桜子は、友人のヨミと共に『あんていく』を訪れていた。二人向かい合いながら、ブラックコーヒーを飲みつつ、学校での出来事を振り返る。
 店に通い始めた当初はカプチーノやら何やら色々と試すように飲んでいたが、二人は“やはりブラックが一番!”という結論に至っていた。

「桜子ってどじっ子だよねー。何であそこで転ぶかなあ?」
「よよ、ヨミちゃん! そこは散々学校でいじられたしそっとしておいて欲しい!」
「いやぁ、これは“桜子さんにはしっかりした人が傍にいなきゃね”っていう売り込みだよ」
「売り込むどころか恥の上塗り状態ですが……」

 この友人には何をどうしても敵わないことは既に悟っている。渋い顔でコーヒーを飲み干した桜子は、カウンターの方を見た。

「すみません、注文いいですかっ」
「はい、ただいま」

 丁度今日カウンターにいるのは古間だった。少し上擦った桜子の声を聞いて、ヨミが「わかりやすっ」と吹き出す。

「よ、ヨミちゃんっ! しーっ!」
「ごめんって」

 ヨミが笑いを押し殺している間に、古間がテーブルにやって来る。

「お待たせしました、桜子ちゃん」
「は、はいっ、あの……おかわりください」
「畏まりました」

 きちっと紳士的な接客で注文を受けた古間は、颯爽とカウンターへ向かう。
 そんな彼の姿を、桜子はふやけた笑みで見つめていた。大人の男性ならではの余裕、その中に秘められた茶目っ気と愛嬌のある性格。見るたびに、話すたびに元気を分けてくれる、暖かくて優しいひと――。
 桜子の心臓は、切ない痛みに軋む。

(もっとあなたと、近くなれたら)

 いつもそう思っては“自分には無理なことだ”と投げ捨てる儚い願い。
 こんなに気が弱くてなんの取り柄もないただの女子高生が……しかも、ろくに恋のしたこともないような自分が、どうやってこれ以上古間と親しくなれるというのか。何を期待しているのか。
 それが酷く情けなく、愚かしいことに思えた。
 自分には不相応な願いなのだ、と自覚していた。しかしそれで辛さが和らぐ訳ではない。
 耐えきれずに視界が霞んで、桜子は慌てて首を振った。正面にある心配げなヨミの顔を見て、桜子は笑顔を繕う。

「ご、ごめん。お手洗い行ってくる……」
「うん。落ち着かせてきな」
「ありがと、ヨミちゃん」

 桜子の心情を察したヨミの声は優しかった。
 周りの客や従業員たちの存在から逃れるように、桜子はトイレへ駆け込んだ。そうして静かに、声を押し殺して、ひっそりと涙を溢した。誰にも知られないように、雫を静かにハンカチで押さえた。目が赤くなったりしないように。
 古間に、泣いていたことを知られないように。

「私ってなんでこんなグズなんだろ……」

 そうやって桜子は、感情の波を必死にやり過ごしていた。


◆◆◆


 古間が桜子の注文通りコーヒーを持ってテーブルにやって来た。桜子の不在に彼が瞬きするのを見て、ヨミが笑う。

「桜子、ちょっと電話中です。古間さんのコーヒーが冷める前には戻る! って言ってました」
「ああ、そうなんだ。なら良いんだけれど……」
「……何かありましたか?」

 ヨミが問うと、コーヒーをテーブルに置きながら「いや、ちょっとね」古間は答えた。

「何処と無く桜子ちゃん、元気が無さそうだったからさ。大丈夫かなって心配してたんだよ」
「へー、古間さん鋭い! 実際に桜子ね、元気無いんですよっ」

 何故かヨミは嬉しそうに食いついてきた。「桜子って顔とかに出やすいからなぁ」にやつく口許を、両手で抱えたコーヒーカップで隠しつつ、ヨミは語る。

「ぶっちゃけ古間さん的に桜子ってどうです?」
「え?」
「っていうか、年下はアリですか?」
「いやぁ、参ったね……。どう言ったら良いものかな」

 古間は頬をかきながら呟いた。
 恐らくヨミは桜子の恋心に気付いている。その上で、友を思ってか探りを入れてきているらしい。

「いい子だとは思うよ、桜子ちゃん。純朴そうというか……何と言うか、とにかくいい子だね」

 殆ど好奇心に近そうなヨミの調子に、古間は当たり障りない返答をした。だからと言って嘘をついた訳ではない。実際に古間が桜子に抱いている印象の中から無難なものを選別し、口にしただけ。
 それを「そうですかー」と少しつまらなそうにヨミは聞いていた。
 話が一段落したところに、ちょうど桜子が戻ってきた。彼女の目が僅かに赤くなっていることに古間は気付いたが、あえて触れない。
 桜子はいそいそと席につくと、古間に向かって会釈した。

「こ、コーヒーありがとうございます」
「どういたしまして。冷める前に戻ってきてくれて良かったよ」
「そりゃもう、古間さんに淹れてもらったコーヒーを冷やしちゃうなんて! ありえないですから!」

 力強い桜子の答えに、古間は笑う。

「本当に桜子ちゃんはいい子だね」

 そしてつい、素直な感想がぽろっと出てしまった。
 古間の言葉を聞いたとたん、桜子の顔は火が着いたかのように真っ赤になった。

「いやぁ……。そ、そんなこと、ないです……」

 桜子は焦った。あからさまに動揺してしまい、平静を取り戻そうと励むものの、なかなか上手くいかない。俯いて顔を隠すぐらいしか出来なかった。
 しかしヨミも古間も、桜子の気持ちには気付いているのだ。桜子は隠しているつもりなのだろうが、古間への態度があからさますぎて、全く隠せていない。だから今更繕う必要も無いのだが、それを当人に告げてはますますパニックになってしまうのは目に見えている。
 だから古間は気付かないフリをしていた。彼女が人間で自分は“喰種”であることより、桜子を下手に動揺させたり傷付けてしまわないようにするための配慮だった。
 しかし古間とは対照的に、ヨミはしきりに桜子へ発破をかけている。

「なーに一人でウジウジしてんですか桜子さーん? せっかくお気に入りのお店にいるのにさぁ」
「いや、勘弁してヨミちゃん……!」

 思春期の少女らしいやりとりに顔を綻ばせながら、古間は静かにカウンターへと戻った。

「桜子ちゃん、随分あなたが好きみたいね」

 古間が戻るなり、悪戯っぽい口調で入見は話しかけてきた。「そうだねぇ」どこか嬉しそうに古間は答える。

「僕のダンディな魅力にかかると、うら若き乙女もイチコロってことかな」
「万が一その魅力とやらがあるにしても、桜子ちゃん限定じゃない」
「桜子ちゃんは男を見る目があるんだよ」
「……私には判断しかねるわ」

 入見の穏やかな眼差しが、桜子を捉えている。
 人間が、相手を“喰種”とは知らずに接したり、何らかの情を抱くことは珍しいことではない。しかし両者は決して相容れぬ存在。

「どうして、よりにもよってあなたに惚れちゃったのかしら。桜子ちゃん」

 憂いを帯びた入見の呟きに、古間は苦笑した。

「本当に、どうしてだろうね」

 桜子と交流し、桜子からの好意を感じとるたび、古間は嬉しくて悲しかった。親交を深めれば深めるほど、その思いは増す。
“早く彼女が次の恋を見つけられますように”と祈ってから、幾つもの月が過ぎた。相変わらず桜子は古間を想ってくれている。その直向きさに、自分が“喰種”であることを一瞬忘れてしまいそうになったりした。もしかしたら“喰種”である自分を、彼女が受け入れてくれるのではないか? ……などと、我ながら突飛で能天気な考えが過る時もある。
 そんなこと出来はしないし、許されるはずがないのに。
 店に備え付けられたテレビから、ニュースを読み上げるアナウンサーの声が流れてくる。

『――の捜査は難航しており、いまだ“喰種”の足取りを……』

 古間はぼんやりとテレビを見つめていた。
 桜子もまた、ヨミと共にテレビを見つめ、ニュースを聞いている。

「怖いね、ヨミちゃん」

 桜子の呟きに、ヨミは「だね」と短く返して頷いていた。

“怖いね”

 当然のその感情が桜子の口から溢された時、古間の心は人知れず軋んだ。
 ――人間にとって俺たちは怖いもの。“怖いもの”と思われて当然なことを、俺はやってきた。
 自分でもよく判らない。しかし古間は自身に必死にそう言い聞かせなくては、洗い物すらままならなくなっていた。
 古間の動揺を聡い入見が気付かぬはずは無かった。

「難儀なものよね」
「心から同意するよ」

 何時もより弱々しい古間の声に、入見は苦笑していた。

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