2月、冬真っ只中。
真田先輩の使い古したサンドバッグに鬼のお面を貼り付けて豆まきをしてから、一週間と少し経った。
今日、俺は、バレンタインデザートの用意に取りかかっていた。せっかくの休みだし、ガッツリチョコレートな濃厚スイーツを自作する作戦だ。最近お菓子を作っていなかったし、鈍った勘を取り戻すために自身に課した目標ともいえる。
そしてバディはアイギスちゃんに風花ちゃん。俺が菓子作りをしようとしたら、名乗りをあげてくれた。……嫌な予感しかしない。だがやる気十分なレディに水をさせるほど、俺は薄情になれなかった。
「バレンタイン。大切なひとへ日頃の感謝を伝える大切な行事であります。麻斗さん、ぜひご教示ください」
「私も頑張るから、一緒に美味しいチョコ作ろうね」
こんな直向きなダブル美少女に挟まれて、断れますか? 断れないでしょう、これはもう男としてやらねばならんと思うのですよ。
しかし……俺の予想の斜め上を滑空していく彼女たちの猛攻により、テンパリングすら困難を極めた。
「そのボウルのチョコ溶かしといてくれ、アイギスちゃん」
「わかりました。出力最大」
「ちょ、ストップぅ!!」
両手で抱えたボウルをコンロに置いたアイギスちゃんから、ボウルごとチョコを取り上げる。鍋つかみをしていなかったら確実に火傷していた。そのぐらいボウルは熱々になっていた。
止められたことに首を傾げるアイギスちゃんに、俺は改めて説明する。
「そんな風にボウルあたためちゃだめです。危ないです。湯煎です。そのためにほら、鍋に湯をわかし――ってああ風花ちゃんストップ!」
「えっ?」
なんと風花ちゃんはボウルのチョコに直接お湯を流しこもうとしていた。俺も経験した過ちだ。失敗を取り返そうにも、お湯で薄くなったチョコはどうにもならない。いつだったか苦し紛れに小麦粉とかぶちこんで焼いたりしたが、とても微妙だった……。
いったん肩の力を抜いて、俺は再度二人に告げる。
「ボウル。お湯。ボウル。チョコ。これで湯煎。オッケー?」
「はい」
「うん」
どちらも目を離せない。そして俺の作業が進まない。
まず俺の教え方が下手くそなんだと思う。料理を始めたのは小学生時代からだが、無難に食べられる味に成長したのは中学生にあがってからだ。この間ひとりぼっちで料理本を読み漁ったりしていた。漫画より高値だが、その分長く楽しめると幼心に言い聞かせた。それから祖父母に引き取られた俺は、二人に教わりながら料理の腕を磨いた。だが洋菓子に関しては完全なる独学である。和菓子なら沢山教わったが……バレンタインおはぎとか、無しだろう。やはりチョコレート系でないと。ここには餡子ももち米も無いのだ。
ふたりに、とびきりのチョコを作らせてあげたい。乙女の夢へ協力したい。誰かに何かを教えるなんて滅多にないから本当にどうしたものか。
せめて自分がもうひとりいたら――アメーバとかじゃあるまいし分裂したり実際に自分がもうひとり出たらきっと驚いて何も手につかないだろう――、なんて思っていた時だった。
「おー、いいにおーい」
無垢な笑顔と共にキッチンにやって来たのは、寮内の女性陣ではムードメーカー的存在の綴ちゃん。勉学に家事、軽快なトークに至るまで素敵にこなしてしまう、魅力的な同学年の女の子である。……ちなみに男性陣のムードメーカーに、俺は、順平くんを推薦したい。勉強はともかく、彼は素晴らしい友人だ。あの明るさは羨ましい。きっと可愛くてしとやかなガールフレンドが見つかるだろう。
――そういや、綴ちゃんて彼氏いんのかな。
邪念を振り払い、俺は彼女に駆け寄った。
「な、なに麻斗?」
「綴ちゃん……。手伝ってくれ!」
「えっ?」
一瞬呆気に取られた様に目を丸めた彼女は、アイギスちゃんと風花ちゃんのツーショットを見ると、納得したように頷いてみせた。
その時の笑顔は、まさしく女神であった。
◆◆◆
綴ちゃんの神懸かり的サポートを受け、二人には無事に素敵なチョコレートを作ってもらうことができた。寮内のみんなで食べるため、ということらしく、とても大量のチョコレートが箱詰めされていた。
俺のお菓子も後は冷蔵庫で寝かせておくだけ。何とかギリギリ、ミッションコンプリート。これもすべては綴ちゃんのサポートのおかげである。
「綴ちゃん、本当に助かったよー」
「どういたしまして」
笑いながらてきぱきとテーブルに散らばったあらゆるものを片付けて行く綴ちゃん。
俺は慌てて彼女からボウルたちを取り上げた。
「あー、あのさ! 片付けは俺がやっとくから綴ちゃんは休んでて」
「一緒にやった方が早いでしょ?」
「いやいや、そりゃそうだけど、綴ちゃん何か顔色あんまし良くないから、見てて不安!」
よほど作業に疲れたのか寒さが辛いのか……いや、そういう類いのものじゃない、何とも言えない感覚の疲労が綴ちゃんの顔に浮かんでいる。もしかして無理してたんだろうか? この頃、こんな風に調子の悪そうな綴ちゃんを見ることが多くなった気がするんだけれど、杞憂か?
流し台にボウルたちを置いてから、自分の手が汚れていないのを確認して綴ちゃんの前髪を掻き上げる。
「え?」
「じっとして。……んーむ。熱は、無いみたいだな」
少し体を強張らせる綴ちゃんに妙なときめきを覚えつつ、手のひらを当てて温度を確かめてみた。……平熱、だと思う。むしろちょっと冷たいぐらいだ。冷え性とかだろうか。キッチン内は少し暑いぐらいなのだが、女の子の体は冷えやすい。
俺は椅子に彼女を座らせると、冷蔵庫から牛乳と余したチョコレートや生クリームを引っ張り出した。
「麻斗?」
「いーからいーから。ちょっと待ってて」
昔から俺が良く飲んでいるホットチョコレート。甘すぎず体をしっかり温めてくれ、かつ疲れを解す。個人的に一番好きなチョコレートレシピである。綴ちゃんへの労わりと愛情も込めて――って考えたらなんかすごい恥ずかしくて耳が熱くなった――丁寧に作る。
ちらりと背後の綴ちゃんを振り返ると、何処かぼんやりと遠くを見つめるような顔をしていた。
放っておいたらその何処かに行ってしまいそうな不安が押し寄せてきて、必死にかぶりを振って嫌な考えを押し出す。努めて明るい調子で、俺は彼女に呼びかけた。
「ほい、綴お嬢サマ。麻斗さん特製ドリンクです」
「わ、ありがとう……」
出来上がったばかりのホットチョコレートを綴ちゃん愛用のマグカップへ注ぎ、そっと差し出す。嬉しそうに両手でマグカップを受け取った彼女の顔が綻んで、真冬だってのにお花が咲いたのを見ているような気分になる。「熱いから気をつけてな〜」一応注意して、それからさっさと洗い物を済ませて、俺も自分の分のドリンクを注いだ湯呑をテーブルに置いた。
ごくごく自然なノリと流れで、綴ちゃんの隣に座った。
ふーふーと、少しずつドリンクを冷ましながら飲んでいく綴ちゃん。おいしい、と小さな声が聞こえて、「だろだろ?」と俺は歯を見せて笑った。
「まだあるから、おかわりしても大丈夫だかんね」
「さすがにそんなにいっぱいは飲めないよ」
「結構入れちゃったもんなぁ、多かったら余していいから。俺が飲むわ」
「い、いや、大丈夫! ちゃんとこれは飲み切るから!」
慌てて言う綴ちゃんのリアクションがまた素敵だ。真っ赤になって「そんなことしたらアレだし……」とかぼやいているのを見てしまうと、ああ、もしかしてこれは脈ありなのかなあなんて勘違いしそうになる。
「今更何を恥ずかしがりますかね」
「まるで何かあったみたいに言わないで!」
「ごめんごめん。もう俺たち家族みたいなもんじゃないですか、そゆことよ」
のんびりと返してドリンクを静かに啜る。
「かぞく……」何か思い詰めるような、困惑しているような、微妙な顔の綴ちゃん。赤くてぱっちりした瞳も伏せられてしまった。
俺も次の句が出て来なくなって、ただただチョコレートをひたすら流し込んで、沈黙してしまう。
……しばらくすると、綴ちゃんが立ち上がった。
「麻斗、ちょっと待ってて!」
空になったマグカップをテーブルに置いて、俺が止める間も無く彼女はキッチンを飛び出して行ってしまった。そのスピードに呆然とした俺が立ち直るより早く、彼女はキッチンへ戻って来た。
肩を上下させながら、綴ちゃんは小さな箱を胸に抱えている。
可愛らしい桃色の包装紙に、真っ赤なリボン。小さなメッセージカードの添えられた箱だった。
ぽけっとしたまま湯呑を抱えて固まる俺に、綴ちゃんがずいっと両腕を突き出す。
「これ、麻斗にあげるために作ったチョコレート」
「あ、え……マジ?」
取り落としかけた湯呑を慌ててテーブルに持って行って、俺は瞬きした。
こくこくと小さく何度も頷く綴ちゃん。
――いつのまに、っていうか、ねえ。綴ちゃんよ……その笑顔と赤い頬っぺたは、反則じゃあ、ないですか?
「みんなに見られるのは恥ずかしくって、二人きりになれるタイミング見計らってたんだけど……。麻斗たちがお菓子作ってたから、今日中に渡せないかもってヒヤヒヤしちゃった。それでさっき、“今しかない!”って思ったから」
見られるのは恥ずかしいとか、どういうことだろう。俺は単純だから、このままじゃあ、そういうことだと思ってしまう。
いや、まさか、そんな。
顔が赤くなるのを抑え切れない。まるで沸騰した湯にでも突っ込んでしまったみたいだ。体温のコントロールが全く効かない。
「というわけで、受け取ってください!」
更に俺に近づくチョコレートの箱。
期待して沈没することだけは避けようと、俺はそれを受け取る前に綴ちゃんの顔を覗き込んだ。
「あ、あの、本当に俺の為に作ってくれたの?」
「そう言ってるでしょ?」
「しかも渡されるとこ見られないようにとか、まるで、さあ……」
「まるでもなにも、女の子にそこまで言わせようとしないの!」
ぴしゃりと言い放たれて、それきり俺は何も言えなくなってしまう。何か言うならば、ここは……感謝の言葉しかあるまい。
「ありがたく、頂戴いたします」
俺がチョコを受け取ると、真っ赤になってむくれる綴ちゃんの顔に笑みが戻った。
深々とお辞儀をしてから顔を上げた俺と、綴ちゃんの視線がぶつかる。満面の笑みが眩しい。
……かと思ったら、綴ちゃんは伸ばした両腕を広げて、俺に向かって来た。
「わっ!?」
慌てて綴ちゃんの抱擁を受け止めた。成功してほっとしたのも束の間、この状況にますます俺は熱くなってきてしまった。こんな風に女の子に抱き締められるなんて、そうそうない。しかも相手が気になる女の子とあっては、動揺を抑えることなど無理だった。
反射的に綴ちゃんの背中へと腕を回してしまってから、彼女の体の細さを思い知る。左手に抱えたままのチョコの箱を握る力が強くなりかけて、やばい、と直前で力を抜く。
「麻斗、すっごい熱いね」
「綴ちゃんの温度と足したら、丁度いいんでない?」
「うん。ちょっと寒かったから、ぴったりだよ」
耳元や肩に彼女の髪が揺れて触れて、息がかかって、声が響いて。小さな笑い声は子供のそれみたいに無邪気で、他の誰にも聞かせたくないと思ってしまう。こんなに無防備な彼女の姿を受け止めているのが自分であることが、何だか誇らしい。
「……麻斗、後で麻斗の作ったチョコ食べたいな」
「あ、ああ。もちろん。いっぱい食べてよ」
「嬉しいなぁ。あと、私の作ったチョコの感想も聞かせてね」
「うん。来月にはしっかり、お返しもするから!」
「ありがと、期待してるね」
俺は、彼女が好きだ。
どうして好きなのか、どうやって好きになったのか、よく覚えていないところもある。何だかこの一年くらいの記憶が、ぼんやりしていた。そのことを考えるとチリチリと胸の奥が痛くなって、酷い時には頭も痛くなる。でも綴ちゃんを好きだという事実は変わらない。
俺みたいな変わり者を、彼女は許容してくれていた。そのおかげで寮のメンバーとも打ち解け、俺は俺らしくできたといっても過言ではない。先輩方とも半ば強引に交流を持って、真田先輩に節分の鬼役としてサンドバックを貸してもらえるぐらいの仲良しになった。
でも何か、もっと決定的なところが抜け落ちているような気がする。
その穴を、綴ちゃんへの気持ちと、綴ちゃんが今向けてくれている気持ちが、塞ごうとしてくれている。
「なあ、綴ちゃん……」
「なに?」
優しい声に、俺は躊躇うことなく告げる。
「俺、来年も綴ちゃんからのチョコ欲しい、な」
照れ臭くって少し噛みながらの告白になったけれど、綴ちゃんは……綴は、幸せそうに「もちろん」って呟いて何度も頷いてくれた。
来年になったら、早けりゃ結婚だってできてしまう。
俺はこう見えてかなりの一途な男だ。来年どころか、その次も、またその次の年も、彼女からの贈り物をゲットしたい。そしてたくさんのお返しをしたい。
「っていうか今更だけど本命でいいんだよね、コレ」
「言わせないでって言ったでしょ、ばか」
「……人生初の本命チョコだよ。最高だ」
「これからもずっと貰えるんだから、大袈裟だよ」
綴ちゃんの返答に浮かれた俺が、彼女を抱き上げてキッチンで歓声をあげ、結局アイギスたちに色々知られてしまったのだけが、今日唯一の失敗だった。