悲しい鳥

 いとしいひとが、泣いていた。

 くずおれて、両手で顔を覆って、嗚咽を必死に堪えながら。
 俺がいくら口を開いても、喉を絞っても、声にならない。
 伸ばした手は宙を掻くだけで、彼女に届かない。
 彼女は泣き続ける。

『こわい、の』

 震える彼女の肩を抱いて、呼び掛けてやりたい。
 俺がいる、と。
 だから、大丈夫だ、と。
 伝えたい。なのに。

『こわいの――』

 気が付いたら、俺と彼女の距離はどんどん広がっていた。
 不意に俺は気付く。
 伸ばしていた俺の手は、黒く変色していた。こびりついた、血のせいで。
 遠ざかる彼女を呼び止めるのも、俺には無理だと知った。
 声が出ないんじゃない。
 俺は、彼女の名前を知らなかった――。


◆◆◆


「アルタイル?」

 呼ばれて目を開けると、柳眉を下げた彼女が俺を見ていた。
 心配そうな眼差しに、内心慌てて返す。

「大丈夫だ。何でもない」
「うなされていたわ。まさか、怪我が痛む?」
「平気だ」

 彼女と出会ったのは随分前だ。兵士に絡まれていたところを俺が助けたらしい。すっかり忘れていた俺に対し彼女はずっと覚えていたようだ。
 そして数日前、またこの町に来た俺は、追っ手を撒いている時、彼女と再会した。

『こっちへ!』

 腕を掴まれ、彼女に引かれ……。成り行きで俺は、彼女の家に匿われた。
 すぐに出ようとした俺に有無を言わせぬ気迫で近寄り、怪我の手当てまで始め、「治るまでゆっくりしていって」と、やはり有無を言わせぬ気迫で笑った。
 見た目とは真逆に強引な彼女に、情けないことに気圧されてしまった。

「包帯を変えましょう。腕を出して」

 柔らかな声音に、素直に従う。
 彼女には逆らえなかった。彼女の行動のひとつひとつには、慈愛が滲んでいた。
 アサシンとしての己の立場を忘れて、その慈愛に触れていたいと、思ってしまった。
 そんなことは、初めてだった。

「だいぶ良くなりましたね」
「貴女のお陰です」
「私が今此処にあるのは、貴方が助けてくれたお陰よ」

 だからお互い様ね、と彼女は笑った。
 どう返したら良いのか見当もつかず、静かに目を伏せる。彼女は気分を害した様子もなく、くすくすと声を上げて笑い続ける。幼い子供をからかうようなそれ。
 妙に、恥ずかしい。

(――もう……大分、傷も癒えてきたな)

 不意に頭の芯が冷えて行く。
 彼女のそばにいたい。
 彼女とともにいたい。
 普通の男なら許されたであろう感情は、アサシンである俺には不要なものだった。
 あってはいけない。
 人並の幸せを、望んでしまうなど。
 ――夢で見た彼女の姿は、きっと、可能性として有り得る“未来”のひとつだ。
 赤黒く染まったこの手では、彼女に触れることなど許されない。
 人としての沢山のものを捨てて久しいこの俺には、彼女の名前を呼ぶ権利など在りはしない。
 あの夢のように、彼女を悲しませてしまう。彼女が、全てを恐れてしまう――。


 その夜。
 俺は一切語らず、彼女の名前も尋ねず、闇に飛び出した。
 眠り続ける彼女は、気付かない。
 このまま、俺のことを忘れてくれたら良い。
 夢だったんだと、笑い飛ばしてくれれば良い。

『アルタイル』

 もう二度と、貴女が俺の名を呼ぶことがありませんように。
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