最近、桜子に心なしか元気が戻ってきた。友人と共に語らう時も、ひとりコーヒーを味わいながら日記を書き記す時も、何か吹っ切れたような晴れやかさだ。普通の年頃の女の子らしい日々を、彼女は過ごせている。
 その事に安堵したと同時に、古間ははたと気付く。
 ――すっかり桜子ちゃんを見守ることが癖になってるじゃないか。
 胸中を満たす切ないものを、ひとりそっと噛み締める。12月に入って寒さも増してきたこの頃、そんな感情の温もりは実に沁みた。
 本日の桜子の注文はホットココア。というか最近の桜子は、ココアばかり飲んでいる。「桜子は冷え性なんだから、コーヒーオンリーは厳しいっしょ〜」と以前ヨミに勧められてからというもの、それを鵜呑みにし、従っているようだ。

「寒くないかい、桜子ちゃん」
「えっ?」

 ココアを運びがてら、古間は彼女に訊ねた。桜子は目を丸め、それから頬を赤く染め、恥ずかしそうに両手を擦りあわせた。

「だ、大丈夫です! これでも着込んでますし、ココア飲みますし……」
「そっか。風邪が流行ってるから気を付けてね」
「有難うございます、あの……。古間さんこそ、ご自愛くださいね」

 思わぬ桜子の気遣いに、古間は微笑んで返してカウンターに戻る。
 黙々と食器を洗うカネキの隣に立ちながら、古間は小さく震えていた。さっき桜子にココアを届けに行った時の余裕は一体何処に行ったのか。明らかに動揺している。

「俺としたことが……ふふふ」

 ただならぬ古間の様子に、カネキは手を止めた。

「古間さん? 大丈夫ですか?」
「……カネキくん」
「は、はい?」

 静かにカネキの方を見ながら、古間は溜め息を吐いた。自嘲めいた笑みを浮かべたまま、ひっそりと――辛うじてカネキに聞こえるぐらいの小声で溢す。

「想われることが、こんなにも嬉しく悲しいとは……困ったものだね」

 何処か悲しげな古間の瞳、声音。それらが何を指しているのか、カネキに判らない筈がなかった。反射的にカネキは、カウンターの向こう、窓際の席に座る桜子を見ていた。
 気の弱そうな桜子の横顔の輪郭は、淡い陽光に照らされ、ぼやけて見える。彼女は両手で湯気のたつカップを持ち上げると、縁にそっと唇を寄せた。カップの中のココアを一口含んだ途端、幸せそうに頬を緩ませる。
 ココアの甘さと、そのココアを淹れてくれた人――古間への想い。淡い恋心は、未だに桜子の胸の中に在り、生活を彩っているのだ。
 そんな桜子を見守るうちに、古間の中で強い情がわいてしまったらしい。桜子に接した後の彼は物憂げで、複雑な表情をすることがあった。勿論桜子には見られないように上手く隠してはいるが、カネキら『あんていく』の従業員は気付いている。

「――我ながら馬鹿だと思うよ。カネキくん、君もそう思うだろ? この魔猿がなんたるザマだ……」

 店の休憩室で一緒になった時、古間はそうカネキに話した。
 古間の桜子への感情の変化には驚いたが、決してそれが馬鹿だなんて思わない。カネキは強く首を振った。

「そんなことありません。確かに人間と“喰種”の関係では難しいことだけど、その、そういう気持ち自体は、いけないことじゃない筈ですよ……」

 ただ、酷く苦しくて辛いものであることには違いない。
 ソファーに座り、額に手を当てたまま、古間は笑い声を上げた。「そうだね、うん……」古間が表情を隠すように俯いているせいで、本当に笑っているのかどうか、カネキには判らない。
 あまり突っ込んだ話をするのも野暮だ。カネキは困り、ぽりぽりと頬をかく。どうやったらこの先輩を元気付けられるか思案するも、良さげな方法は思い付かなかった。

「ふっ、俺としたことがらしくない」

 古間は不意に顔を上げた。特徴的な丸鼻の下で、唇は緩い弧を描いている。どうやら立ち直ったようだ。

「桜子ちゃんは男を見る目がある。その期待を裏切らないよう、今まで通りを努める! そして彼女に新しい恋が巡るよう応援する! それしかないんだからね」

 うんうんと一人で頷きながら、古間は納得していた。一先ず悩みが落ち着くところに落ち着いたようである。見守っていたカネキもホッと胸を撫で下ろした。
 桜子の男を見る目は兎も角、人を見る目はしっかりしているのだと思う。桜子が好いている古間円児というこの人は、少なくとも悪いひとではないからだ。
 カネキも、ひっそりと笑っていた。


◆◆◆


 しかしそんな古間の心を大きく動揺させる出来事が起きた。
 発端は、何時ものように『あんていく』にやって来た桜子。普段通り窓際の席に落ち着くかと思いきや、彼女は、カウンターで食器を磨く古間の元に真っ直ぐ駆け寄ってきた。
 そこで桜子は自身の鞄の中身を引っくり返さんばかりの勢いで漁り出し、可愛らしいラッピングが施された1つの包みを取り出し、

「こ、古間さん……! これ、どうぞ!」

 古間に向かって、差し出した。
 突然の桜子の行動に、居合わせた客、従業員一同、名指しされた古間の全員が注目する。
 僅かな沈黙すら耐え難い様子で、桜子は話し始めた。

「あの、最近めっきり寒くなりましたから、古間さんがお風邪を召したりしないようにっていつも祈ってまして! ちょっと早めのクリスマスプレゼントというか個人的な勝手な押し付けというか……! 寒いときにコレ、使って下さいっ!! 押し付けさせて下さい!!」

 赤い包装紙と緑のリボンは、12月ということもあり、確かにクリスマスを彷彿とさせる。しかし内向的な桜子にしては珍しい――というか古間たちは予想すら出来なかった――大胆な行動だ。
 包みを支える両腕をピンと伸ばして古間へ突き出し、顔を隠すように深々と頭を下げる桜子の表情は隠れて見えない。しかしちらりと覗く彼女の耳は、真っ赤に染まっていた。
 呆然と立ち尽くす古間の腕を、入見が小突く。すると彼はハッと我に返った。

「あ、ありがとう。桜子ちゃん……」

 そろりと古間が包みを受け取ると、ようやく桜子は顔を上げた。
 想像通りに真っ赤な顔だ。しかしその顔に咲く満面の笑みは、眩いほどの輝きを放っている。

「此方こそ、いつも有難うございます!」

 もう一度深々と頭を下げてから、桜子は踵を返し、あっという間に『あんていく』を飛び出して行った……。
 ……桜子が去り、客も従業員も、思い出したように自分の時間に向き合い始める。
 そんな中、古間だけは、包みを手にしたまま硬直していた。桜子が出ていった扉をじっと見つめ、ぽかんと口を開いて。
 見かねた入見が、古間に言う。

「裏で中身見てきたら?」
「……あ、ああ。そうするよ」

 古間は包みを抱え直し、店の奥へと入った。休憩室のソファーに腰を下ろし、包みをテーブルに置き、改めて向き合う。

「一体何だろう……。気を遣わせてしまったなぁ」

 呟きながら、リボンを解いていく。包み紙も丁寧に剥がす。すると古間の目の前に現れたのは――マフラーであった。深いグレーとブルーを基調とし、アクセントとして明るい白のラインが入っている。
 マフラーの上には桜色の封筒が乗っていた。『古間さんへ』と書かれたそれを、古間はおそるおそる開いた。
 封筒とお揃いの桜色の便箋には、桜子の気持ちが丁寧に綴られていた。

『古間さんへ。
 いつも元気を分けていただき、そして美味しいコーヒーを有難うございます。
 古間さんのように魅力的な男性に出会ったのは初めてで、正直どうしたら良いのか自分でもよく判りません。けれど何か行動したくて、身勝手ながらプレゼントを送らせて頂きました。
 私はまだまだ子供で、古間さんに釣り合うような人間にはなれません。もしかしたらずっとなれないかも知れません。古間さんは優しいから、そんな私の気持ちも察して温かく接してくれているのも何となく判ります。
 ずるい子でごめんなさい。
 でも、あともう少しだけ、夢を見させてください。
 何があっても、古間さんのこと、これからもずっと応援しています。少し早いですけど、メリークリスマス! 桜子より。』

 古間は手紙を握り締めたまま俯いた。
 ――なんてことだ。
 桜子が、古間が桜子の想いに気付いていることを察していたなんて。よく「私の恋が実らないのは自覚している」とトーカたちに話しているのは知っていた。だが、それだけだった。
 ――俺は物凄く残酷なことをしているんじゃないか?
 古間が桜子への想いに応えられないことを知ってなお、彼女は想いを寄せてくれている。その恋心を断ち切れずにいる。
 ――気付かぬフリで時間の流れに任せようとしている俺の行動は“逃げ”なのではないか? 魔猿が逃げるのか? いや魔猿だとかそんなものは関係ない。

「ひとりの男として、それはどうなんだ……?」

 相手は人間の女子高生。
 自分はかつて人間を殺し、平和を脅かし続けた喰種。
 このまま時間が流れるまま解決するのが一番だとばかり思っていた。しかし、古間が思っていた以上に桜子の想いは強かった。知らぬ間に、古間の態度の意味を理解するほどに。
 古間は、自分がどうすればいいのか――どうしたらいいのか、全く判らなくなってしまっていた。
 考えることを中断し、マフラーを手に取る。試しに首に巻いてみると、肌触りもよく、暖かい。ただ自分には、少し色合いが落ち着きすぎているような気がした。
 こちらから桜子の想いには応えられないことを明確に伝えるべきかもしれない。
 だが古間は、それがどうしても出来なかった。マフラーに添えた手に、力がこもる。
 彼の心の揺らぎは、一向に落ち着きそうになかった。

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