桜子は一人、恥ずかしさのあまり悶絶していた。自室でうーうーと小動物の鳴き声のような呻きをあげて、忙しなくベッドの上を転がる。
 彼女は夕方、自分が『あんていく』でしてきた言動について悩んでいた。
 12月もまだ上旬なのにクリスマスプレゼントだなんて気が早すぎただろうか? 古間が驚いていたことだけは覚えていて、自分が何をどう言って渡したかは覚えていない。というか、思い出そうとすると頭が沸騰したみたいに熱くなって、それどころではなくなってしまう。どうせならやれることはやり切ってから後悔しよう、と決めたのがそもそもの間違いだったのだろうか? しかし、もう既にアクションを起こした今、どうしようもない悩みだ。
 言いたいことは全て手紙に託した。
 想いは全てあの包みに込めた。
 後は、古間への想いを、風化させていくだけ。きっと時間が経てば、もっと自分の中で綺麗に整理されてくれるはずだ。出会った頃と同じ、好きなお店の優しい店員さん。そう、気持ちを変えるだけ。
 今はそうしようと思うだけで辛くて堪らないけれど、繰り返していけばきっと慣れる。まだ高校生だから、なんて油断しているうちにあっという間に時間は過ぎる。勉強、進路、沢山考えなくてはならないことが生まれ、新たな出会いや経験が待っているだろう。
 ――あともう少しだけ、片想いをさせてください、古間さん。
 日記帳を見返しながら、桜子は祈るように天井を仰ぎ見た。


 期末テストを終えた桜子が数日ぶりに『あんていく』を訪れると、人気が無かった。
 店内は薄暗く、照明もついていない。扉を見てみれば『CLOSE』と書かれた看板が添えられていて、桜子はがっくりと肩を落とした。

「……お店、休みなんだ……」

 残念というよりも、寂しさが勝る。この店の雰囲気はいつでも桜子を和ませてくれ、癒してくれる。怒涛のテスト期間を乗り切ったご褒美は『あんていく』のコーヒーにしよう……。そう決めていた彼女のショックは、それなりに大きかった。

「……帰ろ」

 突っ立っていても開く筈がない扉の前から桜子が動いたとき――、

「桜子ちゃん?」

 何故か、扉が開いた。
 驚きのあまり桜子は声を上げることも出来ず、開いた扉を凝視していた。
 そこにいたのは、何と古間であった。片手を扉に、もう片手に掃除道具を携え、古間は桜子を見つめていた。そんな彼の首には桜子が先日プレゼントしたマフラー。
 少女は瞬く間に赤面した。

「こっ、ここ、古間さん、有難うございますっ!!」

 まさか早速マフラーを使ってくれているだなんて。桜子は嬉しさのあまり、挨拶より先に感謝の言葉を口にした。
 すると古間は可笑しそうに笑って答える。

「いやいや、お礼を言うのは俺の方だよ。とってもあったかいね、これ。本当に有難う。桜子ちゃん」
「お、お気に召していただけ、何よりです……!」
「そんな畏まることないじゃないか」

 長い付き合いなんだし、と続ける古間に、桜子は恐縮しながら応じた。

「は、はい……。でもあの、私結構恥ずかしいこと手紙に書いた記憶があるので……すみません」
「いやいや、その件についてはこっちの方が申し訳ないぐらいで……」

 珍しく言葉を濁す古間。
 つられて押し黙る桜子。
 何とも言い難い空気と冷たい風が、二人を茶化すように通り過ぎていく。
 桜子がそっと両手を擦り合わせたのを見て、古間は提案した。

「立ち話も何だし……良かったら寄っていかないかい?」

 桜子は赤い顔のまま、嬉しそうに頷いた。

「――でも、本当に良いんですか?」

 カウンター席に座った桜子が、今更不安そうに呟く。
 珈琲の用意をしながら、古間は満面の笑みを浮かべた。

「俺もね、誰かにコーヒーを淹れたかったところだったのさ。ひとりじゃ寂しくてね」
「お店、休みですもんね……」

 きょろきょろと店内を見渡すも、やはりいるのは桜子と古間のみ。しかし店はいつも通りピカピカに掃除されている。いつから店を休んでいるのかは判らないが、古間の手によって毎日磨かれているのだろう。
 コーヒーを待つ間、桜子は古間との会話を楽しんだ。

「あの、他の皆さんは?」
「芳村さんと一緒に出掛けているよ。ちょっとした用事が出来たんだ」
「古間さんひとりにお店を任せて、ですか? やっぱり古間さんって店長さんにすごく頼りにされてるんですね!」
「ふふ、それほどでもあるかな」
「ありますね、きっと! ……ああでも、良かったです。店長さんが体調崩したとかじゃなくて……。用事が済んだら、お店、また開くんですよね」
「ああ、安心してくれていいよ」
「良かった……。ここに来れないと寂しいから」

 桜子がお世辞ではなく本心からそう言っていることがひしひしと伝わり、古間は気恥ずかしくなった。しかし表情にそれを出すことは無い。いつも彼女を迎える時のようにとびっきりの笑顔で気持ちを覆い隠し、そっとコーヒーを差し出す。

「どうぞ、桜子ちゃん」
「わあ、有難うございます!」

 淹れたてのブラックコーヒーが入ったカップを輝く目で見つめ、大事そうに両手で持ち上げる桜子。ゆっくり縁に唇を付けて、静かにコーヒーを啜る。

「……はぁ、美味しい」

 心底幸せそうな桜子の笑みと呟きに、古間も嬉しくなった。

「淹れた甲斐があるよ、本当に」
「古間さんの淹れてくれるコーヒー目当てですから、私」
「……桜子ちゃんは随分恥ずかしいことをズバッと言えるようになったね」
「えっ! あ、あ、ええと……すいません」

 古間にからかわれた途端、動揺した桜子はカップを置いて俯いてしまった。そんな反応すら可愛らしい。「ごめんごめん」笑い交じりに古間が謝ると、桜子は再びカップを手にした。まだ若干俯いたままなのは、恐らく赤い顔を古間から隠すためなのだろう。こんな至近距離では隠すも何もあったものではなく丸判りなのだが、それを指摘したら彼女はますますコーヒーを飲むどころでは無くなるだろうと思い、古間は踏みとどまった。
 自分の分のコーヒーも淹れ、古間もカウンター席へと回る。勿論座ったのは桜子の隣。

「うわあ、お、お隣に古間さんがいる……!」
「俺が隣に座るなんて、超のつくレアだよ。良かったね桜子ちゃん」
「は、はい……!」

 おどけた古間の台詞すら真に受けて深く頷いてしまう桜子の純粋さに、古間は何とも言えない情を抱いていた。男女の関係というにはやや遠く、友人と呼ぶには少し深い。これが所謂“友達以上恋人未満”とでもいうやつだろうか?
 ――きっとすぐに桜子ちゃんには良い人が見つかるさ、魔猿はそれまでの繋ぎってところか……。
 繋ぎ役でも構わない、と思うほどには、古間は桜子という少女を大切に想っていた。

「桜子ちゃん、手紙に色々書いてくれていたね」
「勢いで……想いをありったけぶつけてしまいました……」
「うん、読んでいて“随分思い切ったなあ、桜子ちゃん”と思ったよ」

 コーヒーカップを傾けながら、古間は続けた。

「だから俺も、男としてしっかり答えなくてはならないと自覚したんだ」

 古間が桜子の方を見ると、彼女もまた古間を見つめていた。
 カップをソーサーへ置き、ゆっくりと深呼吸する。
 桜子の目をしっかり見つめたまま、古間は告げた。

「俺は桜子ちゃんの気持ちに答えられない。答える権利が無い」
「……はい」
「だけど、誤解しないで欲しい。桜子ちゃんが嫌いな訳じゃないんだ。その気持ちはとても嬉しいし、有難いし、こう……こっちも温かくなるよ」

 好意を受けることはできても、応えることは出来ない。そのもどかしさを、この隔たりを、どう上手く伝えるべきか。
 古間はとにかく、真摯に彼女に向き合おうとした。

「俺は桜子ちゃんのことを大切だと思ってる。そして……男を見る目のある桜子ちゃんなら、きっと素敵な恋人と巡り会えると確信しているよ」

 言い切った後、古間は笑ってみせた。
 きっと、そうでもしないと彼女が泣き出すと思った。しかし、そうはならなかった。
 ……桜子も、笑っていたのだ。

「私、丁寧にフラれましたね」

 何か吹っ切れたような笑みだ。まるで土砂降りの後の晴天のような明るいそれ。
 呆気にとられる古間へ、桜子は笑いながら呟く。

「手紙にも書いていた通り、フラれるのは承知だったので。こうやって改まって言ってもらえると助かります」

 でも、と彼女は続けた。

「やっぱりまだ私、古間さんのこと好きです。此方からも、改めて言わせてください」

 桜子は席を立つと、古間に向かって深々と頭を下げた。両手をスカートの上できっちり揃えて、内気だったはずの少女は、まるで別人のようにはっきりとした声で告げる。

「今はまだ、古間さんのことを好きでいさせてください。ご迷惑はお掛けしないように、心がけますから! よろしくお願いします!」

 まるでプロポーズのような気合の入りようだ。一生懸命な桜子の言葉に、古間は肩を竦める。
 ――強いね、桜子ちゃん。
 頭を下げたまま、桜子は、古間の返事を待っている。

「……顔を上げてくれないか、桜子ちゃん」

 古間の言葉に、桜子は素直に応じる。少し不安そうに此方を見つめる彼女へ、彼は笑いかけた。

「レディにそこまで頼まれて断るわけにはいかないね。寧ろ、男として身に余る光栄だ」
「古間さん……」

 桜子の表情に、安堵が満ちていく。
 完璧なウインクを決めながら、古間は右手を突き出し、グーサインを作って見せる。

「男、古間円児。今しばらく、君に甘い夢を届けると誓おう!」
「こ、古間さん、それ下手すると告白みたいに聞こえます……!」
「おっと、熱が入り過ぎたか。ともかく、委細承知! ということさ」

 グーサインを止め、彼はそのまま右手を桜子へと差し出した。

「これからもどうぞ『あんていく』と古間円児をご贔屓に。桜子ちゃん」
「もちろんです、古間さん」

 赤く染まった頬を綻ばせながら、少女は古間の手を両手で握り締め、何度も深く頷いたのだった。


◆◆◆


 ――夜の東京。20区。夜闇に紛れながら、血肉を啜る影が在った。
 人目を忍び、路地裏で食事を進めるそれは、間違いなく“喰種”だった。影が齧り付くたび、その肉を裂き開くたび、命を失った骸が揺れる。
 影は酷く飢えていた。この区ならば他所に比べて安全だと高を括っていたのに、計算が狂ってしまった。

「男喰っててもつまんねぇ……」

 影は偏食だった。影が求めるのは、若い少女の血肉。少女というのは、狩る最中も、食事の最中も、とても素晴らしい表情を見せてくれる。あの耳を劈くような悲鳴が堪らない。生きたまま中身を引っ張り出して見せてやると、それはもう素敵な顔をするのだ。ただ悲鳴が響けば他の人間も来てしまうから、滅多に外で聞くことはできないけれど。
 無意味な抵抗をする少女を攫って持ち帰るぐらい“喰種”ならば容易いが、最近、20区では“大喰い”や“美食家”が大きな動きをしたために、世間の警戒心が高まっている。この勢いに乗じてしまえばいくら人を襲おうとも“大喰い”たちのせいに出来るのではないか、と勝手をした自分にも非があることを影は認めない。

「やっぱ女だ、若い女じゃねえと……」

 ずっと目をつけている少女がいる。
 とびきりの悲鳴を上げてくれそうな、年頃も好みのターゲット。
 呑気に“喰種”に惚れ込んでいる、どうしようもなく愚かな少女――。
 情報を仕入れるためにあの店へ通ううちに目を付けた。
 その少女を最後に、影は自身の偏食を断とうと決めていた。そのために、ずっと機会を窺っている。
 何時が良いだろう?
 何時になったら、最高の表情を引き出せるだろう?
 高揚する自分を必死に押さえつけながら、影はタイミングを探っていた。
 最後の偏食を、最高の思い出にするために、こんな喰いたくも無い男で今は飢えを満たしている。肉体的には満たされても、心の奥底はやはりあの少女を求めて止まない。

「ああ、もう、そろそろいいかもなぁ……」

 今年の冬は、雪でも降ればいい。
 雪の上に、彼女の内側を流れる赤色を撒き散らしてみたい。
 それを彼女が最期に見る光景にしてあげたい……。
 影は、うっとりとその情景を思い描きながら、食い散らかしたものをそのままに家へと帰った。

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