「夷澤くん、変わりましたね」
急な私のつぶやきに、夷澤くんは一瞬だけ目を丸めた。
本当に一瞬だったそれは何時ものように鋭い視線を思いだし、私から逸れていく。
私と夷澤くんは、並んで、陽が差し込む廊下を歩いた。
「面倒なセンパイが増えたからな」
「ですね、良い先輩がたがいっぱいになりましたよねぇ」
「オレの話聞いてたか?」
「はい、聞いてますよ」
私が笑うと、夷澤くんは「聞いてなかったろ」とふてくされたように呟いた。
ほんの少し前の彼にはなかった表情と言葉。
傍から見れば、夷澤くんの態度はまだぶっきらぼうで素っ気なく見えるかもしれない。これでも十分柔らかくなったのだけれど。
「あ、今日は部活ですか?」
「そっちこそタロット研究会だろ?」
周りを突き放して突き刺すようだった冷たさが、今では微塵も見当たらない。ひたすら『誰か』に噛みつくようだった無謀さもない。何かに追われ、憑かれていたかのような苦しそうな姿も。まあ、今も十分野心に満ちてはいるのだけれど。
質問に質問で返してきた夷澤くんの眼差しは、眼鏡越しに私をしっかり捉えていた。
誰かが開けっ放しにしていた窓から、冷たい風が滑り込んでくる。私の髪を浮かせながらそれは過ぎていった。
「冷たい風だな」
「もう12月も半ばを過ぎましたからね」
「そう言えばそうだったな。ドタバタしてて忘れちまってたよ」
呟きながら夷澤くんは窓に手をかける。校庭から聞こえてくるのは、一足早く部活を始めたテニス部の人たちのものだ。「いっくよー」と、八千穂先輩の明るく無垢な声が響く。窓が閉まりきる直前に聞こえた悲鳴は、彼女のスマッシュを受けた部員のものに違いない。八千穂先輩のスマッシュの破壊力を、私は色んな人から聞いている。タロット研究会の先輩、目の前のクラスメート。他にもたくさん。誰もが認める威力だった。
私はテニス部に入らなくて良かったなあと心底安心したものである。
「……ううん、でも運動部で体鍛えた方良かったかも」
「何考えてんのか知らねえけど、お前は運動部なんて無理だろ。すぐぶっ倒れそうな顔してる」
「夷澤くんに叩かれても泣かないぐらい強い子ですよ私」
「なっ、昔のこと引っ張り出すなよ!」
昔と言っても数ヶ月前のことだ。血走った目で荒々しく何かを探していた彼と口論になった時。“オレは《力》が欲しい”とぼやいた彼に、“今の貴方が《力》を手に入れても身を滅ぼすだけ”なんて偉そうに私が返したせいだった。
ちなみに私も叩き返したので、おあいこだ。
「私はね、私自身が《力》を持つからこそ、夷澤くんには勢いだけで《力》を持って欲しくなかっただけですよ」
あんな風に誰かに真っ向から口答えしたのは初めてだった。
ひっそり自分を偽り、丁度良い体裁を繕いながら生活していた私には、新鮮な瞬間だった。赤く腫れた頬を見て、笑ってしまったぐらいに。
「……悪かったよ」
物思いに耽る私の耳に、か細い声が届く。
ハッとして顔を上げると、ばつの悪そうな表情をした夷澤くんが視界に映った。
「あの時は悪かった」
「え、何が?」
「……叩いたことだよ! 謝りそびれてたろ、だから今謝ったんだよ!」
赤い。あの夷澤くんの顔が赤い。
私はひっそり慌てた。
「謝らなくて良いじゃないですか。あれはおあいこです。私の方こそ生意気にすいませんでした」
クールだなんだと大層人気な――ファンクラブも出来ているらしい――彼の、素の姿を見た気がする。
口論したときは、こんなに話すようになるとは思わなかった。謝ったり謝られたりするとは思わなかった。
夷澤くんは本当に変わった。あの不思議な《宝探し屋》の先輩のお陰で……。
「夷澤くんは何となく違う場所にいる人に思えていたんですけど、存外近い場所にいたんですね」
ぽつりと零した私の言葉を、夷澤くんは律儀に拾ってくれたようだ。「はぁ?」と端正な顔を不思議そうに歪めて、私を見る。
じっと見返していると、根負けしたように彼は苦笑を浮かべた。
「オレもお前は別次元でプカプカ浮いてるような奴だと思ってた」
――根負け、じゃない。
初めて見る、大人びた風の夷澤くんの姿だ。
「人形みたいに良い面ばっかりしてんな、って。あんなに平手打ちの上手い奴だと思わなかったよ」
小馬鹿にするような笑いとともに呟く夷澤くんが、とても眩しく見える。
夕陽のせいだろうか。
「夷澤くん」
「何だよ」
それとも。
私の中で芽生え始めた、年相応な人間らしさがもたらした時めきなのだろうか。
「私、夷澤くんのことを、もっと知りたいなあと思いました。これからもまたお話しましょうね」
あまりにも言葉のままな私の申し出を、夷澤くんは嬉しそうに「こっちこそ頼む」と笑ってみせた。
――そうやって試しに伸ばした手を、あなたが取ってくれたこの時間。
今しばらくは、みんなに内緒にしておきます。
::企画「神苑」さまに提出