってくれたのだと。しかし日を追うごとに妖怪の身体が透けていき、それは何時しか姿を消してしまったのだと言う。彼女が空っぽになったのは、それからだ。
 そして今、また満たされることを知った歩佳は、密かに怯えていた。あの時のように空っぽになってしまう日を、想像してしまうのだ。

「鵺さん」

 眠る鵺の顔を、歩佳は辛そうな眼差しで見下ろしていた。心の臓が痛いのは今に始まったことではない。眩暈を堪えるのも慣れた。辛いのは自分の身体が脆いせいではないのだ。
 深い眠りのようだ。鵺は起きない。そっと歩佳は、鵺の顔を覗き込んだ。自分の身体が火照るのを歩佳は感じた。
 彼の眠りが深いのは、彼が本来取るべきである食事を拒んでいるせいだろう。歩佳は知っていた。鵺が、人の血を啜らねば生きていけぬ機械の妖怪……御座であることを。
 歩佳の視界の隅に留まるものがあった。ガラスの破片だった。迷わず手にとり、歩佳は息を呑んだ。そっと左の手首に破片をあてがい、強く引く。思ったより鈍い破片は、手首の肉を引っかくように走り、真っ赤な血を滲ませた。

「痛い……」

 少しだけ顔を歪めながら、歩佳はまた鵺を見た。裂いた手首から伝う血が、指先へと流れていく。歩佳は血の伝う指先を、鵺の口元へ持っていった。半開きの口の中へ、真っ赤なしずくが落ちていく。反射的に喉を鳴らす鵺を見て、歩佳が笑った――その時だった。
 異変を察知した鵺が、目を開けた。

「――歩佳!?」
「おはよう、鵺さん。おいしかった?」

 微笑んだ歩佳に対し、鵺は呆然としていた。しかしすぐにその表情には激しい感情が満ち、歩佳を睨む。
 弾かれた様に起き上がり、鵺は叫んだ。

「何て馬鹿な真似をしてんだ、歩佳! お前さん、自分で切ったのか!」
「あなたには人の血が必要でしょ?」
「いつ誰が“血をくれ”なんて頼んだ!?」

 歩佳は困惑していた。鵺が激昂する理由が判らずにいた。右手の引きつった傷からはまだ血が滲む。

「私、鵺さんに、元気になってほしくて」
「確かに御座の身体は、人間の血が無いとがたが来ちまう。けど、あっしは人間の生き血を啜ってまで生きるつもりは無ぇ! よりにもよって、お前さんの血を啜ってまでは!」
「でも鵺さん、力が無かったら、大切なものを助けるのも」
「血なんか飲まなくても、あっしはやれる!」

 鵺は叫びながら、歩佳の両肩を掴んだ。細く、骨と皮しかないような頼りない肩だった。歩佳の目は、涙で揺らいでいる。
 そんな彼女を見つめ、鵺は、言った。

「だから、お願いざんす。歩佳。あっしのためにも、自分で自分の体を傷付けるのは止めて下さい。ただでさえ儚いお前さんが、ますます消えちまいそうで……あっしは、恐ろしいんでさ」

 鵺の言葉に、歩佳は顔を歪めた。

「わた、し……痛いの、いやだわ……痛いの、こわいの」
「なら、どうして」
「でも、鵺さんは、血がないと死んじゃうかもしれない、から……」

 肩を震わせながら、彼女は必死に鵺に答える。答えようとする。

「わたし、こわいの。痛いのより、鵺さんが死んじゃうの……一番、こわいの、いやなの!!」

 歩佳は子供のように泣きじゃくった。嗚咽も涙もそのままに溢れさせ、堪えることなく泣いた。
 死に掛けたところを救った時にも見せたことのない涙。
 鵺は、歩佳がなく姿を初めて見た。痛々しいほど心をむき出しにして彼女は叫ぶ。

「みんな死んじゃうの、いやだった! わた、わたし、妖怪さんにっ、お礼いえなっ、まま……!! 鵺さんまで、いなくなったら、っ、やだぁぁあ!」
「歩佳、あっしも強く言い過ぎちまいました。すいませんでした。気持ち…判ってるつもりでやんしたが、ちっとも判ってやれてなかったでやんすね……」
「ばか、鵺さんのばかぁ! うぁああぁ……!」

 胸に飛び込んで来る歩佳を受け止めて、鵺は謝り続けた。歩佳を宥めながら、もう二度とこんなことはしないように約束をさせて。
 右手の血はなかなか止まらず、歩佳は少し体調を崩してしまったけれど。
 ――鵺さん、止まるまで舐めて。勿体ないから……。
 そう乞われ、言われた通りに鵺が血を舐めとっている間、歩佳は本当に幸せそうな笑顔を浮かべていた。
 それを“病んでいる”とは思えなかった。

 消えてしまわぬよう、眠る彼女を強く抱き締める。控え目なぬくもりと、口の中に残る薄い鉄の味。
 愚かにも幸せだと思う自分が、可笑しくて仕方なかった。
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