夜分遅く、こっそりと“偏食”への接触を図った古間は、ひとまず「魔猿、って言えばわかるかい」と問うてみた。
 古間としては牽制のつもりだったが、相手は「はぁ?」と首を傾げただけ。
 ――まさか、この魔猿の名を知らぬ者が20区にいるとは!
 カルチャーショックを受けつつも、古間は冷静に“偏食”へ話しかける。まだ20区に来たばかりでルールを知らないままなだけかもしれない、落ち着いて対処しなくては。そう自身に言い聞かせつつ。

「それぞれの区画で“喰種”がルールや狩場を決めているのは知ってるかい。特にこの20区はそこら辺をキッチリしてるんだ」
「ちょっと前までオオグイだとかグルメだとかのさばってた20区が? 説得力皆無だわ」
「そう揚げ足を取らない。“白鳩”の動きも活発化してる。君自身の為にも、もう少し考えて動くべきだと思うってだけさ」
「……うっぜぇ」

 とことん相手は古間の話を聞かなかった。
 穏便に済めば一番良かったし、力で訴えるのはスマートではない。今の古間にとってそれは、出来る限り避けたい事態だった。
 しかし“偏食”はもう以上構ってはいられないと言わんばかりに跳躍した。すぐに古間は後を追おうとしたが、進路に“偏食”の羽赫による射撃が降り注ぐ。一瞬足を止めている間に、“偏食”は姿をくらましてしまった。

「全く、最近の若者はきかないねぇ……」

 古間は鼻の頭を掻きながら苦笑していた。
 アスファルトに突き刺さった赫子の残滓をどう処理したものか。彼が悩んでいると、そこに新たな人影が舞い降りた。
 四方である。

「……やはり聞かないか」
「若気の至り、というには暴れすぎだよね。見ていて痛々しいよ。ああいう調子は心当たりがないわけではないから」

 四方は何も言わなかった。古間が指しているのは古間自身の過去の罪たちであり、それ故にあの暴れまわる同胞にも強く出なかったのだろう。しかし……。

「あのままでは、客に被害が及ぶ」

 四方の低い呟きを、古間は静かに噛み締めた。
 確かに“偏食”の獰猛さは、そういった事態を引き起こしかねない。既に敵が動き始めているから、その兆しはすぐそば、それこそ手を伸ばせば届く範囲まで迫っている。
 ――実力行使も視野に入れないとならない、か。
 いつになく古間が思いつめているのを、四方は見て見ぬふりをし、割れたアスファルトに残された赫子の処理に移った。

◆◆◆

 古間は努めて明るく、昨晩の微妙な記憶を引きずることなく店へと出ていた。
 そこにふらりと桜子がやって来た。いつもより少し遅めの来店だ。今日は友人であるヨミも同伴している。二人で夏休みの過ごし方について相談しているようだ。とても穏やかな光景だが、桜子の表情には陰りがある。
 だが……そんな桜子が、うっすら青白い顔で古間にこう言った。

「古間さん、何かあったんですか?」
「え……」

 彼女とヨミの注文したブラックコーヒーを危うく引っくり返すかと思った。が、そこは大人の胆力でカバーし、一切危なげなくテーブルにアイスコーヒーを並べてみせた。
 ごくごく自然に、いつも通りの桜子が慕う自分になるように、蝶ネクタイを撫でながら首を傾げる。

「……大人の男が密かに抱える悩みに気付くとは。なんて桜子ちゃんは繊細で感受性豊かなんだ。恐れ入ったよ」
「え、えっと、不躾でしたかね、ごめんなさい……」
「そんなことは無いよ。心配してもらえるだけで男冥利に尽きるものさ」

 ウインクして微笑めば、ようやっと桜子の顔は血色良くなった。そうだ、桜子にはずっとこんな風に、年頃の少女らしい愛らしさに浸っていてほしい。その想いに応えられずとも、特別な存在となりつつある桜子の幸せを、古間は願わずにはいられなかった。
 桜子は「私が片想いしているだけ」と言い、古間もそう解釈し、誤魔化し続けているこの強い想いを、的確に表現する言葉は無いものか。愛情には違いないが男女のそれではなく、ましてや血縁のそれでもない。何と言えば良いのだろう。
 もどかしさを心地良く思っていたのは何時までだったか。少なくとも焦り始めたのは“偏食”が活発に動き出してからだったと思う。“偏食”の捕食対象・好みに桜子が当てはまっていることは薄々察していた。まさか危機がここまで明確に迫ってから悩み始めるとは、なんて遅い反応だろう。我ながら情けない、鈍くなったものだと古間は内心愚痴た。

「そういえばさぁ、桜子。今日アレ、びっくりしたよね。喰種捜査官!」

 不意にヨミが口にした言葉に、古間は僅かに目を見開いた。
 無遠慮かつ警戒心無く、ヨミは、桜子を見ながら語り出す。

「まさか自分らが聞き込み受けるとか思いもしなかったよね! っていうかフツーの人っぽかったのに、あれで“喰種”と戦うんだもんねぇ。ビックリだよ」
「よ、ヨミちゃん。興奮しすぎだよ……」
「興奮もするって!! なかなかないじゃん、喰種捜査官と話すだなんてさ」

 ヨミの無邪気な好奇心に走った笑みと反して、桜子は酷く恐ろしいものでも見た後のように覇気のない顔へと戻ってしまった。

「こ、怖い話、あまりしない方が良いよ。怖い話をするから寄って来るのかもしれないし」
「オバケじゃん、それ。むしろ危険な話は周りにバンバン広めて警戒できるようにした方が親切でしょ?」

 あっけらかんとしたヨミに、桜子は何も言い返せなくなって黙り込む。テーブルの下で握りしめた両手の震えを抑え込むことに力を注いだが、上手くいかずにますます震えは増してしまう。
「怖がり過ぎだよ」と友人に失笑され、唇を小さく噛み締めながら、桜子は怯えていた。
 見ている方が辛くなってくる怯えように、思わず古間は割って入る。

「ヨミちゃん、そのくらいにしたらどうかな? 桜子ちゃんがこのままじゃ怯えすぎて失神しかねないよ」
「まあ、確かにこのままじゃぶっ倒れそうだし……。ごめんね桜子」
「う、ううん。大丈夫……」

 言葉に反して青褪めたままの桜子。幾らなんでも怯えすぎではないだろうか。
 ただの人間がそこまで喰種捜査官との接触に怯える必要はない。“偏食”に対する恐怖にしては少し違うような気もする。
 古間が憶測を巡らせていると、桜子は、ぽつりと溢した。

「……暴れてる“喰種”がこの辺りに潜んでるんだったら……『あんていく』の人たちも危ないんじゃないかって不安で仕方なくて……」

 桜子らしい心配だった。思いやりに素直に感動と感謝を覚えつつも、それが全くの杞憂――この『あんていく』の“喰種”に噂の人物は全く敵わないであろう――ということに申し訳なさを感じた。だからと言って無下にするわけにもいかず、

「僕らの心配をしてくれていたんだね、ありがとう。けれど少なくとも顔面蒼白の桜子ちゃんよりは大丈夫だから、安心していいよ」
「でも! ぐ、“喰種”ってすごく強くて人間は敵わないって……!!」
「怖い話をしたら寄って来る、だったよね? だったら桜子ちゃん自身も、怖い話は避けて呼び寄せないようにしなくちゃ。注意は大事だけれど、必要以上に怯えて固くなるのはいけないよ」
「……そ、そうです……ね」

 桜子はなおも不安そうにしていたが、それ以上“喰種”について話すことは無かった。ヨミも無遠慮に友人へ件の話題を振ることなく、静かに珈琲を啜り始める。
 ホッと胸を撫で下ろした古間は、カウンターへと戻った。
「大変ね、色男」からかう入見に、「悪くはないけれどね」と彼は肩を竦めたのだった。
 桜子とヨミが『あんていく』を出たのは、それから間もなくのこと。いつもより力のない笑みが、最後まで桜子の心へ影を落としていた。
 ――その影は少しずつ濃くなっていく。
 喰種捜査官の捜査の手をかいくぐった“偏食喰種”は、またもや凝り固まった嗜好と本能に任せた捕食を行い、翌日のニュース番組を賑わすことになる。

「遂に、門限が出来てしまいました」

 昨日より一層影を落とした表情で『あんていく』へやってきた桜子はそう呟いた。今日はヨミがいない。一人きりで彼女はカウンター席へ座り、向かい合う古間と会話をしていた。

「親御さんもそりゃあ心配だろうね……。僕ですら心配で気が気じゃないから」
「有難うございます。でも、門限なんて言われなくても、大抵私は夕ご飯までには帰るんですよ。あまり意味が無いと思います」
「心配してくれていることに変わりはないさ。ま、たとえ“喰種”がいなくても夜遊びはまだ早すぎる。暗くなる前に帰らなきゃだね」
「夜遊び、か……。する気も起きませんから、大丈夫です」

 笑いながらココアを啜る桜子は、やはり思い詰めた様子だ。よほど報道や捜査官との接触が堪えているのだろうか。
 古間はどうにかして彼女の陰りを追い払ってやりたかった。

「――桜子ちゃん、今度の休日は空いてるかな」

 気が付くと古間は、そんなことを口走っていた。
 きょとんとした桜子の視線がぶつかり、改めて「どうかな?」と首を傾げると、

「ど、土曜日も日曜日もお休みで、特に、お家で何もなく過ごす予定ですけど……」
「つまり空いているんだね。だったら妙案があるんだけど」
「は、はい」

 戸惑う桜子に、ウインクしながら彼は言った。

「土曜日。ちょうど僕もオフだから、一緒に何処かに出かけようか」

 思わぬ誘いに、ここのところ沈んでばかりだった桜子の顔が真っ赤に染まる。
 勢いのままに古間は話を進めた。といっても、土曜日の10時に『あんていく』前で落ち合うことにしただけで、肝心の内容までは決められなかった。一緒に出掛けよう――そう約束しただけで桜子は興奮のあまり取り乱し、何度も注意深く約束の日時を確認したのち店を飛び出して行ってしまったのだ。ココアの代金をきっちり、カップの横に置いて。
 しっかり者なのか慌てんぼうなのか、よくわからないが実に桜子らしい動揺ぶりだ。
 苦笑しながら古間は、カップを片付け、代金を回収した。
 成り行きを見守っていたトーカが、遠慮がちに古間を見つめている。

「良いんですか? 古間さん。あんな約束しちゃって」
「男として、あそこで何かしてあげなきゃいけない気がしてうっかり約束しちゃったよ」

 古間は微笑みながら答えた。

「僕と一緒にいれば、桜子ちゃんも安心だろう? なにせ伝説の“魔猿”だからね、僕は」
「まあ、桜子、単純ですしね」

 魔猿と言われてもピンと来ないのだが、トーカは古間を応援しようとぎこちないながらも笑って返した。
 ――古間さんが“喰種”だって知ってる人にとっては、牽制になるかもしれないしね。
 どれほど古間が強いのか、そして古間と桜子が歩く姿を捕食相手を探す“喰種”が都合よく見てくれるかも全く分からなかったが、トーカは『お出かけ』が二人にとって良い方向へと進むように祈っていた。
 祈りほど儚く、頼りないものは無いと知りながら。

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