バレンタイン、無事に古間へチョコレートを渡した桜子。しかし彼女の緊張は、いまだ尚続いていた。
 ――もしかしたら古間さんは気を遣って“おいしい”って言ってくれたんじゃないかな? 実は甘すぎたとかしないかな? お父さんとお母さんにも味見してもらったし、トーカちゃんだってアドバイスしてくれた。きっと大丈夫。大丈夫なはず、だけれど……。

「古間さんだったら、きっと不味くても“おいしい”って言ってくれるよね……」

 悩みながら、桜子はベンチへと腰を下ろした。鞄の中から、不揃いな形のトリュフチョコが詰まった袋を取り出す。味は古間へプレゼントしたものと同じだが、此方は失敗作たちである。あまりにも多く作り過ぎたこれを『あんていく』のスタッフへ献上しようかとも思っていたが、古間へチョコレートを渡した後、すぐに思い直した。
 ――大好きなお店の人たちに、失敗作を押し付けるなんてできない……!
 そうして結局、余ったチョコレートを再び鞄へ押し込めて店を出たのだった。
 ベンチの側にあるゴミ箱を見つめ、桜子は決心する。少し勿体ないが、捨ててしまおう。家族も自分も、古間へ最高のチョコレートを贈るために散々チョコレートを食べ続けていたこの頃、とてもじゃないが、この袋の中身も全部片付けるのは辛い。処理を請け負ってくれる相手もいない。いつもなら頼ってしまう友人も、残念ながらチョコレートが苦手だった。
 ゴミ箱に歩み寄り、桜子はチョコレートの袋をそこへと差し出す。

「ごめん、チョコ……!」

 彼女が手を離す。
 失敗作のチョコレートがゴミ箱へと落ちていく――はずだった。

「もったいないですねえ」
「え……!?」

 桜子の手から離れたチョコレートの袋は、ゴミ箱に落ちる直前に救われた。
 真っ白くて細い手が、袋をしっかり捕まえている。その手から腕へ、腕から顔へと、桜子は辿るように視線を移していく。
 真っ白な少年が、桜子を見てニッコリ笑っていた。

「いいニオイがします、これ。食べないなら僕にください」

 無邪気な笑顔なのだが、何となく威圧感がある。此方に有無を言わさぬような、言ってはいけないような、何とも言えない神秘的な印象だ。元々人見知りしがちな自分の考え過ぎだろうと区切りをつけた桜子は、少年の言葉にコクコクと頷いて返した。
 少年は早速袋を開き、チョコレートを頬張った。「おいしーです、うんうん」今会ったばかりの相手に手作りのチョコレートを食べてもらうという奇妙な状況だ。しかし“おいしい”という言葉が、桜子の緊張を解した。

「良かった……」
「これはどうしたんです? どうして捨てようとしてたですか?」
「ちょ、ちょっと作り過ぎて、処理に困っちゃって……」
「なるほどー。よほど頑張ったんですねぇ」

 少年はベンチに腰を下ろし、のんびりとチョコレートを食べ続ける。
 桜子はつい、少年をまじまじと見つめてしまった。
 目元や唇に、赤い糸で縫っているような痕がある。……いや、間違いなく皮膚に糸を通していた。
 中性的で華奢な少年の纏う不思議な雰囲気と、見るからに痛そうな縫い痕。不躾に視線を向け続ける自分が途端に恥ずかしくなって、桜子は慌てて俯いた。
 桜子の様子など気にせず、少年は言う。

「うーん。もうちょっと甘くてもいいですねえ。……お、こっちのは丁度いい甘さです〜。タダでお菓子が食べられるなんてラッキーです。今更ですけど変なモノ入ってないですよね?」
「な、ないです。……おかしい味がしましたか?」
「いいえ〜。フツーのおかし味です〜」

 何だか楽しそうな少年の笑みに、桜子もぎこちなく笑い返す。
 少年は瞬く間にチョコレートを完食してしまった。かなりの量があったのだが、まるで彼は飲み物のように平らげてみせた。痩せの大食い、というものだろうか。それとも甘いものが好きなのだろうか。

「うーん、しょっぱいものが食べたくなってきました」

 ……そういう訳でもなさそうだ。少年は俯いて、ううむ、と唸る。

「篠原サン早く見つけなきゃです……」
「しのはら、さん?」
「一緒に仕事してる上司です。迷子になったんですよ」

 本当に困った様子だ。深いため息をついて少年がぼやく。
 桜子も困った。完全に帰るタイミングを逃してしまっていた。少年にチョコレートをあげた時点で帰ってしまえばよかった。今更しても遅い後悔が、桜子を襲う。
 だが彼女の悩みは、袋小路に入る前に解消されることになる。

「ここに居たのか、什造」

 男性の声がして、桜子は振り返った。
 ――お、大きい……。
 声から大人であることは察していたが、いざ目にすると、声の主はひどく体格のいい男性であった。「篠原さーん」呑気に、什造と呼ばれた少年が笑う。体格のいいこの人が、什造の上司である篠原という人物らしい。それにしてもなんて体格の良さだろう。何か体を使う仕事をしているのだろうか。
 おどおどと桜子が二人に交互に視線をやっていると、篠原が苦笑した。

「申し訳ない、君。もしかして什造と何かあった?」
「い、いえ。私が捨てようとしていたチョコレートを食べていただいていただけです……」
「そーですよ。美味しかったです」

 桜子が答え、什造が続くと、篠原はホッとしたように肩を下ろした。

「全く、急にいなくなるから慌てたよ……」

 ……迷子になっていたのは、什造の方らしい。だが確かに什造は“上司が迷子になった”とは言っていなかった。桜子はひっそりと自分の思い違いを反省した。
 何はともあれ、今度こそこの場を離れることが出来そうだ。

「あ、あの私、そろそろ失礼します……ね」

 探るように桜子が呟くと、篠原と什造は頷いた。

「ああ、気を付けて帰ってね。あと什造のこと引き留めてくれてて有難う」
「チョコレートありがとーございましたぁ」
「ど、どういたしましてです」

 よく判らないが、失敗作のチョコレートでも人から感謝されることがあるのだと、桜子は知った。
 そして再び、思考は古間へとプレゼントしたチョコレートのことへ戻る。
 什造の反応からして、チョコレートの味は問題なし。古間に贈ったものはその中でも厳選したものたちを集めてある。きっと大丈夫だろう。
 奇妙な出会いではあったが、桜子は密かに什造へ感謝していた。
 ただ一つ、気掛かりなことがある。

「什造さんと篠原さんって、なんのお仕事してる人なんだろう……」

 外見は全く似ていないが、どこか親子のような微笑ましさのある二人の姿を思い出しながら、桜子は帰路についた。
 その日の彼女の日記には、珍しく古間以外の人物――什造と篠原との出会いについて記されることになる。

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