一月の下旬、いつものように『あんていく』へとやって来た桜子は、じっと古間を見つめてこう尋ねた。

「古間さんって、チョコレート好きですか?」

 古間は戸惑った。チョコレートはもちろん、人間の食べ物が珈琲以外まともに口にできない“喰種”である彼にとっては、甘味が苦手か否か以前の問題だった。しかしすぐに答えられなかったのは、桜子の考えに気づいてしまったからだ。
 ……世間一般では、もうすぐバレンタインデーなのである。
 なぜか日本では“女性が思いを寄せる異性へチョコレートをプレゼントする日”として慣習化したそれ。桜子のなんともいえないはにかみ顔からして、彼女がどんなチョコレートを古間に贈ろうかと悩んでいるのは明白だった。以前プレゼントしたマフラーなどとは違い、相手が直接口にするものということもあり、綿密に探りを入れようと言うことなのだろう。
 だがどんなに尋ねてみたところで、古間には彼女がくれたチョコレートを美味しく食べることはできない。“喰種”にとって人間が平然と摂取する食物は、どれも毒だ。食べるふりをして、後でこっそり吐き出すとか、そうやってやり過ごすことしかできない。
 適当に好みを伝えて、当日にそれを受け取って、食べたふりで誤魔化すことは幾らでもできる。しかし……古間にとって、桜子が丹精込めてプレゼントしてくれたものをいかなる形であろうと破棄するなど、できなかった。種族の問題ではない。ひとえに“男”としての誇りがそうさせる。
 無駄にしないように“甘いものは苦手”と断るべきか。それとも……。
 思案する古間の目に、トーカの姿が映る。彼女もまた、古間の視線に気がつき、此方を向く。

(そういえばトーカちゃんは……食べているんだよな)

 トーカは“喰種”の身でありながら、人間の友人の手料理を必死に食べている。もちろんその行為も料理の味も、“喰種”の体には苦痛でしかない。だがその中にある友人の想いを無駄にしまいと、そんな無茶を日常的に行っているのだ。
 ――一年に一回ぐらいならば、構わないかもしれない。
 しばらく考え込んだ古間は、桜子に向き直る。

「あまり甘いものは食べないけれど、嫌いではないよ。少しビターなぐらいが好みかな」
「わ、わかりました! ありがとうございますっ!」

 無垢な少女は真っ赤な顔を何度もあげたり下げたりして忙しなくお辞儀を繰り返したのち、素早く店を飛び出していった。恐らくまっすぐチョコレートの買い出しか、下見に行くのだろう。躊躇なく道を進む彼女の姿を窓から覗き見て、古間は苦笑した。
 そんな彼のもとへ、トーカがやって来る。幸い、店内には“喰種”しかいない。

「古間さん、チョコもらう気ですか?」
「まあ、それで桜子ちゃんが幸せになるなら男としても誇らしいじゃないか」
「チョコって本当に最悪ですよ……」

 やはりトーカはチョコレートを食べたことがあるらしい。その感想を渋い顔で漏らす。

「口の中に入れたらジワジワ溶けてって口中にベッタリ張り付いて、ネバついて。急いで噛み砕いて飲み込もうにも、今度は喉で溶けて張り付くし。歯とかもベッタベタ。飲み物で必死に流してもまだ存在の主張が激しくて、戻そうにもしんどいし……」

 本当地獄ですよ、とトーカは念を押す。
 だが古間の決意は固かった。

「すべて覚悟の上だよ。これは男として通らねばならない道さ」

 ウインクと共に心境を告げる古間に、トーカは「忠告はしましたからね」と苦笑いを残して戻っていった。
 男、古間円児。決意のバレンタインデーへ向けてあと二週間弱。桜子の想いを受け止めるため――恐らくトーカの忠告通り地獄を味わうことになるのだろうが――、彼は心の準備を進めた。とにかく気合いだ。気概だ。どうあがいても人間の食べ物を美味しく味わうことは敵わない体で生まれてしまった。だがせめて、少女の前で一口食べてみせ、言ってあげたい。
“美味しいね”と――……。


◆◆◆


 あっという間にやって来た2月14日、バレンタインデー当日。仕事に追われながら、古間は桜子の来店を待っていた。上手く美味しそうに食べてみせることができるだろうか。彼女の望むような反応を見せることができるだろうか。固い決意ゆえに緊張も増していく。
 そして、客足が疎らになったその頃……彼女はやって来た。

「こ、こんにちは……!」

 長いダッフルコートに身を包む桜子の顔は赤い。寒い風のせい……というわけではなさそうだ。実に判りやすい子である。
 慌ただしく鞄の中をまさぐり、彼女は1つの箱を取り出した。ちょうど彼女の両手で抱えきれる大きさぐらいだ。ブラウンの包装紙と細いゴールドのリボンでシンプルにラッピングされ、リボンと包装紙の間には小さな封筒が差し込んである。
 大事そうに両手で箱を包むように支えながら、桜子は古間へ向けて腕を伸ばす。

「こ、古間さん、これ、受け取ってください! バレンタインのチョコレートです!!」

 深く頭を下げながら、桜子は叫ぶ。プレゼントというよりは献上といった方がしっくりくるような桜子の緊張と畏まりぶりに、遠くから様子を見ていたニシキがくっと笑いを堪えている。
 ――遂に来た。
 意を決した古間は、ゆっくりと桜子から箱を受けとる。

「ありがとう、桜子ちゃん。今日僕にチョコレートを贈ってくれたのは君が最初だよ」
「最初も何も今まで貰ったことあるのかしら……」

 入見の鋭い指摘を涼しげな笑みで流し、彼は桜子を見つめて問う。

「早速、開けてみてもいいかな?」
「ど、どうぞ! できれば、味のご感想をお聞きしたいので……」
「承知!」

 威勢のいい掛け声とは裏腹に、繊細な手つきで包装をほどいていく古間。リボンも包装紙もほとんど傷つけることなく綺麗に外し、しっかりたたんでカウンターへ置いた。小さな封筒の中身は後で確かめるとして、いよいよ本命のチョコレートの箱を開ける。
 中に入っていたのは、丸くて可愛らしいトリュフチョコだった。白、茶、赤、緑と様々な色のパウダーが表面にまぶされている。何となく彼女らしいな、と古間は思った。そして、思ったよりも量があることに、ひっそりと肝を冷やした。
 期待と不安に満ちた桜子の視線を受け、とりあえず彼は、茶色の球体を摘まむ。どれも似たり寄ったりなのだろうが、これが一番なんとか無難そうに感じられる色合いだった。
 ――行け、男・古間円児!
 己を奮い立たせ、思いきって口内にチョコレートを放り込む。
 人間社会へ溶け込んで生活を送るにあたり、人間の食べ物を美味しそうに食べるというのは必須の訓練である。勿論古間も、幾度となく挫折しかけながらもその技術を習得した。だが、こんなにも緊張する“食事”はいまだかつて経験したことがない。この緊張が何処から齎されるのか――……などと哲学的なことを考えながら、チョコレートを軽く噛み砕いて喉奥へ押し込んでいく。 トーカの忠告で覚悟してはいたものの、すさまじい味がした。僅かに口内で溶け出したそれが鼻を突き、まとわりつき、どんどん苦しくなってくる。それでも冷や汗ひとつ浮かべることなく、古間はじっくりと味わっている風を装った。
 ひとつだけでは桜子が不安がるかもしれないと、もうひとつ――今度は白い球体を口へと投入した。此方もそれらしく咀嚼し、飲み下し、うんうんと頷く。
 そして、古間は……笑って桜子へ向き直った。

「すごく美味しいよ、桜子ちゃん。甘さ控えめで、かつ君の想いがふんだんに込められた最高の逸品だ」

 なんて気障ったい台詞だろう、と思いつつ、これはこれで自分らしいと開き直って彼は言い切る。

「こ、古間さん……!」
「良い想い出になったよ。本当にありがとう、桜子ちゃん」
「わ、私こそ最高に幸せです……! 頑張って作って良かった……」

 涙目で笑う桜子が、ほっとしたように胸を撫で下ろす。
 ――ミッションコンプリート! 古間はチョコレートの苦しみを押し殺しながら、心の中でガッツポーズを決めた。

「来月のホワイトデー、僕も気合いを入れて準備しておくよ」
「そ、そんなのいいです! 日頃のお礼ですし、美味しいって言ってもらえたし……私が勝手に押し付けただけなんですから!」
「確かにね」

 横からトーカが鋭く言い放つ。その声に桜子は落ち込むかと思いきや、微笑んだままだ。

「トーカちゃん、手伝ってくれて本当にありがとね」
「良いって。お礼もらったし」

 どうやら桜子のチョコレート作りに、トーカも協力していたようだ。そういえば近頃のトーカはげっそりしていることが多かった。明らかに具合が悪そうだったのは、もしかすると……試食をしていたのだろうか? そしてそれを律儀に吐き出すことなく耐えていたのだろうか……。
 なんとも情に厚い少女だ。トーカの気概に、古間は感動した。
 しばし幸せに頬を緩めていた桜子であったが、店内の時計を見て我に返る。

「そろそろ帰らなくちゃ……。すみません、お騒がせしました」

 ぺこぺこと頭を何度も下げながら、桜子は『あんていく』を出ていった。

「本当に有難うございます、古間さん!」

 最後に、本日とびきりの笑顔を残して。
 ……店内に静寂が戻る。いつかのように、“喰種”しかいない店内だ。
 瞬く間に古間の顔色が変わる。先程までの余裕綽々の笑みは霧散し、真っ青になってしまう。無理もない。食べられるはずのないものを、ふたつも無理に摂取してしまった。すぐさま吐き出すべきなのだが、心境としては――そうしたくない。

「無理しないで戻してきたら?」
「いや、今日は……桜子ちゃんの想いに報いると決めたんだ……」
「そう」

 震える古間へ、入見は嘆息した。古間の根性に呆れつつも、その表情は穏やかだった。
 古間の気持ちが痛いほど判るトーカは、何も言わない。
 青い顔のまま、古間はすっかり忘れかけていた封筒を手にした。小さな封筒の中には、小さな便箋が一枚収められていた。色々あって見慣れてしまった、桜子の小さくて自信なさげな文字がそこに並んでいる。

『公認片想いの許可をくれたこと、いつも元気を分けてくれること、他にも沢山の感謝を込めて。今後とも素敵な古間さんに会えるのを楽しみにお店へ通わせていただきます。古間さん、ハッピーバレンタイン! 桜子より』

 ……手紙を読んだ古間は、無心となって残りのチョコレートを平らげた。仲間たちが止めるのも無視して、桜子の贈り物を、心身で受け止めた。まさしく苦行と呼ぶに相応しいそれを、気合いで彼は乗り越えた。幾度となくトイレに向かいたくなったが、出してなるものかと込み上げてくるものを再び飲み込んで腹へと戻す。
 勿論その日の体調は最悪になった。次の日も、また次の日も不調が続くほどの地獄だった。しかし何も知らぬ少女の想いを無下にすることが、やはり古間には出来なかった。
 ――トーカちゃんの気持ちが、よく判る。
 こんなに暖かくて優しいものを、無駄になんてしたくない。
 脂汗を拭い、いまだ調子の戻らぬ体のまま、彼は店へ立つ。

「いらっしゃい、桜子ちゃん」
「はい、こんにちは、古間さん」

 今日も自分に会いに来てくれた桜子を、いつも通り古間は出迎えた。
 彼女が“大好き”と言ってくれた笑顔で。

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