桜子は想像していた。
 もし古間がいなくなってしまったら。
 もし古間が行方知れずになってしまったら。
 ――思うだけで心臓が締め付けられて苦しくなった。体が震えて、脂汗がどっと噴き出す。

「ロマちゃん、これよりずっと辛いんだよね……」

 あんなに明るくてニコニコしている彼女がどれだけ苦しんでいるのかと思うと、桜子は言葉にならなかった。
 とぼとぼといつになくしょげた足取りで『あんていく』へ向かう。今日は先日汚れた服を返してもらうことになっている。あの時に汚したのが制服でなくて良かった、と心から思う。
 店が見えてくると、次第に彼女の気持ちは上向きになっていった。自然と古間のシフトを覚えてしまった桜子は、今日行けば古間が店にいると知っている。古間も古間で、急な休みを取る際には親切に桜子へ耳打ちしてくれるのだ。そのくすぐったさと距離感を思い返すだけで、日差しとは別の熱が桜子を火照らせた。
 あと数メートルでお店だ――……。浮かれる桜子の足を、

「君、ちょっといいかな」

 聞き慣れない男性の声が呼び止めた。
 悪いことをしたわけでもないのに反射的に桜子の体は強張った。
 おそるおそる振り返ると、声の主であろう男性と、その隣に女性の姿があった。二人とも夏場だと言うのに、きっちりスーツを身に纏っている。漂う雰囲気が単なる社会人のそれとは違うことが、平凡な桜子でも判った。

「な、何でしょうか……」
「ごめんね。実は私たちはこういう者なんだけれど……」

 男性が小さな手帳を取り出し、開いて見せる。
 そこには『喰種捜査官』と書かれていた。

「……え、えっ? そ、捜査官……!? 嘘っ、初めて見ました……!」
「まあ、しょっちゅう出会うことは無いでしょうね。でも存外多いわよ」

 女性が桜子の緊張を和らげようとしてくれているのが、その語り口と微笑から伝わってくる。

「実は聞きたいことがあって、この辺りの学生さんに声を掛けているの。少しだけ時間、いいかしら」

 ここで断るのも気が引けた。そうすることで自分に後ろめたい何かがあると言うに等しく思えたからだ。
 桜子が頷くと、女性はにっこり笑って「じゃあお店にでも入りましょう、暑いしね」とファミリーレストランを指さした。『あんていく』とは逆の方向にある。それでも……桜子はやはり断れきれず、二人の後についていった。
 そんな桜子の姿を、ちょうど店の外に出た古間が見かけていたのだった。

「どうしたんだろうか、桜子ちゃん……」

 桜子の緊張しきった表情が気にかかった。それに桜子がついていったのは“白鳩”だ。
 ――本当にどうしたんだろう。
 聞き込み調査自体は決して珍しくないのに、古間の胸にはしばらくその光景が引っかかった。

◆◆◆

 店に入り席に座るなり、桜子は様々な質問を投げかけられた。通っている学校名、その行き方、家族構成、交友関係……。まるでテレビドラマの事情聴取のような状態だ。事件の疑いをかけられている気分になって、桜子の気が塞ぐ。
 しかもこの二人の喰種捜査官が調べているのは、以前ニュースで見かけた『女子学生をターゲットに被害を増やしていた喰種』についてだった。桜子はその被害者であろう女子たちの生前の写真を見せられた。「知ってる子はいる?」聞かれるたびに首を振る。相手もそれほど期待していなかったのか、すぐに写真はしまわれる。
 一通り話し終えたところで、男性の捜査官がこう言った。

「平たく言うと、あなたを含めてこの辺りの女子学生全員が“喰種”に狙われている可能性が高いんです」

 桜子は絶句した。どういうことですか、と訊きたかったのに、口がパクパクと動くだけで、声が出ない。
 狼狽える桜子に、男性は続ける。

「些細なことでも良いので、何か気付いたりした場合は迷わずに当局へご連絡ください。そして、あまり一人で行動しないように」
「そ、そういうのって、学校とかに呼びかけた方が良いんじゃ……ない、ですか」
「勿論内容はぼかして、それらしいことは一帯の学校に呼びかけます」
「だったら、なんで私、お二人に捕まって話を……」

 ようやっと声を絞り出した桜子に、女性が苦笑しながら答える。

「さっきも言ったけれど、こうやって直接声掛けしているのは何もあなただけじゃない。私たちの追っている対象が標的に選びそうな相手に、話を聞いてもらってるの」

 桜子はぞっとした。
 自分は“喰種”に狙われる条件を満たしている――。平凡な自分の一体どこがその“喰種”の目についたのか判らない。それでも、混乱と動揺で言葉を詰まらせるには十分なショックを受けた。

「私たちの見当違いだったらいいけれど、捜査官が直接接触したとなれば“喰種”も警戒するだろうから、地道にだけれど注意を呼び掛けている。正直、今のところ、それぐらいしか手立てがないんだ」
「でも大丈夫。あなたが思っている以上に捜査官は街中にたくさんいるし、対象も私たちに目星をつけられないよう警戒しているみたいだから、そう襲ってくるということは無いと思う」
「だから、気を付けてね。何かあったら必ず私たち喰種捜査官が君たちを守るから」

 ……殆ど一方的に話を突き付けられるばかりで、上手く拾えた自信は無い。だが、要約するとこんな感じの話だったと思う。
 つまりは、気を付けるしかない。
 ふらふらと桜子は『あんていく』に向かった。気分転換がしたかった。服も受け取る約束だし、行かない訳にはいかない。
 ――今すれ違った人が、もしかしたら例の“喰種”かもしれない。
 ――今すれ違った子が、もしかしたら次の被害者かもしれない。
 嫌な考えが頭の中で渦を巻いて、不安で仕方なかった。
 ――次に食べられてしまうのは、私かもしれない。
 今までテレビの向こうの出来事だったことたちが、急激に距離を詰めてきた。それは間近にあるのだと、恐ろしく意地悪で底知れぬものがニタニタ笑って此方を窺っている。尖った牙と鋭い爪を光らせて、その時を待ち望んで蠢いている。
 ――怖い。
 自分や家族、友達が襲われたらどうしよう。どうしたらいいのだろう。
 いざ襲われて本当に捜査官の人たちは助けてくれるのだろうか? ……間に合う、のだろうか?
 避けたくても避けがたい疑問が、ぐるぐると渦巻いていた。

「桜子ちゃん」

 不安が、恐怖が、一度呼びかけられただけで和らいでいってしまった。
 自分の心が真っ暗闇に落ちる前に、それに気付いたかのように響いた呼び声。
 桜子は瞳を潤ませながら顔を上げた。

「古間さん……」

 今にも泣き出しそうな桜子を見て、古間は目を丸めた。だがすぐに微笑みを浮かべ直し、くいっと親指で『あんていく』を指しながら首を傾げた。

「今日は寄って行ってくれないのかな?」
「……お邪魔、していいですか」
「当然だよ。この『あんていく』は来るもの拒まずさ。お客さんが来てくれなきゃ商売にならないしね」
「そうですよね」

 一瞬のうちにいつもの穏やかな日常が胸中へ舞い戻ってきてくれる。
 大好きな人の優しい笑顔。穏やかな声。何もかもが、桜子にとって大きな支えだ。
 それとも、こうやってすぐに日常へ戻って来れるのは、注意不足で不謹慎なのだろうか――?

「そんな難しい顔してないで、とりあえず入らないかい?」
「あ、ですよね。こんなところに突っ立ってちゃ迷惑ですしね……」

 おずおずと桜子は『あんていく』へ入店した。
 いつも通りの優しくて穏やかな時の流れ。ほっとする芳しい香り。
 窓際の席へついて、アイスココアを注文する。捜査官の聞き込みや忠告で、思った以上に疲弊していた。甘いものが欲しかった。
 店を見渡してみたが、今日はロマは非番らしい。姿が見えなかった。代わりに、久々に出勤していたトーカが桜子に近づいてくる。クリーニングされ、ビニール袋のかかった桜子の服を抱えていた。

「桜子。ハイ。ロマが汚した服」
「あ、ありがとう。トーカちゃん。……そうだ。受験、応援してるね」

 ふとトーカの出番が減った理由を思い出して、桜子はエールを送った。
 少し呆気に取られたような顔で、トーカは頷く。

「え? ああ……ありがと」
「あとね。神社でお守り買ってきたの、合格祈願のやつ」

 我に返り、桜子は鞄の中を漁った。判り易いように神社で丁寧に袋に包んでもらった合格祈願のお守り。何だかんだと相談に乗ってもらったり、話に付き合ってもらったりしているお礼をする絶好の機会だと思ったのだ。ただ用意したはいいもののなかなかトーカに会えず、今の今まで渡しそびれていた品。
「カバンにしまって……あ、あった。よかった! はい!」ニッコリ微笑んで桜子がお守りの入った袋を差し出すと、トーカは苦笑を溢した。彼女からしてみると、そこまでされるようなことをしてきた覚えがないのだ。

「は? いや、何であんたが私にお守り買ってきてるの……依子二号かよ……」
「えっ? えっと……迷惑だったらやめときます」
「折角だしもらったげるよ」

 お守りを貰う覚えはないが、桜子がわざわざ買ってきたものを無下にする非情さもトーカには無い。
 笑いながらお守りを受け取ったトーカが、ゆっくりとカウンターへ戻って行った。
 その姿を見て、何だか桜子は嬉しくなった。あのお守りが少しでも役に立てば幸いだ。
 ほっこりとした心境の彼女の元へ、古間がアイスココアを運んで来てくれた。注文を聞くのは別のひとでも、運んできてくれるのはいつも古間だ。それは『あんていく』の面々がそうなるようにしてくれているのか、自然とそうなったのか、はたまた古間が“そうしたい”と思ってくれているのか。どれにせよ、桜子はたまらなく幸せだった。
 ――特別なお客さんになれてる気分。
 含んだココアの甘みが、緊張を解きほぐす。“喰種”の標的にされている可能性があるということを一瞬忘れてしまうほど、まろやかな風味が染みていく。
 ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろう。
 窓の外を眺めながら、ゆっくりと沈んでいく陽を見つめて思った。

「帰りたくないな……」

 無意識のうちに、そう零れていた。

◆◆◆

 都内の女子学生のみを狙う“偏食喰種”の情報は、勿論『あんていく』の人々も知っていた。
 それはある意味“白鳩”より鋭く、生々しい鮮度を持っていた。
 捕食後の現場の様子から、羽赫持ちであることと随分手慣れていることが知れている。証拠らしい証拠は偏食さが大きく現れた食べ残しぐらいだ。突発的な捕食と各地区のルールを無視した行動から、血気盛んで向こう見ずな若い“喰種”ではないか、と客たちは噂している。厄介な“喰種”がなりを潜めたと思ったら今度は別の問題が起きた。
 比較的平穏に過ごしてきたこの地区の面々も、正直うんざりしている。

「全く、一体どこのどいつなんだか、そのアホは」

 休憩室でくつろぐニシキが盛大に溜息をつく。
 トーカはというと、昼間に会った桜子や学友・依子のことを案じながら“偏食喰種”に思考を巡らせていた。説得が通じる相手だとしたらまずルール無視での捕食を騒がれるまで繰り返しはしない。しかも狙うのは女子学生ばかり。つまり、依子も桜子もその“標的”に入っているのだ。

「場当たり的なやり方の割に足はなかなかつかないって、雑を装った用意周到タイプ……?」
「どっちにしろ正直大人しくしてほしいもんだ」

 ニシキの恋人も女子学生である。勿論ニシキのことだから恋人の周囲を警戒しているだろうから心配ないが、ずっと警戒を続ければ疲れる。人間らしく生活する日々に息が詰まりかける自分たちにとっては、本当に迷惑この上ない存在だ。
 今日は桜子がその“偏食喰種”について“白鳩”に何を吹き込まれたのか、真っ青になっていた。古間の細やかな気遣いでいつもの調子を取り戻して帰って行ったが、まだ落ち込まないとも限らない。
 だが、その“偏食喰種”の目星をとっくにつけている面子もいた。
 芳村、入見、そして古間である。
 芳村は四方を通じてその“偏食”に忠告をしたが、効果はあまりなかった。ニュースに報道されないように、より周到かつ陰湿に“偏食”は食事を続けていた。それを勘付いた喰種捜査官が、桜子のような学生たちに声掛けする事態へ悪化してしまった。
 このまま“偏食”が暴れるのだとしたら、人間にとっても自分たち“喰種”にとっても良くない。

「そろそろ、何らかの手を打たないと危ないかな」

 芳村の呟きに、そっと古間が顔を上げる。

「だとしたら今回ばかりは俺が適任ですね」
「珍しくそうね」

 入見の同意に、芳村も頷く。
 口調こそいつもの古間だったが、その声音は真摯な決意に満ちていた。

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