「巳雪、また捜査資料が見つからないです〜」
「はいはい、待ってくださいね什造さん」
にこやかに微笑んだ青年は、迷わずひとつの棚の前へ歩んでいくと、「どうぞ」と什造の探していた資料を見つけ、差し出してみせた。
いかにも気の弱そうな、線の細い巳雪ではあるが、これでも一応立派な喰種捜査官である。鈴屋班に所属する者たちがそうであるように彼もまた什造を敬愛しており、その思いのまま日夜職務と時々お菓子作りに励む。
つまりは巳雪は、とても温厚な青年である。
什造に害をなすもの以外に対しては。
「ありがとうです。巳雪は全部の資料覚えてるですか」
「こういうの好きなんです。皆さんのお手伝いをさせて頂いているから、資料に触れる機会が多いですし」
「巳雪が僕の部下で良かったですー。とっても楽チンだしお菓子は美味しいしラッキーだらけですねえ」
「身に余る光栄です、什造さん」
まるでどこぞの執事か何かのように什造に仕える様は、敬愛というには行き過ぎているようにも映る。
しかし当人たちはこの関係性や距離感を全く気にしたことは無い。
二人とも中性的な顔立ちなのも相まってか、あれやこれやと根も葉もない噂が立ったりすることもあった。実際に今も、たまたま資料室に居合わせた捜査官たちが何か言いたげな、思う所のあるような目を二人に向けていた。物珍しいものを見る感じのそれ。
什造が気付いてそちらに視線を向けると彼らはそそくさと退散していった、が、巳雪は全く気付いていない。
鈴屋什造という人は巳雪にとって命の恩人であり、何よりも大切な尊敬すべき人物である。その為なら周囲の視線や面白半分の噂話も意に介さない。什造の気分を害することさえ無ければ。
逆に言うと、什造の気分を0.1ミリでも害する対象は、“喰種”宜しく駆逐対象として捉える。
そのことで過去に酷い喧嘩(完全に理性の飛んだ巳雪の一方的な攻撃だった)をしたこともあった。が、什造に禁じられて以来、目立った行動に移すことは無くなった。
「傷つけるのは、弱い人たちを傷つける“喰種”だけにしなくちゃ、何のための喰種捜査官ですか」
「仰る通りです……。申し訳ありません」
殊勝な態度で返り血をあちこちにくっつけたまま正座し、身を縮めていた巳雪の姿を什造はよく覚えている。
――巳雪は、僕以外のところでは働けないです。
かつて自分を導いてくれた人の面影を思いながら、什造は、巳雪を導くと決心したものだ。
もともと巳雪は悪い人間ではない。細かいところまで気を配り、忙しいメンバーのサポートを進んで引き受け、雑用諸々もいつの間にかするっと片付けてくれている。無理矢理動いている訳ではなさげだが、常識的にはキャパシティを越えているのではないかと言うほど彼はよく働く。
堪忍袋の緒がいつ切れるか判らないだけ、それだけなのだ。
「あっと、いけない。俺が取りに来たものを忘れるところでした」
棚の一番上の段から、分厚いファイルを5つほど引っ張り出し、巳雪は苦笑した。
それを見た什造は、何となく巳雪の真似をして一番上の段へ手を伸ばしてみる。あと少しで届きそうだが、跳ねないと届きそうにない。もう一度、と什造が背伸びした矢先だった。
「これですか?」
什造の手の先にあったファイルを、巳雪がいともたやすくあっさり取り出した。
どうぞ、とファイルを差し出され、什造の表情が珍しく強張る。
「……巳雪はたまに空気が読めないです」
「えっ!? 俺、何か気に障ることをしてしまいましたか……!?」
慌てふためく巳雪を見上げ、什造は一瞬微笑んだかと思うと、
「とうっ!」
「あ痛っ!?」
軽い蹴りを放った。軽いといってもその蹴りが当たったのは巳雪の脛。弁慶の泣き所を鋭く突かれた彼は、ファイルを落としそうになりながらも必死に堪え切った。
「最後に取ってもらったファイルは別に要らない奴です、戻しておいてくださぁい」
什造はそう言って、巳雪に微笑むと資料室を出て行く。ひらひらと右手を振るのが最後に見えた。
そして巳雪は、一体全体何がどうして脛を蹴られたのか判らないまま、大分遅れて自分も資料室を後にしたのだった。
気まぐれな上司と、キレどころの知れない部下。
両者ともにイレギュラーであることは間違いない。
「什造さんって本当に不思議だなあ、もう……いてて」
自分のことは棚に上げて、巳雪はこっそり愚痴た。