帰すべき背景 不思議なこともあるものだ、と幾月は思った。
閉鎖された学園内で、絶望的な状況の筈の中で、皆が笑っているのだ。
食堂には大きなクリスマスツリーがあり、それに合わせた飾りが食堂中に施されている。テーブルにはたくさんの豪勢な料理、中心にあるのはケーキだ。
――まるでクリスマスのようじゃないか。
食堂の入り口で幾月が呆然と突っ立っているのに気づいた朝日奈が「幾月!」と声を掛ける。
「もー! こんな日も遅刻? 幾月らしいって言えばらしいけどさ」
「す、すまない朝日奈さん」
「朝日奈さん……? やだな、何でそんな他人行儀なの? いつもみたいに“葵ちゃん”って呼んでよー!」
バシンッとやや強めに肩を叩かれ、幾月はよろめいた。
――いつもみたいに?
どういうことか、全く判らない。普段から自分は彼女を、こう呼んでいたはずなのに。
相も変わらず幾月が困惑したまま立っていると、今度はパーティー帽子を被った葉隠が近づいてくる。
「どしたー幾月っち。なんかノリが悪ぃぞ? とりあえずホレ、帽子でも被れ!」
「うわっ」
葉隠に強引にパーティー帽子を被せられた幾月は、大いに戸惑った。しかし元から感情が顔に出にくい質のために、相手に彼の動揺は伝わらない。ついでに言えば幾月は、まるで使った後のクラッカーのようなこの帽子が、あまり好きではなかった。だが、食堂を見渡せば皆が帽子を被っている。あの十神ですら、だ。
幾月だけ被らないで過ごすわけにはいかないことを、流石に理解した。被らなくては逆に自分が異質で、十神すら受け入れたものを自分が嫌がったとなればどんな叱咤が彼から飛んでくるかわからない。
(というか、何故そんな不貞腐れた顔をしてまで被っているんだ十神……。嫌ならば突っぱねれば良いものを。いや、あれは照れ隠しか……?)
思案の最中、彼は食堂の片隅に更に見慣れぬものを発見した。小さなオルガンだ。幾月は引き寄せられるようにオルガンへと歩んでいく。
やや古いものではあるが、鍵盤の隅々まで丹念に掃除されている。帽子を脱ぎ、試しに座って弾いてみれば、問題なく音も出た。
試し弾きをする幾月のもとに、今度は舞園がやって来た。
「最終調整ですか? 幾月君」
「舞園さん……」
「え?」
「え? って?」
「あ、いえ……。いつも“さやかちゃん”って呼んでもらっているから、ちょっとびっくりして」
さっきの朝日奈と同じだ。幾月の疑問は更に深まる。
――全く状況についていけない私は何かおかしくなってるんだろうか。
苦笑する舞園に、失礼は承知で幾月は問う。
「……私は、女性をみんな“ちゃん”付けで呼んでいただろうか」
「はい。……そんなこと聞いて、どうしたんですか? 幾月君?」
「ああ、いや……。まだ寝ぼけているみたいだ、すまない」
調子が悪いなら言ってくださいね、と舞園はパーティーの準備へと戻っていく。
鍵盤を見つめ、幾月は考えた。
――どういうことだろう? 私はここに閉じ込められてから、女性のことは確かに名字で……しかも“さん”付けで呼んできたはずだ。第一会って間もない者同士だし、いきなり名前をちゃん付けで呼んだりなんて、性に合わないどころでは……。
困惑が困惑を呼んでいると、「よう幾月!」と景気のいい声と共に肩を叩かれた。幾月は否が応でも我に返る羽目になる。
すると、満面の笑みの大和田と目があった。彼は幾月の肩に左腕をかけたまま言う。
「なにシケた面してんだぁ? ああ? だから昨日早く寝ろって言ったんだよ」
「お、おお……。すまない」
「まあ、音楽家として今日は張り切るのも無理ねぇか。クリスマスだしな。テメェの演奏で舞園が歌うってんで、苗木たちも浮かれてるからな!」
「ああ、舞ぞ……さやかちゃんファンだものな、彼は……」
――だが大和田、私の伴奏で舞園さんが歌うだなんて、全く身に覚えのない話なのだが。
その疑問を彼が口にすることなど出来るはずがなく。「楽しみにしてんぜ、兄弟」と景気付けに幾月の背中を叩いてから、大和田は戻っていった。すると今度は入れ替わるように桑田が幾月に駆け寄ってきた。
「おい幾月! 演奏ドジってさやかちゃんに迷惑かけんなよ! な!」
「よりにもよって私が演奏をしくじるなど、そんなにないぞ」
「そんなにって何だよ! たまにあるんじゃねーか! 今日がその“たまに”だったら絶交だぞ!」
「絶交って……君は小学生か……」
思わず幾月が脱力すると、恥ずかしそうに桑田は言い返す。
「じょ、冗談だっての! とにかく頼んだぜっ」
「ああ、うん……」
「まあ、お前なら万が一ってこと無いだろうけどな、一応釘刺しとかねーとな。準備はオレらに任せて、最終調整頑張れよ!」
最終的には幾月を励まし、桑田は戻る。どうやら舞園から全員へ、「幾月は最終調整中」と伝えられたようだ。
幾月は困った。
――何を弾くつもりだったんだ、私は。
ここまで来たら自分だけ色々乗り遅れてることなど言い出せない。ましてや「記憶がない」などと、あんなに楽しげな友人たちの空気をぶち壊す真似ができようか。こうなったら何が何でも記憶を掘り起こし、成功させるしかない。
しかし、曲の的を絞ろうにも、クリスマスソングが多すぎて、全く検討がつかなかった。自分が弾くだけならともかく、舞園が歌うのだ。このままでは彼女にまで迷惑を掛けてしまう……。
「せめて楽譜か何か……。そ、そうだ!」
幾月はハッとし、椅子から下りる。床に膝をつき、椅子を下から覗き込む。すると、数枚の紙が椅子の裏の隙間に上手く挟んであった。ぼんやりとうっかりの常習犯である彼は、“次の日使う楽譜は椅子の下かピアノに隠す”という癖がある。部屋に戻ったりするより効率的だし、忘れる確率がぐっと下がる……と幾月が思っている独自の方法だ。幸いにも、昨夜の自分は此処に楽譜をしまってくれていた。
「もろびとこぞりて……きよしこのよる……。……アレンジしてある……そしてこのグッタグタの走り書き……。確かにこれは私の書いたものだ……」
――しかし、いつ書いたんだ、私は。
この空間にいる皆は知っているかもしれない。だが、自分はなにも知らない。
今日クリスマスパーティーが行われるということも、皆と名前で呼び合うほどの仲になっていたことも、この楽譜を書いたことも、何もかも。
まるで自分一人だけ、別の世界に紛れ込んでしまったような孤独を感じてしまう。
皆の輝かんばかりの笑顔が、切なく胸を締め付ける。
――閉鎖された空間。脱出する術は、ただひとつ。誰かを殺すこと――。
あの異常な現実の方こそ、別の世界だったのではないか? 幾月は自らに問う。
ここにはモノクマの気配もない。
皆が揃って笑い合っている。
そして、ガラスの向こうには、深々と降り積もる白い雪がある……。
――そうだ、あの非情な世界こそ幻だったに違いない。そうに決まっている。
――けれど。
幾月は泣きそうになった。
「……どうして私だけ、なにも判らないんだろうな」
ひとりの音楽家が取り残されたまま、クリスマスパーティーの幕が上がった。
幹事の石丸の号令と共にジュースの乾杯。舞園の歌が終わり、手際よく大神がケーキを切り分ける。皆に等分に配られたケーキや沢山の料理を、賑やかな会話と共に楽しむ。
幾月も、セレスの要望で紅茶を淹れたり、十神の命令で演奏したりと、大忙しだった。
だが、楽しかった。
盛大な溜息と共に席に戻った頃には、若干汗が滲んでいたほどだ。心地のいい疲労感に幾月の眼差しが和らぐ。
「だ、大丈夫?」
「ああ。いつもよりよく動いたから、ちょっとくたびれただけだよ」
不二咲の心配そうな声に、幾月は笑って答える。
「まるで夢みたいだ、こんなに楽しくて……。仲良しで……。幸せなのは」
「そうだね。でも、夢じゃないよ」
「……そう、だといいな」
幾月の呟きに、不二咲は微笑むばかりだった。
――パーティーの最後は、全員によるプレゼント交換だった。
皆で輪になり、ジングルベルを合唱しながら、時計回りに隣の人へプレゼントを回していくという方法だ。十神のプレゼントを狙う腐川の目はハンターのそれだった。下手すればプレゼント争奪戦になりそうなものだが、「恨みっこはなしよ」という霧切の言葉に、皆が頷いていた。やはり纏め役といえば彼女だ。
幾月も、ちゃんとプレゼントを用意していた。これもオルガンのそばに置いてあったものだ。“交換用ぷれぜんと”と力のない自分の筆跡のメモが張り付けてあったから、間違いない。いつ用意したのか、幾月にはやはり全く身に覚えのないことだが。
ぼんやりと今日のパーティーを振り返っているうちに、歌が終わる。
皆は早速プレゼントを開き、一喜一憂し始めた。
「うわー、何だろコレ」
「運が良いな苗木っち。特製のお守りだべ」
「ええっ、大丈夫かなぁ……」
「品のない薄い本……なによ、これ、山田のでしょぉぉっ!」
「失敬な! 渾身の作品をぉっ!!」
「まあ、わたくしは大当たりですわね。なんて立派なアクセサリーでしょう」
「よかったぁ、さくらちゃんとちょうど交換になって! さくらちゃんに届きますようにって祈ったかいがあったー!」
「我も同じことを思っていた、ふふ……」
そんな中、幾月の元に来たプレゼントは、白と黒のストライプの箱。大きな赤いリボンが付けてある。
「あー、幾月のプレゼント、あたしのだね」
「本当だ、アタシのやつだ」
「開けてみてよ、早く!」
同じ声ふたつが、まるで別人のように次々と幾月を急き立てる。
幾月が顔を上げると、二人の少女がいた。彼女たちを見た幾月は、戦慄した。
――なんだ、あれは。
二人の少女の顔は、まるでクレヨンで大雑把に塗りつぶされたように真っ黒で、見えない。しかし間違いなく彼女たちは動き、生きて、幾月に向かって呼び掛ける。
「はやくあけてみて」
「はやくあけてみて」
二人の少女が再び幾月を急かす。黒いクレヨンの靄が、彼女たちの僅かな動きに合わせてもぞりもぞりと揺れ動く。
幾月は周囲に助けを求めようと辺りを見渡した、が……誰もいない。いつの間にか、皆が消えてしまっていた。自分がいる場所は食堂だったはずなのに、ここは食堂ですらない。打ちっぱなしのコンクリートの床から伝わる冷気。窓も無く、照明と呼べるものは、天井から剥き出しでぶら下がっている丸電球ひとつだけ。まるで牢獄だ。
二人いたはずの少女の姿が重なってひとつになり、幾月に笑いかける。クレヨンの隙間から、まるで三日月のようににんまりと弧を描く口が見え隠れしていた。
「さ、あけなよ」
「いやだ……」
「あけないと終わんないよ」
「いやだ……いやだ!」
幾月は叫びながら白黒の箱を投げ捨てた。途端に両腕が酷く痛む。何事かと制服の袖を捲ってみれば、両腕が真っ赤に染まっていた。カッターか何かでひたすら切りつけたようなものから、強くひっかいたような歪な形、様々な傷が腕を埋め尽くしている。
――これは、私の血?
「さあ、知らない」
少女が、投げ出された箱を拾い上げる。そしてもう一度、幾月に近づいてきた。
「ほら。あけて?」
――いや、だ。
少女の顔に掛かったクレヨンのモザイクが薄くなっていく。プレゼント箱から、少女から、幾月は顔を逸らした。見たくなかった。箱も、少女も、何もかも。
何度も叫んだ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
――あの幸せな時間に返してほしかった。
――あの頃に、あの時に、私は――“もう一度戻りたかった”んだ……!
すべてを拒絶し、幾月はきつく目を閉じ、耳を塞ぐ。
――やめてくれ。
――お願いだ。
少女の声に次第にノイズが混じり、耳の奥までかき回すように響いていく。
――嫌なんだ、もう、そんなの。こんなこと――!
「――――嫌だあああッ!!」
「うわっ!?」
跳ね起きた幾月の横で、悲鳴がした。
幾月は、自分の体が酷い汗で濡れていること、そして今いる場所が、見慣れた学園の自室であることに気付いた。今の悲鳴の正体を確かめようとした時、その正体の方から立ち上がって幾月を見下ろしてみせた。
「全く、いきなり叫ぶとは何事だね!」
石丸であった。
呆然とする幾月に、石丸は怒りながら捲し立てる。
「モノクマの放送がしても起きない、僕がいくら揺さぶっても起きない! 健やかに眠っているかと思いきや途端に呻き出し、果てには絶叫して飛び起きるとは! 心臓に悪いぞ、全く!」
「……も、モノクマ? モノクマがいるんだな?」
「は? いるもなにも当然だろう……? 寝惚けているのか?」
幾月の胸中に安堵が満ちる。
――夢だったんだ、全て。こんな空間でクリスマスパーティーだなんて、やっぱりおかしい。最後の少女のことだってそうだ。全てあり得ないことだらけだったではないか。
幾月は自分を嘲笑う。
「本当に私はバカだ……」
「寝坊でそこまで自分を卑下することはないぞ、これから直せばいい」
「……ああ、そうだな」
近くにあったタオルで汗を拭い、幾月は布団を出た。
「すまない、手間をかけさせた石丸。お礼に後で一曲弾こう」
「そうか! ならばそうだな……」
少し悩んだ後、石丸は手を叩いて幾月を顧みる。
「冬にちなんだ曲が聴きたいな。季節感のあるものに触れないと、時間感覚が狂いそうでね」
冬の曲。幾月の脳裏に、夢の中の宴が蘇った。出来ることならば実現したいと思う、とても幸せな夢。
幾月は笑って頷いた。
「判った。得意分野だよ」
「それは楽しみだな、うむ!」
意気揚々と歩き出す友人の背を、少年は追いかける。
あの夢の名残を振り払うように、その歩みはいつもより少しだけ早かった。