私が初めて『あんていく』に入ったのは、高校一年生の春。入学して間もない頃だった。
 中学時代の友人とは別の高校に入学し、人間関係を新たに築き上げなくてはならない時期。全てが内気な私にとっては苦行だった。新年度を迎えて陽気な人々の笑顔を羨みながら、とぼとぼと帰路につく。何日かそうやって過ごしていた。
 今日もそうやって帰るんだろうな。嫌だなあ。つまんないなあ。そう思った時だった。
 ――鼻先に、桜の花びらが舞ってきた。幾つも舞う花びらたちを、なんとなしに目で追う。
 その先には、箒を振りかざす男の人がいた。がむしゃらに見える箒さばきが、不思議なことに巧みに風を巻き起こし、桜やゴミを一ヶ所へ集めていく。
 お兄さんは、一心不乱に掃除に励んでいる。

「あの服、ウェイターさんかな……」

 私は、お兄さんの後ろに喫茶店があることに気付いた。『あんていく』という看板も見える。恐らくあの人は店員なのだろう。
 何となく沸いた好奇心に任せて、私は『あんていく』に歩み寄っていく。

「いらっしゃいませ!」
「ど、どうも」

 こんな私に、掃除に励むお兄さんは手を止めて挨拶してくれた。慌てて頭を下げて返す。
 それから一度深呼吸し、『あんていく』の戸を開いた。

「いらっしゃいませ」

 穏やかな声がカウンターの方からした。声から感じた印象通りの、柔和な笑みを浮かべた男性が立っている。私の祖父と同年代ぐらいに見えた。雰囲気から察するに、あの人が店長だろう。

(にしても、素敵なお店だなぁ)

 小さな店内にはコーヒーの香りが立ち込めている。まるで時間の流れが外とは別の何処か、もっと都会の喧騒とはかけ離れた穏やかでゆっくりした世界のもののような、不思議と落ち着く空間だった。
 店の片隅に設置されたテレビや、少なくはない客たちの話し声が、鼓膜に届く。
 私は、店の中でも端に近い場所を選んで座った。

(と、とりあえずブラック一杯飲んでみよう)

 決心した私のそばに、ちょうど『あんていく』の店員さんがやって来た。透き通った水面のような、涼しげで綺麗な顔立ちのお姉さんだった。彼女の長く艶やかな黒髪を、ひっそりと私は羨ましく思った。

「あ、あの。ブラックコーヒー、ひとつ……ホットで、お願いします」

 お姉さんに何とか注文を告げることに成功し、ふうと溜め息を吐いた。何度やっても注文するのは慣れない。大抵友人や家族に頼りきりな私にとっては、こんな些細なことすら緊張を強いられる。
 ……程なくしてブラックコーヒーが運ばれてきた。
 目の前に置かれたコーヒーの香しさに、思わず私は惚けた。このコーヒーには、ただの平凡な高校生の私にすら、何か感じさせるものがある。
 期待のままにカップを手に取り、コーヒーを一口含む。

「お、美味し……っ!!」

 歓喜に震えながら、また一口。もう一口飲み進める。ああ、こんな調子ではすぐに飲みきってしまう! じっくり味わわなくては失礼だ。しかし、早く、もっと飲みたい……!
 一人で複雑な葛藤と戦いながら、私は存分にコーヒーを味わった……。

「ご馳走さまでした……」

 ほう、と息を吐いて空のカップをテーブルへ戻す。
 言い様の無い幸福感と共に、今までこの店の存在を知らなかったことが酷く勿体無く、そんな自分を愚かに思った。それほど衝撃的だった。
 コーヒーに詳しいわけでも無い。私にとってコーヒーはただの飲み物だった。数ある飲み物の中でも好きな方ではあったが、特にこだわりは無かった。あえて言うなら、砂糖やミルクを入れない方が……ブラックの方が好きというぐらいだ。

(他にもお店で焙煎してるとことかあるけど、こんなに美味しいの初めて……! いやあんまり他のお店知らないけど……)

 私はこの喜びを記そうと、カバンの中から手帳を取り出した。高校入学祝いにと両親がプレゼントしてくれたのだけれど、部活にも入っていない私は特に書き込むべき予定など無く、既に日記帳と化している。
 日付と天気。来た時間。コーヒーの感想。お店の名前と、それから私が感じた雰囲気をありのままに手帳へ書いていく。綺麗な店員のお姉さんや、優しそうな店長さんのこと。店内の角にある観葉植物の種類……は判らなかったから簡単に絵を描いた。
 あ、そうだ。掃除してるお兄さんのことも書いておこう。

「あっ、ホットコーヒー、おかわりお願いします!」

 店員のお姉さんへ、興奮ぎみに私は申し出た。店に入った時とは打ってかわってテンションの高い私を見て、お姉さんはクスッと笑みをこぼす。

「はい、ただいま」
「……あ、ありがとうございます」

 そのお陰で我に返った私は、赤くなりながら日記帳をカバンにしまった。
 2杯目のコーヒーは、飲む前にこっそりと携帯電話で写真を撮った。さっきは飲むことに夢中だったから、記念写真の意味を込めて。

(至福のひとときって、こういうのを言うんだろうなぁ)

 存分にコーヒーを堪能した私は、お会計を済ませて『あんていく』を出た。
 店の外では、お兄さんがまだ掃除に励んでいた。手にしているのが箒ではなく雑巾になっていて、店の窓ガラスを丁寧に拭いている。まるで新品のようにピカピカ輝くガラスを見て、私は感心してしまった。

「お、お疲れさまです」

 気付いたら、つい声を掛けていた。
 私に気付いたお兄さんが、手を止めて此方を見る。何と言えば良いんだろう。年上の人に対して失礼な表現かもしれないけれど、愛嬌のある顔をしてらっしゃった。

「わざわざ有難う、お嬢さん」
「いえっ、その、いきなり声かけてすみません」
「いやいや大丈夫だよ」

 お兄さんは笑いながら返してくれた。
 ほっとする私に、お兄さんは訊ねてくる。

「美味しかっただろう? ここのコーヒー」
「は、はい。すっかり虜になってしまいました」
「芳村さんのコーヒーは天下一品だからね! あ、芳村さんというのは店長のことさ」
「カウンターにいた、まさしく紳士な優しそうで渋いおじさんですよね?」
「そう!」

 人見知りしがちな私に、お兄さんは軽快に話を振ってくれ、私もまたそれに答えた。
 お兄さんはお喋り好きのようだ。私が幾らたどたどしい返しをしてしまっても、気にせずに色んな話をしてくれた。

「……おっと。引き止めてしまって申し訳ない」
「い、いえ! 楽しかったです!」
「それは良かった」

 結局私たちは、30分近く話していた。本当に不思議なお兄さんだ。何と言うか、一緒にいるとこちらも気楽になっていくというか……。お話にも答えやすい。

「こちらこそお掃除中にすみませんでした」
「ふふ、今や掃除のプロフェッショナルである僕にはこの程度ではタイムロスに入らないよ」
「す、凄いですね」

 得意気に顎に片手を当てるお兄さんに、何とかそう返す。それから私は、はっとした。
 これだけ話し込んでいながら、お兄さんの名前を聞いていないなんて。何だか申し訳なくて、おずおずと私は切り出した。

「あの、私は葉鳥桜子って言います。お兄さんのお名前を聞いてもいいですか?」

 するとお兄さんは、人の良さそうな笑みを浮かべて教えてくれた。

「僕は古間円児。よろしく、桜子ちゃん」
「は、はい。また来ます」

 古間さんに深々とお辞儀をして、私は『あんていく』を後にした。
 素敵なお店に、美味しいコーヒーに、不思議な店員さん。

(家に帰ったら、手帳に古間さんとお話したことも書き足さなくちゃ)

 春は出会いの季節だといわれている。私には縁遠い言葉だとばかり思っていたけれど、その概念はこの日、見事に覆された。
 代わり映えしない平々凡々な生活を過ごすはずだった私に舞い降りた、最高の出会い。
 何時もと同じ筈の帰り道が、この日はまるで別物のように鮮やかに感じられた。

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