さみしさもなかったよ

 歩佳。
 呼べば彼女はすぐに鵺を見る。
 意味もなく、気が付けば彼女を呼んでいた。すり寄る淡い温度に頬が緩む。そんな中でも、自分がするべきことを忘れたりはしなかった。あの男を殺す。弟を助ける。忘れようもなかった。だからこそ鵺の揺らぎは止まなかった。
 剥き出しの白い首に、御座の本能が何時目覚めるとも知れず。それでも、淡い雪の少女を手放そうとはしない。少女の赤い双眸は、鵺に縋りついて離れない。離そうとはしない。

「鵺さん。私、きたないの。知らないひとにいっぱいいっぱい触られたわ。口の中もこの中も、臭くて臭くて死にそうだった。ずーっと死ぬの待ってたんだけど、死ななくて良かった。鵺さんに会えたものね」
「汚くなんかないざんすよ、歩佳さんは真っ白です」
「私がきたなくなった臭いのも白かったわ」

 温い湯に浸かり、歩佳は何度も何度も体を洗った。肌が擦れて赤くなるまで。それを鵺は止めた。じんわり血の滲む彼女の肌を、労るように手を伸ばす。濡れた肌を拭き、清潔な包帯を巻いてやり、服を着るように促す。歩佳は、裸を晒すことに抵抗が無かった。
 子供を慈しむように、鵺は彼女に尽くした。素肌のまま縋りついてくる歩佳を優しく引き離し、服を着てからにしなさいと窘める。言うとおりに服を着た歩佳を、鵺は褒めてやった。そうすれば屈託のない笑みを浮かべ、彼女は鵺にぎゅうっとしがみついてくる。

「きたなくない? においしない?」
「大丈夫でやんすよ。汚くない。匂いも、歩佳さんの良いにおいだけ」
「よかったぁ」

 人間が妖怪を忘れたのも、無理はないかもしれない。人間は、人間が怖くて、それだけで手一杯なのだ。だが彼女のように、妖怪を見て、触れようとするものもいる。しかし歩佳は特殊過ぎた。妖怪をちっとも恐れてくれないのだ。
 家族を御座に食い荒らされようとも、彼女は恐れなかったのだ。いや、本当は恐れたのかもしれない。あまりに恐ろしくて、その感情ごと忘れてしまったのかもしれない。

「鵺さん、あたたかいね。とても気持ちいいの。妖怪はみんな楽しいわ。私のこと、驚かそうと必死なの。大好きよ。みんなは妖怪が見えないなんて、人生を損してる」

 弱く生まれ、幼い頃から妖怪を見、ついには人間から見放された彼女の人生こそ「損」なのでは無いか。
 思いこそすれ、鵺がそれを口にすることは無かった。
 歩佳はどんなに他者から嬲られようと、自身の生を後悔していなかった。こんな人生を送りながらも、死を望むことがあっても、彼女は何も恨んではいなかった。
 鵺といるようになった歩佳は、ひたすらに鵺に縋った。嫌われたくはない。けれど一緒にいたい。いつまでも。歩佳は鵺の存在を意識してから、嫌われないために努力することを始めた。染み付いたにおいを流そうと体を洗うのも、鵺の言葉には素直に従うのも、すべては彼女が鵺を愛しているからだった。
 すべてを洗い流して、鵺だけで満たして貰えるように。まっさらな彼女は、尚もまっさらになろうと必死だった。

「鵺さん、私ね、鵺さんが大好き。助けてくれるひとが、私に触れてくれるひとが、いるなんて思わなかったの。大好きなの」
「そりゃ、ありがたいざんすね」
「こんな私のこと、きれいだって言うのも、あなただけ。私のこと、私として見てくれたのも。家族じゃなく、あなただけ……」

 歩佳は笑う。

「鵺さんに会えて、私、初めて“生まれて良かった”と思えたの」

 その瞳には涙が滲んでいた。ぽとりと零れ落ちるしずくは、歩佳のワンピースに淡いシミを作る。喜びなのか、悲しみなのか。どちらともとれる涙の粒。静かに流れるそれを、鵺は指先ですくった。何度も、何度も。彼女の頬を撫でるように穏やかな手つきであった。
 歩佳の涙が止むと、鵺はそっと彼女を抱え上げた。すり寄り身を任せてくる温もりに微笑みを浮かべる。

「今日は疲れたざんしょ。もう寝ましょ」
「うん」
「はは、そんなにくっつかなくたって逃げやしませんて」
「あったかいんだもの」

 久々にまともな寝床に横たわった。安物のベッドだが、野宿に比べたら十分上等だ。
 鵺の腕の中で、歩佳は猫のように丸くなる。ぴったりと付いて離れない彼女に、そっと囁く。

「おやすみ、歩佳」

 おやすみなさい、と、歩佳が返してくれたことを確かめると、鵺も目を閉じた。
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