此処20区には『あんていく』という名前の喫茶店がある。穏やかな店長と個性豊かな従業員のお陰で、小さいながらも賑わいある店だ。
その店の常連の一人・桜子は、20区の高校に通うごく普通の女子学生。通学路の途中にある『あんていく』を、珈琲好きの彼女はすぐに気に入った。以来、暇さえあれば此処に通い、美味しい珈琲をお供に勉強や読書に励んだ。
何度も通う彼女を、『あんていく』の従業員たちも覚えてくれた。中でも同性で桜子と同じ高校生であるトーカは気が合った。それ故にちょっとした女子ならではの悩みなんかも明かすようになった。
そして今日もまた桜子は、お客の少なくなったタイミングを見計らい、「トーカさん」と彼女を呼び寄せた。
トーカもすっかり慣れたもので、嘆息しながら桜子の元へやって来る。
「……今日は何悩んでるの?」
「何で私が悩んでるの判ったの?」
「そういう時の目、してたから」
トーカが素っ気なく返すと、桜子は笑った。「トーカさんには敵わないなぁ」そう呟いてから、彼女は改まって口を開く。
「……実は私、好きな人がいることに気付いたの」
「へえ、学校の同級生とか?」
「ううん。この『あんていく』にいる人」
トーカは様々な意味で悩んだ。
この喫茶店で働くのは、桜子の思っているような“普通の人間”ではない。少し胸が締め付けられるような痛みを感じつつ、トーカは桜子の言う「好きな人」が誰か気になった。
「ちなみに誰? ニシキだったら彼女いるよ。カネキはいないけど」
「そ、その二人じゃない……」
「え? あと男って言ったら店長と古間さんしか――……」
「……うん」
「うん?」
トーカは桜子を見た。
赤くなりながら、桜子は小さく頷きながら呟く。
「古間さんを好きになったの」
「よりにもよって!?」
「こ、声おっきい!」
桜子は慌てて手をばたつかせながらトーカを制した。
ごめん、と反射的に謝るトーカに、桜子は笑いながら返す。
「い、いいの。相談したのは私の方だから。……古間さんにいつも元気分けてもらってるうちに、古間さんのこと好きになっちゃって」
当の古間はというと、カウンターで食器を拭いている。
そんな古間に惚けた視線を向け、桜子は呟く。
「私みたいな子供じゃ、釣り合わないよね……。でも、私、どうしても古間さんのこと目で追ってて……」
「……あんた本当に変わってるね」
「ど、どういうこと!?」
「そのまんまだけど」
「えぇっ!?」
「こっちが“えぇっ!?”って言いたいわ」
桜子の好意が本物であることを知ったトーカは、彼女の席から空のコーヒーカップを回収していく。
「アンタの愛しの古間さんにおかわり頼んできてあげる」
「ちょ、トーカさん、聞こえたらどうするの!」
真っ赤になった桜子が思わず叫びながら立ち上がると、カウンターにいた古間が彼女たちの方を見た。
「ん? どうかしたのかい?」
「何でもないです古間さんっ!」
桜子は慌てて俯き、素早く席に戻った。
暫く不思議そうに桜子たちを見ていた古間も、何事も無かったのように食器磨きを再開する。
それがトーカにとっては可笑しくて堪らない。カウンターに入った彼女は、早速古間に声を掛けた。
「古間さん。桜子が“古間さんの淹れるコーヒーが飲みたい”って」
「成程、さっき騒いでいたのはそういうことか。承知したよ!」
古間は合点がいったように微笑み、上機嫌にコーヒーを淹れ始める。
トーカは桜子の方に目配せした。
すると桜子は両手を合わせて、「ありがとう」と口を動かして返す。本当に嬉しそうな顔で。
その姿にトーカの胸は切なく軋んだ。相容れぬ人間と“喰種”の関係が頭を過り、じわりと胸に染みていく。
桜子は、トーカや古間が人を食らう“喰種”であることを知らない。知るはずがない。釣り合うか否かは問題ではなく、桜子の想いに対して“世界”の仕組みは無情だ。
しかしそれでも、少しは彼女が幸せになるのなら――。
「……そうだ、古間さん」
考えたトーカは、一つ、彼女にサプライズを仕掛けることにした。
◆◆◆
桜子は硬直していた。
目の前には淹れられたばかりのブラックコーヒー。そして向かいの席には……。
「どうぞ、遠慮せずに飲んでくれて構わないよ。桜子ちゃん」
桜子の想いびと、古間円児が座っていた。
「は、はい」
「桜子ちゃん、いつもブラックを頼むね。年頃の女の子にしては大人びたセレクトだよね」
「えっと、『あんていく』のコーヒーはどれも美味しいですけど、ブラックが一番豆の香りや味が楽しめる気がして好きなんです!」
「うんうん、その気持ち判るよ」
古間と言葉を交わしつつも、桜子の胸中は混乱に満ちていた。
てっきりトーカが持ってきてくれると思ったコーヒーを古間自ら桜子のいるテーブルまで運び、そのまま桜子と向かい合う形で席についたのである。
代わりにカウンターに立つトーカの悪戯っぽい笑みを見て、桜子は全てを察した。これは全てトーカの計らいなのだ、と。
(気遣いは有り難いけど心の準備もなしにじゃ緊張がやばい……!)
赤くなりながら必死に古間との会話に励む桜子の初々しい姿。
話して間もなく、勘の鋭い古間は、彼女からの溢れんばかりの好意に気付いた。
――こんなに若い子の心を奪うとは、なんと罪深い男なのだろう。いやしかし俺様の魅力をもってすれば仕方無いことか……。
桜子を見つめながら、古間は得意気に顎に手を当てて笑った。
しかし、微笑ましさを感じる反面で、過去の自分の行いが“そんな感情を持つ資格はお前にない”と咎めてくる。桜子と言葉を交わすことすら元来許されないのだと、鋭い針が心を何度も刺してくる。
複雑な葛藤を押し殺し、古間は桜子と語らった。
「……それでですね、友達がいきなりコーヒー吹き出しちゃって。良かれと思って入れたお砂糖が多すぎたみたいなんです。それから、数少ないブラックコーヒー仲間になりました」
「本当に桜子ちゃんはコーヒーが好きなんだね」
「はい! 香ばしくて優しい香りが疲れを解してくれて……。でもコーヒーをこんなに好きになったのは『あんていく』のお陰です!」
満面の笑みで桜子は言う。
「コーヒーを飲んでこんなに幸せになれるんだなぁって、此処で知りました。古間さんみたいに素敵な従業員さんたちと、優しい店長さんに、いつも元気を分けて貰ってる気分です」
人間の笑み。
古間を、この場所を信頼しきった顔。
それがどんなに嬉しくて辛くて、幸せで悲しいことか。
何も言えずに古間は少女を見守る。
慈しむように両手でカップを抱え、桜子はコーヒーを啜った。
「……やっぱり、古間さんの淹れてくれるコーヒーが一番美味しいですね」
少女の呟きに、古間は静かに笑った。
「そんなにおだてられると、流石の僕も照れてしまうよ」
「すみません、正直なもので」
穏やかな祝日の午後。
会話を続ける桜子と古間の顔から、笑みが絶えることは無かった。