貴方のつよさが時々さみしい 部屋の机に、楽譜が置かれていた。「モノクマより」と書かれた付箋がついていて、それを持って、幾月は何時ものように食堂に向かった。
それが、きっかけだった。
――この楽譜は何だろう?
楽譜を見つめているうちに、幾月はとあることに気付いた。
何か、欠けている。
私の中の大事な何かが欠落している。
腕がひりひりと呻いている。
心臓が軋む。
頭に鼓動の音が響いて止まない。ずきずきと痛み出す。
息が詰まる。
ペンを持つ手が震えた。
とある楽譜の、ただひとつの空白。
思いつかないタイトル。
――私は、大切なことを忘れているんじゃないか?
びりびりと目が痺れるような感覚がした。体中を巡る鼓動と痛みは増していき、座っていることさえ辛い。
幾月は頭を押さえた。ペンが手のひらから滑り落ち、床に転がる。
この曲のタイトルは、決めてある。確かに決めた筈なんだ。みんなと話して、決めたんだ。私がこのテーマで曲を作るのは、これが最初で最後。みんなに捧げる、最高の歌……
(“みんな”って、誰だ?)
頭の奥で、誰かが笑った気がした。
「――幾月くん!?」
叫びに失いかけた意識を引き戻され、ハッとして顔を上げる。
そこには石丸がいた。
「石、丸」
声がうまく出ない。幾月は少しばかり困った。
だが、掠れた呼び声はしっかり石丸の耳に届いたようで、幾月の肩を掴み、石丸は動揺を露わにしたまま、口を開いた。
「大丈夫か、酷い顔色だぞ!」
そう言う石丸の顔色も真っ青だった。
幾月はうっすら笑って返す。
「人のこと、言えないぞ」
「僕はただ、君を心配しているのだ! そのせいだ!」
情に厚すぎるのも困りものだ。「平気、平気だから」幾月は手で石丸を制しながら席を立った。
転がったペンから漏れたインクが、歪な線を床に残している。
幾月がそれらに触れるより先に石丸がペンを拾い、側にあったちり紙でインクを拭き取ってしまった。
「……ごめん」
幾月の声は震えていた。
石丸は眉を寄せて、「ひとまず座りたまえ」と幾月の肩を押した。すとんと椅子に腰を下ろした幾月は、再び、ごめん、とか細い声で彼に謝った。
ふう、と石丸が深く息を吐いた。
「一体何があったんだ、幾月くん」
「……曲のタイトルを考えていたんだ」
そして幾月は説明した。
モノクマから渡された楽譜のこと。確かにそれは自分の書いた楽譜であること。ただタイトルだけが空白で、そのタイトルを考えているうちに気持ち悪くなったこと。
全てを石丸は真剣な顔で聞いてくれた。ふむ、としばらく考え込んだのち、彼は顔を上げた。
「モノクマが渡してきたと言うのも気になるが、幾月くんが不調に陥った理由がいまいち判らないな」
「私も判らないんだ。まるでこの楽譜のタイトルを思い出してはいけないと言われているようでね……」
幾月が答えると、石丸は瞬きした。
「思い出してはいけないということは、つまりタイトルは決まっているのに思い出せない、ということかね?」
「ああ。とても大事な人たちと決めたはずなのに、思い出せないんだ」
ずきり、と腕が再び痛んだ。無意識のうちに幾月は自分の腕を押さえていた。
まるで寒がっているような幾月の様子を見て、石丸は何か思ったらしい。
「少しここで待っていたまえ」
そう言って石丸はキッチンへ突進していった。
かちゃかちゃと物音がし、数分経った。
……石丸はキッチンから戻ってきた。両手で慎重にマグカップを抱えながら。
「飲みたまえ、幾月くん!」
優しくテーブルに置かれたマグカップの中身は、ほんのり湯気のたつミルクであった。
目をぱちくりさせる幾月に、石丸はいつものハキハキとした口調で話し始めた。
「調子が悪いときは休むのが一番だ。ホットミルクを飲むと眠りの質が良くなるそうだぞ! そして温かい飲み物は気持ちを和ませる。実に今の君に適した飲料だと思わないかね?」
「え、えーと」
「根を詰めすぎては良くない。無理に記憶を揺さぶって負担になるようならば、一旦距離を置くのも手だろう」
自信に満ちた笑顔で、石丸は幾月を見た。
「大事な記憶ならば、きっといつか思い出せる。焦らずに行こうではないか、幾月くん!」
その根拠もへったくれもない笑顔が、不思議と幾月の心を勇気づけた。
へにゃっと気の抜けた笑みで幾月は頷いた。
「そうするよ。ありがとう石丸」
「どういたしましてだ!」
いつか思い出せるその時まで、焦らずに。
自分に言い聞かせながら、幾月はゆっくりとミルクを啜った。
「……おいしい」
幾月の呟きに、石丸は更に嬉しそうに笑みを深くしていた……。