ひとつになろう

「ねえ、鵺さん。私を食べて良いんだよ」

 色の抜け落ちた真っ白な髪は腰よりも長い。唯一、瞳だけは、体を巡る血をそのまま透かしたように赤い。か細くて風に掻き消えるような声は、ひどく穏やかだった。

「あっしにゃぁ、一体全体どういう意味か判ら……」
「私はもうすぐ死ぬの。体が痛いわ。子宮が痛いわ。この体が長く持たないこと、私が一番に判ってる。燃やされて何もなくなるより、鵺さんの飢えを満たしてあげたいの」

 出逢ったときから少女は異質であった。故に人間から弾かれ、居場所を無くしていた。
 家族を“機械の妖怪”に殺されたと笑う少女の目には、その妖怪が見えていた。少女の弱い視力でも、妖怪の姿だけは淡く輝き、はっきりと映るのだと。

「私、判るのよ。鵺さんガマンしてるでしょ。食べないのって、生き物みんな辛いもの。あの機械の妖怪は美味しそうに人間を食べてたの。あいつは話してた。機械の妖怪は、人間を食べなきゃ生きてけないんでしょ。鵺さん苦しいんでしょ。私を食べて良いんだよ」
「歩佳さん、あっしは」
「あなたは、自分のためには人を襲えない。でもね、私のためには襲ってくれるでしょう。私を慰み者にしようとした人間を追い払ってくれたように」

 鵺は困った。
 些細な気紛れだったのだ、彼女を、助けてしまったのは。
 たまたま彼女が襲われているのを見て、この赤い瞳にとらわれてしまったのだ。人からかけ離れた妖しい光に。
 見せかけの殻の下にある中身を見透かす、誰彼とも似て非なる緋色。むき出しの色。
 服を引き裂かれ、無遠慮に肌に触れる男たちに怯えるでもなく、彼女は、立ち尽くす鵺を見ていた。
 ゆるく開いた唇で、

『どなた?』

 そう一言、呟いて。
 助けを乞うわけでもなく、見るなと泣くわけでもなく、彼女は無垢に鵺に尋ねたのだ。
 それに答えるために、鵺は彼女を助けてしまった。

『あっしは、鵺』
『私、歩佳』

 それから、いけないとは思いつつ彼女と共にいた。傍にいてやらなくてはいけないと思った。この子は一人で生きてはいけない。
 儚い見た目と初対面の印象より歩佳はよく喋り、よく笑う子であった。

『私ね、妖怪が見えるの。あっちにいるのも、鵺さんの後ろにいるのも。……鵺さんの顔は、ここまで近づかないとぼやけてしまうのにね。ああでも、綺麗だわ。かっこいいわ。鵺さん』

 臆することなく鵺の顔を引き寄せ、歩佳は笑った。

『鵺さん、私の家族を食べた妖怪と似たような色の血をしているのね』

 彼女は怯えることを知らなかった。
 躊躇いも知らなかった。
 だが、鵺が人では無いことを、言わずとも知っていた。
 今まで彼女はそれを大した問題だと思わずに来た。寧ろ、だからこそ、鵺に願った。

「私のために私を食らってください。お願い、ねえ。あなたのそばから消えたくない。離れたくない。私はあなたとひとつになりたい」

 しくじった、と鵺は思った。
 彼が思っていた以上に少女の世界は狭く、その狭い中を鵺が全て満たしてしまっていた。
 こんな状態で脆い彼女を引き離そうものなら、どうなってしまうのか。最悪の結果が間違いなく訪れる。そう確信できた。それほど鵺もまた、歩佳へ深くのめり込んでいた。

「最近、水の妖怪の夢を見るの。私を食らおうとするの。それはとっても近いわ。私イヤよ。鵺さん以外に食べられるなんて。ね、鵺さん。弱ったままじゃ駄目よ。誰かを探してるんでしょう。私を連れて行って。その胃の中で良い子にしてるから」
「あっしには、歩佳さんを喰らうなんて」
「お願い、お願いよ鵺さん」

 泣きそうな声と共に倒れ込んで来た歩佳を、鵺は反射的に受け止める。最低限の食事すら受け付けられなくなっていた歩佳のあまりに骨ばった体の感覚に、ずきりと心臓が痛んだ。ますます彼女の言葉の信憑性が増していく。

「歩佳さん、あっしには無理です。あなただけは、喰らいたくは無い」

 それでも引き離そうとする鵺に、歩佳は目を丸めた。ぎゅうっと鵺にしがみつき、泣き叫ぶ。

「駄目よ! 喰らうならば私だけにして! 私だけよ、鵺さん! 私があなたの初めて、あなたの終わり! 私の初めても全てあなたのものなのよ!!」

 何度も歩佳は叫んだ。泣きながら、鵺の声をかき消すように叫び続けた。それでも鵺の力に彼女のか細い体でかなう筈もなく、遂に離されてしまう。

「あっしには、勿体ないざんすよ」
「やだ……そんなの、いや」
「歩佳さん……」

 唇を噛み締めて、涙を堪えて、やつれた歩佳は覚束ない足取りで走り出す。鵺を置き去りにして。
 走り去る彼女を追い掛けることなど、人ならざる身を改めて痛感して動けぬ彼には出来るはずもなく。
 ただ、ただ。
 しばらくは呆けていた。
 ――叫びが聞こえるまでは。

「あぁぁああああぁ!」

 考えるよりも早く反射的に身体は動き、黄金の双銃を取り出しながら鵺は駆けた。駆けた。
 ……その先には歩佳がいた。
 真っ白な肌に伝う真っ赤な線。倒れたままぴくりともしない、いとおしい少女。水浸しのコンクリート。少女を傷付けたであろう、妖怪――否、御座は今にも彼女を捕らえんとしていた。
 全てが鵺の逆鱗に触れた。
 雷が、すべてを払う。




「ね、鵺さん……水の妖怪だった…」

 残された命の灯を精一杯に燃やしながら、少女は、敵を滅した鵺を見上げて微笑む。まるで悪戯が成功した子供のように無邪気な笑み。
 今までは温もりをくれた笑みが、今は鋭く冷たい針となって彼の心を深く鋭く突き刺してくる。

「歩佳、すまないことをしちまいました、あっしは馬鹿だ。本当はあっしが怯えていただけで、歩佳、お前さんが本気だと判ったからこそ、あっしは、」
「良いの、良いの……。同じ人間でも私を判らないのに、あなたは判ってくれた……食べられる前に、助けてくれた」

 鵺は、力のない歩佳の身体を抱き締めた。僅かなぬくもりが、まだあった。折れて動かない右腕の代わりに、彼女は必死に左腕をあげ、鵺に触れる。

「妖怪を、好きになってもいいよね……私、気持ち悪い子だけど……鵺さんのこと、本当に好きなの」
「気持ち悪くなんかないざんすよ、歩佳、お前さんみたいに綺麗な子は何処にもいやしない」
「本当に? ……もっと早く、聞きたかった」

 歩佳は、もう一度告げた。

「ね……私をたべて。あったかいうちに。今日を過ぎたら、私、もう冷たいわ。判るのよ」
「歩佳……」
「あなたと一緒に生きるの、私、あなたに食べて貰えたら、死なないの……」

 口の端から伝う血が、彼女に近付く死を伝えている。ただでさえ弱く、脆い彼女の、かわいそうな最期を。
 今までいい事なんて何もなかった彼女の人生が、何もないまま終わってしまう。鵺は酷く狼狽えた。何もあげられずに、永遠の別れを迎えてしまう。どうしてやればいい。自分は、どうすれば。答えはもう一つしかない。でも、それでも何か別の答えを探したくて仕方なかった。
 愛しいひとに抱かれる少女自身は、何もないどころか幸せに満ちた人生だと思って笑っているのに。

「あぁ、でも……そうだ。私、もうひとつ、鵺さんにお願いがあるの…」
「お願い…?」
「うん……」

 恥ずかしそうに目を細め、歩佳は呟くように頼んだ。

「私ね、キスしたことないの……。だから、鵺さん、私を食べる前に……」

 表情はいつものように穏やかなまま。死を悟りながらも、それを感じさせぬ微笑みであった。
 鵺も、覚悟を決めたように笑い返す。

「あっしなんかで大丈夫でござんすか?」
「ん、初めて、全部、あげるの……私が、貰って欲しいだけ、だけど」
「……歩佳、あっしは」
「約束ね、ずっと、ひとつになるの、私――、幸せよ」

 水に濡れたせいでもなく、空気が冷たいせいでもなく。
 歩佳は緩やかに冷えていった。息は、不意に、とうに止まっていた。
 鵺は一人、心から抜け落ちたものの大きさへ茫然としていた。
 ……ろくに返事をしてやれなかった。
 ……自分は、結局、逃げてしまったんだろうか。
 しかし、今更幾ら悩み後悔しても、何にもならない。
 僅かにぬくもりが宿る歩佳の身体を、鵺はひっそりと抱き締め直した。
 実らぬ思考に時間を費やすより、最期の願いを叶えてやらなくてはいけないと思った。

「約束、で、やんすからね」

 重ねた唇は、血の味がした。
 薄い皮膚に牙を立てれば容易く食い込み、筋っぽい肉があった。まだ十分に温い血を啜る。噛み砕いた骨は骨と言うには脆く、弱い。
 どれをとっても人間としては不十分で、彼女の過ごしてきた過酷な環境を物語るようだった。
 こんなにまでなっても、彼女は周りを「憎い」とは言わなかったのだ。家族を食らった妖怪を恨むことも無かった。鵺が御座と知っていながら「好き」だと笑った。
 人間を、妖怪を、御座を知り、さも当然のように受け入れた小さな小さな歩佳。小さくて短い生涯。
 気が付くと鵺は泣いていた。
 歩佳の体を喰らいつくすのには、それほど時間も掛からなかった。
 最初で最期の愛するものの味。御座の本能も衝動も押さえ込む、きつく重たい楔の味。
 雨が降る。
 激しい雨音に、鵺の慟哭が響く。
 歩佳。歩佳。

『ひとつになったら、忘れることもないでしょう?』

 体という殻を失った彼女の魂の残滓が、優しく鵺へ語り掛けてくれていた。
 あたたかかった。
 あたたかい雪だった。
 何よりも儚く、淡く、胸を突く。

『ありがとう、鵺さん』

 礼なんて止してくれ。あっしは感謝されるようなことは、何ひとつしてやれなかった。それどころか逃げ出しかけて、結局また大切なものを失った。守れるはずだったのに。向けるならそんな言葉じゃなくていい、怒ってくれ。憎んでくれ。呪ってくれ。
 心の中で鵺は答える。それでも、

『ありがとう』

 歩佳の柔らかな声は、残滓が浮かべる笑みは、残酷なまでに慈愛に満ちていた。
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