明日を飼い慣らせ 幾月クンは淡白なひとだ。
音楽家である彼は、音楽以外には基本的に無頓着で動じない。たとえ目前で殴り合いの死闘が繰り広げられようとも、それを視界に入れることなく――もしくは入っていないに等しい顔で――紅茶を啜っていそうな、そんなひと。そんな状況、なかなかないだろうけれど、きっとそんな感じだと思うんだ。
幾月クンは淡白だけれど、だからって非情なわけじゃなかった。
気の弱い不二咲さんが、彼を誉めていた。「とっても優しい」って。無表情・無愛想を無意識のうちに徹底しているせいで色々推し量れない幾月クンのようなタイプは、不二咲さんだったら怖がりそうなものなのに。とびきりの笑顔で誉めていた。
「――苗木は不思議な人だな」
「そ、そうかな?」
「ああ、間違いなく不思議だ」
思ってることが見透かされたんだろうか。唐突に呟き、幾月クンはくすくすと笑った。
書きかけの楽譜をテーブルに広げたまま、そばには温くなったコーヒーが半分ほど入ったカップ、それから何語かボクには判らない、外国語の厚い本が一冊。
それらを一旦置いて、幾月クンは、ボクと話していた。何となくボクから話し掛けたのがキッカケだった。
「幾月クンほどじゃあないよ……」
「まあ、私も最初からこうだった訳じゃない。色々なものに触れる内にこうなったのさ」
「そういう本とか、いっぱい読んで?」
「うん……、うん? これは……図書室で借りてきただけだよ。あまり読まないタイプの内容」
ボクはまずタイトルすら読めないんだけれど……。
「どんな本なの?」
「世界中のあらゆる拷問について纏めあげた本」
「え」
「冗談さ。恋愛小説だよ」
冗談を言うように見えないから、ボクはかなり驚いた。色んな意味で。
固まるボクを笑いながら、幾月クンは片手で本を持ち上げる。わざわざボクにその華やかな表紙を見せてくれたけれど、やっぱり読めない字だった。
「生憎恋愛経験は少ないんでね、こういったものを参考に曲を作ることがある」
「へえ、幾月クンらしいかも」
「だろう? 私をそういう意味で好いてくれる人がいるなら、紹介してほしいくらいだ」
これも冗談なんだろうか。ボクには判らない。「そ、そっかぁ」と無難に笑って返した。あからさまな愛想笑いだとしても、幾月クンはそういうことに関して何も言わない人だから、少し気持ちが楽だ。
本を置くと、幾月は頬杖をついた。僅かに彼の表情が曇った気がした。
「まあ、学園に閉じ込められている以上、この曲を仕上げても無駄なのかもしれないがな」
その表情のまま、幾月クンは食堂の窓を見つめた。日差しの無い中庭は薄暗い。学園ごと閉鎖されているのだから当然だ。
……コロシアイ生活なんていう、おかしいモノの為に。
本物かどうかも怪しい中庭の木を眺めながら、幾月クンは続けた。
「いつ出られるのかも判らない。だが人を殺して脱出するような気概は私に無い。もしかしたら今日の夜にでも、私は殺されるかもしれない」
「え、縁起でもないこと言わないでよ!」
「ごめんよ。……だが、それが現実だろう?」
何だか幾月クンに語られると、重いものが更に重くなるようだった。
普段から輝きに乏しい眼差しが更に陰って、不安が増して――。
ボクは反論するように声を上げた。
「たとえそうだとしても、あんまり言って欲しくないし、考えたくないことだから。……聞きたくなかったんだ」
すると幾月クンの目が僅かに見開かれた。次いで彼は呟いた。「ああ、そうか」何かに遅れて気づいたような、思い出したような、曖昧な声。
ボクが戸惑っていると、幾月クンは頬杖を止めて立ち上がった。
何事かと固まるボクに幾月クンは歩み寄り、そして……何故かぺこりと頭を下げた。
「悪かった。軽率な発言だった」
「えっ? えっと……」
「言霊というものもあるしな、あんなネガティブなことを口走るべきではなかった」
本当にすまない、と幾月クンは頭を下げ続ける。
ボクは慌てた。
「幾月クン! そんな、気にしないで! こんな状況だから、気が滅入るのも仕方無いよ」
「そうか……。ありがとう、苗木」
すぐに幾月クンは顔を上げてくれた。気持ちのままに動けるのはすごいと思うけれど、なんて突拍子がないんだろう……。少し心臓に悪い。
ボクに謝ってスッキリしたのか、心なしか幾月クンの顔は晴れやかだ。再び椅子に腰掛けた彼は、意気揚々とペンを手にする。
「ネガティブ発言で失った気を取り戻すためにも、頑張らなくては」
言いながら幾月クンは、すらすらと音符を書き連ねていく。
相当調子が良いみたいだ。ボクも興味が湧いて、その様子に見入った。
次々に紙を埋め尽くす音符や符号を見ていると、何だか面白い。楽譜が読めたら、きっともっと面白いんだろうけれど。
気が付けば自然と、ボクは口を開いていた。
「……そう言えば、幾月クン」
「なんだ?」
「今書いてるその曲って……どんな曲なの?」
訊ねると、彼は“待ってました”と言わんばかりの深い笑みを浮かべた。
「ラブソングだよ」
いつになく感情に満ちたその表情は、ボクが言うのも何だけど年相応に子供っぽかった。
彼にしては珍しいなあと思って、ボクもつられて笑ってしまった……。
(幾月クンもドヤ顔なんてするんだなあ)