癒えぬ傷跡を望んだくせに
 ――巡留、あなたはきっと音楽の神様に愛されているんだよ――

 私は、私は。

 ――だから、なあんにも、寂しくないよ。神様に愛されるあなたを、たくさんのひとが愛してくれるよ――

 ただひとり、あなたに愛して欲しかった。
 ――なのに。嗚呼、あなたは一体、誰だったろうか。
 懐かしいその声は思い出せるのに。
 柔らかく暖かい声音は、鼓膜にこびり付いたまま離れないというのに。
 薄暗い音楽室にこもり、モノクロの鍵盤を撫でる。独特のかび臭さというか、古くさい香りの漂う空間に、幾月はひとり佇んでいた。書き掛けの楽譜を片手に、ぼんやりと。

「また、呆けてた……」

 いつから自分はこうなってしまったのか。少なくとも以前は、もう少ししゃっきりしていた筈なのに。どのくらい昔の“以前”のことなのか、判らないけれど。
 床に転がる指揮棒を拾い、楽譜と一緒にピアノの上に置いた。ちくりと左腕が痛んだ気がした。多分、そんな筈は無いのに。
 そっと制服の袖を捲った。手首から肘までびっしり巻きつけた包帯は、真っ白だ。
 きつすぎるのだろうか。幾月は包帯を解き始めた。少しずつ露わになる細い腕。しかしその肌は、異常だった。
 切れ味の鈍い刃物で切りつけた、もしくは長い爪で引っ掻いたような、醜いみにくい傷跡。それが幾多も、幾重にも、腕を埋め尽くしていた。
 痛んだ割に、やはり血が滲んだような様子もない。心持ち緩めに、幾月が包帯を巻き直した時だった。

「幾月君……?」

 はっとした。
 目の前にいたのは、不二咲であった。青ざめた顔で、今にも泣き出しそうな目で、幾月を見つめている。いつの間にか音楽室に入ってきていたらしい。
 幾月の目が、ひっそりと申し訳なさげに伏せられる。

「ああ、見られてしまったか」
「ご、ごめんなさい……」
「いいや、私が迂闊だったんだ。この空間に誰も来ないと思っていた私がね」

 不二咲の震えた声音が、幾月の心臓をちくちくつついた。何時かのように、なるべく優しく幾月は彼女に語り掛けた。
 密かに急いていた幾月の手から、包帯がころりと落ちる。思っていた以上に自分が動揺していたことに、幾月はつい笑った。拾おうと屈み掛けて、その時、ふわりと微風が頬をくすぐった。固まる幾月より先に動き出した不二咲が、包帯を手にしていたのだ。

「ま、巻くの大変でしょ? 巻いてあげる……」

 やっぱり不二咲は泣きそうだった。合わせた眼差しは潤みきっている。しかし、遠慮したところで引いてくれそうにない決意も滲んでいた。
 幾月は無言で頷いた。
 どちらからともなく床に腰を下ろす。幾月が差し出した腕に、不二咲は慎重に包帯を巻き始めた。

「い、痛くない?」
「大丈夫だ」
「きつくない?」
「ちょうどいいよ」

 沈黙が生まれる。
 何故か幾月は、その沈黙が辛く感じた。

「昔、私には好きな人がいたんだ」

 ぽつりと、零れる言葉。
 特に反応を求めるわけでもない、独り言のような響きだった。

「しかし私のせいで、その人は遠くに行かなければならなくなった。辛い目に遭わせてしまった。私は罪人なんだ。罪は、罪人は……罰せられなければならない」

 震える声。珍しく幾月の顔は辛そうに歪んでいた。
 瞬間、そっと幾月の頬に触れるものがあった。包帯を巻き終えた不二咲の手である。

「罰するなんて、なんだか怖い言い方……」
「そうかな」
「うん……怖いよ。幾月君、辛そうだよ。もっと、違う言葉で、考えよう?」

 幾月よりも辛そうな顔をして、不二咲は言う。

「悪いことをしてしまっても、償えるよ、きっと。幾月君は優しくて良い人だから」

 微かに震える不二咲の手のひらは、ひどくあたたかい。幾月の表情は、ほんの少し揺らいだ。

「不二咲さんこそ、優しいね」
「そ、そんなこと……ないよ……」
「いいや、大いにあるよ」

 不二咲の手を頬からそっと除けると、幾月は立ち上がった。照明の乏しい音楽室をぐるりと見回し、それから不二咲に向き直る。

「そういえば、以前の“用事”がそのままだったね」
「あ、そうだね」

 頷いて不二咲が返す。
 “用事”とは、大したことではない。
 以前幾月が「音楽準備室を片づけたい」と話していたときだった。片付けを手伝う代わりに、自分に音楽のことを教えて貰えないか――、そう不二咲が提案したことである。
 しかし片付けが予想以上に大変で、準備室がまともな状態になった頃にはお互い疲れ切っており解散となったのだ。

「不二咲さんも音楽に興味があったんだね」
「音楽にも色んなソフトが使われる時代でしょ? 機械がボーカルをしちゃうこともあるくらいだし……。楽しそうだなぁと思って」
「うん、実に楽しそうだ」

 深く頷いて共感してくれる幾月を、不二咲はきらきらとした眼差しで見つめている。
 その眼差しに気付いたのか、どことなく恥ずかしそうであった。気を取り直した幾月は、不二咲に手を差し出した。

「では、数々のお礼も兼ねて――音楽の授業といきましょうか」
「うん」

 当然のように、不二咲は幾月の手を取る。
 ゆるりと瞬く“いつもの”気怠げな彼の瞳に、不二咲は微笑みながら安堵した。
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