――『あんていく』に通うようになって、一月が過ぎ、また一月が過ぎ……あっという間に夏を迎えた。
 桜子の手帳には、あの日以来『あんていく』のことばかり書き込まれるようになった。従業員の名前、メニューの感想、店内の様子。瞬く間に手帳のスペースは足りなくなってしまった。
 その為桜子は、七月に入ると同時に日記帳を購入した。淡い桜色のハードカバーに花柄が型押しされた乙女心を擽るデザインだ。可愛らしいその日記帳を彼女は一目で気に入った。以降『あんていく』のことを中心とした桜子の日記は、そちらに綴られている。

「これだけあれば大丈夫だよね」

 出来ればデジタルカメラを購入し、メニューのひとつひとつを写真に収めたいところだったが、カメラを買う予算も無いし、店内でカメラを引っ張り出すのは店に迷惑をかけそうで憚られる。携帯電話でこっそり撮影するのが桜子にとっては精一杯だった。
 学校にいる間は、差し支えない程度にクラスメートと会話をする。幸いにも新しい友人に恵まれ、中でも桜子と同じくコーヒーを好きな女子……齋藤ヨミとはとびきり仲良しだ。

「今度、ヨミさんも『あんていく』行こうよ」
「桜子さん本当に好きなんだね、その店」

 学校内の自販機で同じ缶コーヒー――もちろん無糖だ――を買い、飲み歩きながら気兼ねなく語らう。
 ヨミは桜子の内気な性格をよく理解してくれていた。明朗快活で面倒見の良い彼女を、桜子は心底信頼していた。

「だって『あんていく』のコーヒーはもう、革命だよ!? お店の雰囲気も店員さんも素敵すぎてどうしようってなるもの」
「ふふ、夏休み入ったら一緒に行くか考えるよー」
「期待してるからね?」

 春はあんなに不安だった高校生活も順風満帆。放課後には『あんていく』で至福のひとときを過ごして帰宅する。
 すっかり定着した桜子の『あんていく』中心の生活サイクルは乱れることがなかった。

「古間さん、こんにちは」
「いらっしゃい桜子ちゃん」

 放課後『あんていく』に向かうと、何時ものように古間が掃き掃除をしていた。相変わらずの箒さばきに、桜子は毎度感心してしまう。

「今日も暑いね。ゆっくり涼んで行ってよ」
「はい、古間さんも熱中症には気を付けてくださいね」
「心配には及ばないさ。コレが片付いたら店内に戻るからね!」

 まるでこういう類いの演舞が有るのではないかと思うほど、箒を巧みに操る古間。
 その姿を見るたび、何時も桜子は顔を綻ばせた。
 そうして何時ものように『あんていく』の扉を開き入店しようとした時――、桜子の足が不意にもつれた。

「へぶっ!」

 バランスを失った桜子は、見事に正面から店の床に倒れ込む。店員も客も一斉に何事かと桜子の方を振り向いた。しかし一番混乱していたのは桜子だった。
 ――何もないとこで自分の足に引っ掛かって転んだ……!!
 誰もが一度は経験するようなミスだ。しかしよりにもよって、こんな目立つ場所でしでかすとは。
 恥ずかしさと痛みで、桜子はなかなか動けなかった。だからといってこのまま動かずにいれば、ますます恥が重なっていく。

「大丈夫かい、桜子ちゃん!?」

 そこに、すかさず古間が駆け寄ってきた。箒を置き、代わりに桜子の手を取り、支えながら起こしてくれる。
 桜子には彼が救世主に見えた。

「あ、ありがとうございます……っ!」
「いやいや気にしなくていいさ! しかし思い切りいったねー……」
「はい……下半期早々思い切り……」

 鞄の埃を払いながら、桜子は苦笑する。
 古間は笑いながら桜子の服の埃をはたいてくれ、最後にぽんと肩を叩いた。

「怪我が無いなら良いじゃないか、結果オーライだよ」
「はい……」
「お大事にね」

 そう言って、古間は掃除へ戻っていった。桜子はぼんやりと彼の姿をしばらく見つめていたが、トーカの「他の人の邪魔になるから座って」という指摘に我に返った。

「ご、ごめん……」
「怪我がないなら良いよ、古間さんも言ってたでしょ。今度から気を付けな」
「うん、ありがとう」

 素っ気ないながらもトーカが心配してくれていることはしっかりと伝わってくる。桜子はこっそりとはにかむ。
 今日は何時もとは違う席を選んだ。ちょうど窓の外――掃除に励む古間を見守れる席。
 じきに中に戻るという彼の姿に、桜子はじっと見入っていた。
 そんな桜子に、再びトーカが声をかける。

「……何か飲まないの?」
「あっ!? あ、アイスコーヒーひとつ!」

 桜子の慌てように、トーカは思わず笑みを溢した。
 間もなくして運ばれてきたアイスコーヒーをお供に、桜子は今日も日記帳を取り出した。ヨミとの約束、さっき転んでしまったこと、今日も美味しいコーヒーの味……。あっという間にページが埋まっていく。

「いけない、家でのこと書くスペース残しておかなくちゃ……」

 3分の1ほどのスペースを残し、ペンを置いた。日記帳たちを鞄に戻し、桜子は、残りのコーヒーをじっくり味わった。
 ふと、先の失態が頭のなかに蘇る。派手な転倒を、笑うことなく心配して助けてくれた古間。大きくてしっかりした男性の手。服の埃を落としてくれて励ましてくれた、愛嬌のある優しい笑顔。
 失態による羞恥とは違う何かが、桜子の顔を赤くしていく。

「アイスコーヒーにして良かった……。本当に」

 火照りを誤魔化すために、氷をひとつ口に含んだ。コーヒー自体は既に飲みきってしまった。口の中で氷を転がしながら、桜子はしばらく窓の外を見つめていた。
 ――氷が桜子の口の中で溶けてなくなった頃、掃除を終えた古間が店内に戻ってきた。
『あんていく』に通っていて気付いたことは沢山ある。その中でも桜子が最近気になることは、古間のことだった。
 彼は『あんていく』で掃除全般を担当している。勿論日によってはカウンターに立ち、他の従業員のようにコーヒーを振る舞うこともある。桜子も何度か彼の淹れたコーヒーを飲んだ。とても美味しかった。
 しかし古間の掃除に対する気合いと心構えは、何か特別なものがあるように思えた。その腕前や、掃除をしている時の彼の表情の真剣さからは、ただならぬものを感じる。

「すごいなぁ……」

 思わず漏れた呟きは、紛うことなき本心。
 桜子はその日『あんていく』にいる間、ずっと古間を見つめていた。
 初めて話をした時も、今日助けてくれた時も、いつも古間の笑顔は優しかった。内気で言葉につまる桜子の心情も察してくれているかのように、あたたかい。この『あんていく』にいる誰もが優しくあたたかい人柄をしていたが、中でも桜子の心に強く印象付いていたのは……古間だった。
 くすぐったいような、切ないような、嬉しいような、恥ずかしいような。
 どう説明したら良いのか判らぬ感情を抱えながら、桜子は会計を済ませ、『あんていく』を後にした。
 感情の答えを探しながら、癒しを求めて、次の日も桜子は『あんていく』に通った。
 また次の日も。
 そのまた次の日も。
 ――そうしているうちに夏休みを迎え、時折ヨミと共に店を訪ねるようになり、日記帳のページはどんどん埋まっていった。
 桜子は『あんていく』に通い続けた。
 コーヒーを求めて来店していたはずが、気が付くと古間の姿を探していた。彼が休みの時は残念に思ったし、後日『あんていく』に行って古間の姿を見つけた時は、何時も以上に嬉しかった。
 その気持ちが一体どういうものなのか。桜子の中で答えが出るまでは、時間が掛かることになる。
 気が付けば夏が過ぎ、季節は秋になっていた。この頃『あんていく』には従業員が一人増えた。金木研という優しげな大学生だった。常に眼帯をしているのが気になったが、聞くのは不躾だと思い、桜子は気にしないようにしていた。
 しかし彼とは、ひょんなことで話をするようになる。

「高槻泉、好きなんですか?」
「はえっ?」

 桜子が読んでいた『黒山羊の卵』という本を見たカネキから、声を掛けられたのだ。
 桜子はおずおずと返す。

「い、いえ、何か人気みたいなので試しに買ってみたんです……」
「あ、そうですか……。すみません」
「いえいえ! グロいの苦手でおっかなびっくりしながら読んでますけど、何か、こんなに細かな心理描写の本読んだことなくて……正直、とても好きです。今まで読んでなかったの勿体無く感じました」

 桜子の返答に、カネキはホッとしたように微笑む。何となく気弱そうな彼に、桜子は親近感を覚えた。

「あの、カネキさんの方が年上ですよね? 敬語じゃなくて大丈夫です」
「あ、でも……」
「なので……もし本に詳しいんでしたら、私にも読みやすそうな高槻先生の本、他にも教えてください」
「えっ? ……も、勿論いいよ!」

 やっぱり『あんていく』に悪い人はいない。カネキの笑顔を見て、桜子はそう思った。
 短い秋が過ぎると、またひとり従業員が増えた。西尾錦という、こちらも大学生の男性だった。格好いい人だったが、カネキと違って話し掛けづらく、桜子は彼に慣れるまで時間がかかった。しかしトーカと彼が兄妹喧嘩のようなやり取りをしているのを目撃して以来、ニシキという人物もやはり良い人なのだろうと桜子は思った。
 ここは癒しの空間。
 優しい時間を過ごせる場所。
 桜子が、古間への日毎に増す想いを自覚したのは、その頃だった。

「……実は私、好きな人がいることに気付いたの」

 トーカを呼び寄せて、桜子はこっそりとその気持ちについて相談した。
 幼くて淡い恋心を、宝物のように胸の奥で守りながら――……。


 時折テレビから流れる“喰種”のニュースが怖かったが、心の何処かで「自分とは別世界のことだ」と桜子は感じていた。
 世界に“喰種”はいる。
 自分にも危険が及ぶ可能性がある。
 そう判ってはいたが、知り合いが襲われでもしなければ、きっとずっと、実感はわかないのだろう。
 その考えの愚かさに彼女が気付くには、古間への想いの答えが出るまで以上に時間を要することとなる。

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