※連載夢主がもし人間の世界で生きられなくなったらというお話





 僕には結婚を考えている女性がいる。
 無理だと言われるかもしれないけれど、その子は紛れもなく人間だ。僕は人間と結婚しようとしていた。
 嘘だと笑われるかもしれないけれど、その子は、人間としての安住の地を捨てて僕らの世界を選んだ。いや、選ぶしかなかったというべきなのだろうか。
 彼女はそうせざるを得ない状況まで追い込まれ、沢山のものを奪われてしまっていた。その子が、通い慣れたこの『あんていく』を訪れたのはもう、本能任せの突発的な行動だったのかもしれない。
 泣きじゃくる桜子ちゃん……いいや、桜子の背中から毛布を掛けた入見は、そのまま彼女を抱き締めた。彼女が泣き止み、震えを抑えられるようになるまで、優しく強く。どうして僕がそうしなかったのかというと、僕がその場に居合わせなかったからとしか言えない。芳村さんの連絡を受けて店へ駆けつけた時には、大分落ち着いた桜子が入見に身を預けて、ぐったりとしていた。

「私、知ってます……」

 泣き疲れた桜子の言葉に、僕らはじっと耳を傾けた。

「古間さんたちが“喰種”なの、わかってます……でも、誰にも言いません……」

 予想はしていた。桜子には、僕らの正体が何か知られているのではないかと。
 それでも今まで対処せずに来たのは、僕がそうしたかったから。そして芳村さんたちもまた、それを許容してくれていたから。理由なんて野暮なことは語らせないでほしい。先に言ったように、僕は桜子という女の子を、ひとりの女性として、自分の奥さんにしたいと思っているんだ。
 男にとっては、それだけで十分なのさ。

「人間なのに、私、もう人間を信じられないし頼れない……。ううん、人間とか“喰種”とかどうでも良い。私は、私の好きなひとたちを信じてたい、だけ」

 何があったのか、僕らは知っていた。だからこの夜更けでも迅速に動けた。ただ桜子が『あんていく』へ真っ直ぐ向かってくるというのは予想外だったけれど。何があったのか、その事件について語るのは今は省く。
 その日、その瞬間、桜子は人間の世界から弾かれてしまった。つまりはそういうことだから。
 僕らは当然のように、以前から決意していた通り、彼女を受け入れた。
 桜子も『あんていく』の一員になった。
 人を食べる自分たちに囲まれていて怖くはないのかとニシキくんが聞くと、けろっとした顔で桜子は言った。

「そんなの、人間だって同じ哺乳類である牛とかの肉食べてますよ。人間が人間を食べる犯罪も少なくないですもん。自分勝手ですけど、自分と自分の大事な人が無事なら他はどうでも良いんですよ」
「……同じようなこと言うヤツいたわ」
「はい?」
「何でもねぇ。……まあ、気を付けろよ」

 ただ彼女は存在を極力知られない方が良かったから、主に四方くんについて回って、四方くんに“生き方”を学んでいた。
 桜子は四方くんに「私が少しでも『あんていく』の不都合になることをしたら食糧にしてほしい」と何度も伝え、そのたびに四方くんは困って沈黙していたっけ。僕は桜子がそう言った瞬間に初めて立ち会った時には血相を変えて思いとどまらせようとあれこれ捲し立てて――この辺りからもう自分の想いを隠そうとしていなかったね――、それは肝が冷えた。もう二度とそんなことを言っちゃ駄目だよ、と、悲しいのか怒っているのか自分でも判らなくなりながら諭すと、「ごめんなさい」って返ってきて。

「俺には無理だ」

 嘆息する四方くんの呟きの真意を悟るまで、こんなに時間が掛かってしまった。
 そう。桜子には、芳村さんでもなく、入見でも四方くんでもなく、僕がついていなくっちゃいけないのさ。
 ――この僕が。
 人の目を忍んで生きる桜子の家は小さなコンテナだった。かつてはその年頃と環境に見合った、ありきたりながら確かな平穏と幸福に満ちた世界が広がっていたのに、たった一晩、一瞬で、その世界は桜子だけを切り捨てて進んでいった。
 ――そばにいて、抱きしめてあげられる距離にいなくちゃあ。
 決心した僕は、まず芳村さんに桜子と結婚したいという意志を伝えた。その時の芳村さんの顔は、今まで見たことが無いほど苦しそうだった。苦痛を噛み締めるような、それでも決してその痛みを遠ざけようとはしない……悲壮な決意に満ちた表情。

「……桜子ちゃんも、言っていたよ」
「え?」
「君と一緒になれたら、と」

 芳村さんはそれ以上何も言わなかった。
 僕はすぐに、桜子の住みかであるコンテナのある場所へ向かった。
 四方くんがそばにいるから危ない目に遭うことはない、けど、彼はとっても寡黙だからね。人間相手となったら尚更、どんな話題を振ったらいいか困り果てているだろう。桜子ちゃんは安全だけれど暇を持て余しているに違いない。
 暇であってほしい。忌々しい記憶を引きずり出して自分を責めたりしていないでほしい。
 だから僕は桜子という女の子を奥さんにしようと決めたんだ。考えていた、じゃない。もう決めた。
 年の差はちょっと……いやそこそこ離れているけれど、そんなの愛の前では障害になりやしない。
 僕みたいにちょっと賑やかな奴が常にそばにいるということ。
 ひとりではなくふたりで過ごすのだということ。
 君は君を責めなくていいということ。
 そんな悲しいことより、僕と一緒にどう過ごしたいのか考えてほしいということ。

「桜子ちゃん!」
「古間さん?」

 ほとんど飛び込む形でコンテナ部屋に入った。きょとんとした桜子の顔は若干やつれて見えた。ちゃんと食べていないみたいだ。前に会った時、口が酸っぱくなるだけ注意したのに。
 そんなこともあろうかと持参したサンドイッチのタッパーを彼女に差し出して、僕は跪いた。

「――僕の奥さんになる勇気はないかい!?」

 情けないが、この時僕は目を閉じていた。桜子の顔を見るのが怖くて、緊張で、反射的に瞼を閉じてしまったんだ。けれど、手からタッパーの重みが消えて、次いで僕の胸へと飛び込んでくる彼女を受け止めた瞬間、僕と彼女は長いながい道のりの果てで合流したことに気付く。
 泣きながら「うれしい」と耳元で桜子が呟いたのが聞こえて、「僕も嬉しいよ」って、すっかりやつれた彼女の背中を擦りながら返した。
 こんな時に、芳村さんのあの表情を思い出して、僕は自然と気を引き締める。芳村さんが僕に伝えようとしていた何か。それは、きっとこの先、僕と桜子も向かい合う日が来るであろうもの。きっと酷く辛く苦しい痛みが伴うことだろう。けれど、この子の存在を確かめているうちに、僕の心は竦むどころか力強さをみなぎらせていく。
 なんてったって、僕は『魔猿』だからね。

「桜子ちゃん、今度から僕は君を桜子って呼ぶよ。桜子ちゃんはどうする?」
「え、えっと……古間さん、じゃ、駄目ですかね」
「僕の奥さんになったら君も古間さんになるんだよ」
「あ、そ、そうですね……!」

 年頃の女の子らしく頬を赤らめて、もじもじして。そんな桜子の姿を見るのは何時ぶりだろう?
 彼女と初めて会った時、彼女に初めて想いを告げられた時、ついこの間の出来事のように色鮮やかによみがえる、まだ彼方側だった桜子の面影たち。
 此方側へとやってきても、あの頃のような顔をしてくれることに、僕は、

「じゃあ、円児さん、ですね」

 心の底から、安堵した。


 無理だと言われるかもしれないけれど、この子は紛れもなく人間だ。僕は人間と結婚することを決めた。
 嘘だと笑われるかもしれないけれど、その子は、この世界を当の昔に選んで受け入れていた。
 それらは全て、そうなろうとしてなったものではなくて、悲しみが始まりだった。
 なのに、僕も桜子も今、とても嬉しくてたまらなかった。傷のなめ合いでも依存でもない。純粋な愛情を、こんな歪んだ状況だからこそ抱えていられた。
 結婚しよう、といっても、式も何もない。二人きりのささやかな誓いを交わしただけ。
 ただ、心に繋がっているという左手の薬指にはめる指輪だけは後からしっかり用意した。
 この先に待っているのは恐らく喜劇からは程遠い。それでも、不思議と穏やかな気持ちになった。
 ――隣に絶対的な存在がいてくれる。その証が常にこの指にある。この胸にある。
 嬉し泣きで疲れて眠る桜子を抱えたまま、僕は、幸せに頬を緩ませっぱなしだったとさ。

(Title by まばたき)

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