桜子は高校二年生になった。
 古間への公認片想いは、依然継続中である。
 桜子自身に大きな変化は無くとも、周囲では様々な変化が起きていた。
 去年末に11区で行われた“喰種”集団の討伐作戦。その裏で“喰種”集団によって引き起こされた喰種収容所「コクリア」襲撃事件。
 ……どれも規模が大きすぎて、桜子にとっては別世界の出来事のように思えた。
 ヨミが忠告しなかったら、きっと今まで通りの呑気な日常を過ごしていただろう。

「危ない“喰種”がいっぱい逃げたって言うし、気を付けなきゃだよ。桜子」

 桜子は思った。
 ――人間と見た目がそっくりで、社会に紛れているっていう“喰種”にどう気を付けたらいいの?
 彼らは人並み外れた身体能力を持つらしい。人間から襲われても身を守れるかどうか怪しいというのに、そんな存在に出くわそうものなら、いくら気を付けても意味がない気がする。女子高生を狙っていた“喰種”や大量の捕食を行っていたという“大喰い”の事件も無くなった。平和と危険の境界が、事件に巻き込まれたことの無い桜子には想像することしか出来ず、どうにも現実味が無い。
 そんな彼女にも理解できて、一番大きな変化と感じられるのは、やはり身近な環境で起きるもの。特に『あんていく』へ関わることたちだった。
 まずは、受験勉強に集中するため、トーカが店に出る機会が減ったこと。
 次に、新しいバイトの少女・帆糸ロマが『あんていく』に加わったこと。
 そして、最後に――『あんていく』で働いていたカネキが、行方不明になってしまったこと。
 カネキの友人も、『あんていく』の従業員も、誰もその行方を知らない。手掛かりも殆どないのか、街中で見かけた彼の捜索の為のチラシも、殆どがカネキの顔写真を占めているものだった。
 真面目で、人に気を遣いすぎる青年だった。そんなカネキが、何処にも誰にも告げずに消えてしまうなんて。
 何かの事件に巻き込まれたのでは、という最悪の考えが脳裏を過るたび、桜子はそれを振り払う様に思考を中断する。そして、一人で何度も心の中で唱えるのだ。
 ――カネキさんが、早く帰ってきますように。

「あぁっ!」

 桜子の静かな祈りを、甲高い悲鳴が遮った。と同時に、頭上から茶色の液体が降り注いだ。次いで、ガラスのコップと氷が床に落ちた衝撃で割れる音がする。……彼女が被ったのはアイスコーヒーだった。

「冷たあっ!」
「すいませえええんっ!」

 反射的に叫びながら席を立った桜子に、ロマがあたふたと頭を下げる。『あんていく』に毎日のように通う桜子は、ロマの天然さというか、ドジっぷりをよく理解していた。だがまさか自分がこんな形で被害をこうむるとは思いもしなかった。ロマがわざとでは無いことは判るが、珈琲塗れになったのはかなりの衝撃だ。桜子は自分の髪の上を伝い落ちたり染みていく珈琲の感覚に、言葉を失っていた。

「何してんだよ帆糸ォ!」
「ひぇえ、すいません、すいませんー!!」

 ロマの失態をニシキがすかさず叱咤する。彼の剣幕にロマは頭を抱えて怯えていた。
 それが何だか可哀想に見えて、桜子は我に返り、苦笑しつつも口を開く。

「あ、あの、大丈夫ですから……。かぶったのがアイスコーヒーで良かったです……。それに私服だったからセーフです、はい!」
「そういう問題じゃ……」
「ほ、本当に大丈夫ですから、家も近いので!」

 ニシキを遮ってまで、桜子は誤魔化すようなぎこちない笑みを続ける。
「桜子さぁん……本当にすみません……」半べそを掻いてしまっているロマに「だから大丈夫です」と桜子は念を押す。茶色の雫がまたぱたりと髪からしたたり落ちていく。幸いにもロマは無傷かつ珈琲の襲撃を回避していたが、自分はどう考えても大丈夫ではない。桜子も重々承知している。だが他にこの場を何とか収めるための言葉が見つからない。
 そんな桜子達へと助け船を出してくれたのは、古間だった。

「桜子ちゃん。怪我はないかい?」

 店の奥から持ってきたタオルを桜子へと手渡し、心配そうに様子を窺う。それだけで桜子は、珈琲を被ったことさえ幸せな出来事に思えた。受け取ったタオルで髪を拭きつつ、赤くなる顔を隠しつつ、彼女は何度も頷く。

「だ、大丈夫です! ロマちゃんにも怪我が無くて一安心です!」

 すっかり逆上せあがった桜子に、ニシキは嘆息した。古間に夢中なのは当人の自由だが、そのせいで他のあらゆる事象がおざなりになっているのは良くない。この調子だと熱湯を被っても古間さえ来れば笑って済ましてしまいそうな桜子への忠告とロマへの注意を兼ねて、彼は鋭く言い放つ。

「コイツの場合はちょっとキツめに頭でも打てばマシになりそうなもんだから気ぃ遣わなくていい」
「あーっ、ヒドイですよぉ西尾先輩ぃ!」
「うるせぇドジ。いやクソドジ」
「泣きますよー、本当に泣いちゃいますよー!?」
「泣きたいのは珈琲ぶっかけられた客の方だろ」
「うぐぐ……」

 ニシキとロマの一方的な言い合いを、「まあまあ」と古間が仲裁する。

「桜子ちゃんの寛大な心に救われたということで一旦おしまいにしようじゃないか。それより先にやらなきゃいけないことがあるだろう? 桜子ちゃんの替えの服の用意とか、溢した珈琲や割れたカップの片づけとかね」
「ですよね、あ! じゃあ私の服貸しますよー、多分サイズ同じぐらいだし!」

 古間の発言にロマはうんうんと頷いた。「誰のせいだと思ってんだ、お前」というニシキの棘ある指摘は、ロマの耳をすり抜けていく。器用に溢したもの割れたものを回避しながら、ロマは桜子の手を引いた。

「ささっ、こっち来てください桜子さーん!」
「あっ、はい……」

 必然的に、残ったニシキと古間がその場の後片付けを引き受けることになってしまう。
 最初不満げだったニシキも、古間に「桜子ちゃんの着替えを僕らが手伝う訳にはいかないだろう?」ともっともなことを言われ、渋々片付けに専念した。
 割れたカップやソーサーを、箒と塵取りを駆使して巧みに回収していく古間の手さばきは目を見張るものがある。ニシキが手を出す暇もなく、古間はあっという間にその場を綺麗に元通りにしてみせた。

「うん、桜子ちゃんの荷物も無事だね」

 そんな気遣いさえ出来る余裕ぶりだ。度々自身を“魔猿”と称し、武勇伝を語りたがる古間。“喰種”としての強さは未知数だが、職場の先輩としては頼りになるのは事実である。
 ――にしても、人間色んな趣味があるもんだ。
 古間の登場に瞬く間に笑顔を浮かべた桜子の姿を思い出しながら、ニシキは苦笑していた。


◆◆◆


 ロマの案内で『あんていく』の従業員用スペースへと足を踏み入れた桜子は、共に4階の個室へとやって来た。
 汚れた服は『あんていく』側でクリーニングに出してくれるという。申し訳なく思いつつ、芳村の厚意と笑みへ桜子は甘えることにした。勿論クリーニング代はロマの給料から天引きされるのだが、桜子はそこまで知らない。
 着替えた桜子を、安心したようにロマが眺める。

「……うん、サイズばっちしですね! あー良かったぁ」
「本当に有難う、ロマちゃん。服、今度来るときに洗って返しますから」
「いやいやいや! 汚しちゃったの私なんで当然ですよ、これぐらい!」

 改めて「すみませんでした」と頭を下げるロマへ、桜子も慌てて頭を下げ返す。
 顔を上げた桜子は、部屋の中を見渡した。『あんていく』にこんな部屋があるとは当然ながら知らなかった彼女にとって、至って平凡なはずのその空間が特別なもののように映る。大きなベッドや簡素な家具、隅々まで行き届いた手入れにより、ゴミひとつ見当たらない。此処では従業員が寝泊まりするのだろうか? 淡く珈琲の香りが満ちた空間は、桜子の心を解す。
 すっかりリラックスした桜子を、ロマがじっと見つめていた。

「あの〜……桜子さんって古間さんが好きって本当ですか?」
「うっ!」

 瞬時に桜子の体に緊張が走り、強張った。
 あからさまなその反応は、ロマの顔を綻ばせる。

「うわぁ、やっぱりですか! いやぁ、古間さん見ただけで恋する乙女モード入ってますもんね、いっつも!」
「そ、そうかも。でも好きな人を見たら……女の子は皆そうなるんじゃないかと……」
「判りますよぉ。同じ女の子同士! 私も大好きな人がいるんですよ〜」

 そんなロマが口にしたのは、

「私、カネキ様が大好きなんですよ!」

 行方不明の青年の名前だった。
 桜子は首を傾げる。ロマはちょうどカネキと入れ替わるようなタイミングでこの『あんていく』に来た筈だ。どこでどんな接点があったのだろう……。だがその疑問はすぐに霧散した。別にカネキと会うには、この店でなければならないという理由は無い。自分と古間を繋ぐ場所が『あんていく』に限られているからと言って、他の人物たちも同じ訳ではないのだ。

「カネキさん……。早く見つかってお店に戻ってこれたらいいね」
「ですよねぇ……。その日が来るのを楽しみにロマは励んでいきます……」

 だとすれば、ロマは行方不明になったカネキをずっと想い続けていることになる。安否さえ知れぬ相手へ、こんなに想いを寄せていられるロマの純粋さと強さを、ひっそりと桜子は羨んだ。
 ――私だったら、きっと心が保てない。
 好きな人が突然いなくなってしまうなんて、想像するだけで心臓が痛んだ。夏場だというのに肌が粟立って、凍えるような寒さを覚える。
 ――古間さん。
 タオルを差し出してくれた想い人の姿を振り返りながら、桜子はひっそりと胸中で彼の名を呼んだ。
 いつこの気持ちに踏ん切りがつくのか、予想すらつかない。それでもいつか、自分はこの気持ちを整理して進まなくてはならない。それは大人になるためのステップのひとつでもあり、誰もが少なからず経験することなのだろう。頭では理解しているのに、心がそこへ追いつくまではまだまだ掛かりそうだ。
 理性に置き去りにされた感情が留まり続ける胸を抑えて、桜子は目を伏せた。

「桜子さん? お胸が痛いんですか?」
「ううん、平気。ちょっと何となくです」

 恋の痛みですねぇ〜、とにやにや笑いながらつついてくるロマに桜子が返せたのは、ぎこちない笑みだけだった。


◆◆◆


 ――思ったより手こずってる。
 最近ロクに食事できない。
 それもこれも、アオギリとかいうよく判らないヤツラがコクリアぶち破ったり“白鳩”に喧嘩売ったりするからだ。
 個人で必死に食事をしているヒトの身になれっていうんだ。“大喰い”といい“美食家”といいアイツラといい、本当に何を考えてんだか。
 早く食べたい、食べたい。
 思いばかりが募って、でも、実行するタイミングはなかなか来ない。
 今動いたら、間違いなく“白鳩”に捕まる。面倒くさいレートの“喰種”が脱獄して、アイツラは躍起になっている。ただ食事をするんじゃなく、その後の始末まで気を抜けない今、動けるはずがない。
 去年のうちに頂く筈だった少女は悠々と年を越してしまった。幸い、あの間抜けで平和ボケした少女は、コッチが狙っていることなんて気付いていない。惚れた相手どころか店の奴らが皆“喰種”だってことを、毛ほども気付かないまま馬鹿みたいに一人の“喰種”に熱を上げている。
 ――ああ、もしかして、これって嫉妬か?
 そう考えてみたものの、しっくり来ず、沸き上がって来たのは笑い声だった。
 だって、呑気に珈琲を淹れているだけの“喰種”に、どうして自分が嫉妬なんかしなくちゃいけないんだろう? するべきなのは、獲物を横取りされないかという心配だけでいいじゃないか。まあ、あそこの連中はそう人を襲うことも無いみたいだから杞憂でしかない。放置された死体を持ってきて喰うような奴等なんだしな。アイツラは、カラスみたいなもんだ。でも自分は違う。
 この手で狩りから食事の最後までしっかりこなしたいんだよ。こんな社会に“喰種”として生まれたからには、そうでないとつまんないだろうに。意味が無いだろうに。

「どっちにしろ、しばらくは我慢か……」

 丁度いいといえば、いいのかもしれない。
 去年は雪も降らなかった。今年も降るかは判らない。東京に真っ白な雪に包まれた冬を期待する自分が可笑しいのだろう。それでも願わずにはいられなかった。
 今年こそ真っ白で冷たい絨毯の上に、若い少女の真っ赤な花を散らして楽しみたい。
 そんな理想を、食への本能が掻き消して気がふれそうになるのを、唇が裂けるだけ噛み締めて、耐える。
 美味しいものは……大好物は……最後の最後までとっておかなくちゃあ、つまらないから。

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