ふたりだけでいいの

 歩佳は食事を摂らなかった。
 最初のうちは鵺も「食欲がわかないのだろう」ぐらいに思っていたが、助けて5日を過ぎた辺りから流石に異常だと気付いた。

「お前さん、何処か具合でも悪いんざんすか?」
「どうして?」
「食べるものも食べないで、ぼんやりしてるだけで。死んじまいますよ?」
「だめなの?」

 鵺は言葉に困った。「ちょっと待ってなさい」とだけ告げて、ほんの少し姿を消す。歩佳が次のまばたきを終えた頃には、彼は食料を抱えて戻ってきていた。

「さ、食べて下さい」
「うん、判った」

 彼女が日に弱いことを知っていたから、鵺は日陰に入った。こうすれば歩佳は、鵺の後を追い、日陰に座るからだ。雛鳥にも勝る従順さで自分を追ってくる少女に、鵺は言い表せぬ感情が湧き上がるのを感じていた。
 心地よくはない。きりきりと切なく痛みが募る。しかし、手放したくない痛みであった。
 風が吹くと、歩佳はよく身を縮めて耐えた。サイズの合わないワンピースは、彼女の身体を暖めてはくれない。鵺が何処からか適当に拝借してきたそれを、歩佳は文句ひとつ言わずに着ていた。むしろ嬉しいらしかった。
 鵺の隣に腰を下ろした歩佳は、さも当然のように鵺へともたれかかる。ぴったり寄り添ったまま、彼女は楽しそうに笑う。
 やっぱり新しい服か、上着が必要だ。鵺は思った。

「鵺さん、水貰っていい?」
「どうぞ」

 水の入ったペットボトルのキャップは、先に外してある。歩佳は驚くほど非力だった。彼女にこれを開けさせようものなら、手や骨を痛めるだけで終わるだろう。
 歩佳が少しずつ、水を飲む。ゆるく動く白い喉を見て、鵺はほっと胸を撫で下ろした。彼も彼で、空いた腹に食べ物を押し込んでいく。
 しかし歩佳は、水を飲んだきり黙ってしまった。ぼんやりと向こうにある木を眺めている。正しくは、木の影にいる妖怪を、だ。丸い一つ目の犬が、歩佳と鵺をじっと見つめている。

「久しぶりね、わんちゃん。……そうだね、判ってるけど、疲れちゃうの。うん、うん……」
「歩佳さん、先に食べなさい。本当に倒れちゃったら大変ざんしょ」
「うん……。わんちゃんも言ってる……。でも疲れちゃうの……」

 力なく寄りかかってくる歩佳の肩を支えながら、鵺は悩んだ。
 ゼリーだとか、そういう食べ物をもっと持ってきてあげるべきだった。しかし何時までも流動食では彼女の身体も危うい。ひとまず、パンをほんの少し千切ってみた。歩佳の口に押し込み、彼女が噛んでくれることを祈る。
 心配そうな鵺の眼差しを受けて、歩佳は少しずつ口を動かした。こくんとパンの欠片が飲み下されたのを見て、鵺はふうと息を吐いた。
 そんな鵺を見て、歩佳が力なく笑う。

「鵺さん、心配性なのね」
「誰のせいだと……」
「ごめんなさい。心配してもらえるの、嬉しいの」

 赤い双眸を細めて、歩佳は手を伸ばした。そうして鵺の頬に触れて、愛おしそうに撫でる。

「お水、ちょうだい。鵺さん」
「ちゃんと自分で飲めるざんしょ?」
「……そのままじゃ冷たくて、お腹が痛くなるの」

 飲ませて、ちょうだい。
 歩佳の笑顔と眼差しに、鵺はほとほと弱かった。会って間もない少女に此処まで振り回されることになろうとは。
 しかし、手間は掛かれど、この少女を愛でる己が在るのは事実。
 鵺は苦笑した。
 ただただ、少女の望むままに、動く。そっと水を含んだ。歩佳は緩く口を開いたまま、鵺を見上げている。
 細い彼女の頬に手を添えて、唇を重ね、ゆっくりと水を流し込んだ。丁寧に、丁寧に。薄く柔らかな唇が、肉の少ない身体が、熱くなっていくのがよく判る。白い肌を淡く赤色に染めながら、歩佳は水を飲み干した。そっと唇を離せば、はあ、と熱い吐息を零してみせる。

「変な感じ……でも、すごく、幸せだわ」

 少女の眼差しに、ほのかな悦びが宿る。

「鵺さん、もっとちょうだい」
「あっしも一応、雄ざんすよ歩佳さん」
「妖怪さんも、人間相手に感じるの…?」
「今のあなたなら、よーく判るんじゃあないんでやんすか」
「うん、うん……」

 歩佳は嬉しそうに頷く。

「散々よごれたはずなのに……気持ちいいの、初めてなの」

 すり寄る彼女を、鵺は諦めたように笑いながら抱き締めた。
 細く、骨しかないような身体。しかし、鵺よりもずっと熱いそれ。
 情けないとは思いながら、離れようとなどとは考えられなかった。
 最期まで、傍に置けはしないかと。
 愚かながら願った。
 一つ目の犬は、何時の間にかいなくなっていた。
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