スイートペダル
私は深呼吸をする。目の前に広がるのは大草原。向こうでラピードさんが待っていた。他の皆は私たちよりもっと後ろ。そっと振り返ると、まるで皆の姿は草原に咲く花のように点々と見える。あ、今なびいたエステルの髪、完全に花弁のそれだ。ふんわり舞って此方まで届いてきそう。あの花たちが此方に来るまではまだ時間が掛かる。
私は、先ほどから行っていた、ラピードさんとの追いかけっこに再び興じることにした。私が走り出すと、当然ながらラピードさんも走り出す。膝くらいまでの草たちを掻き分けて、かきわけて。青々とした匂いを散らしながら、前方を突き進む青を追いかける。ふと見上げた空もやんわりと青い。ラピードさんほどはっきりした青じゃない。また前へと向き直って、絶えず足を動かす。腕を振る。全力疾走。ラピードさんは手加減なんてしない。全力、全開。目的地でもあるのか、ラピードさんの走りには迷いが無かった。それを追いかける私も当然、迷いなんて無くて。高速で過ぎていく空と雲と草原。足が縺れる。体が前方へ傾いだ。頭から草むらに突っ込みそうになって、だんと地を両手で突いた。
「ラピード、さんっ」
待って、という言葉を呑み込んで、代わりに空気とエアルをめいっぱい吸い込む。ぶわりと体中の血が波打つような感覚がして、瞬間、私は狼に姿を転じた。青まじりの白い毛。大地を力強く蹴る四肢。結構狼の中でも上等なのではないかと自負している姿だ。あまりやりすぎると、リタやレイヴンさんが何か言いたげな顔をするのでそうしょっちゅう行うのは控えているけれど、この姿はもうひとつの私だった。母から教わるはずだったこの力のことは未だに不鮮明なところが多いが、少なくとも私にとっては有益なものだから、使う時は使わせてもらっている。
この姿になるとラピードさんの倍以上あるから、追いかけっこにも違う流れを持ってこれそうだ。
「ワオーンッ!」
「待てぇ!」
負けはしないぞ、との吠えを受けて、果敢にも挑んでいく私。コンパスの差でいけば今は私が有利に違いないが、スピード、四脚の使い方に関してはラピードさんに軍配が上がる。つまり、惜しいところまでは頑張ればいけるかもしれないけれど、勝てる見込みに関しては何とも言えないところだった。
「――がんばれ」
背中から、声がする。ちらりと声を振り返る。花色の髪を揺らしながら、エステルが走っていた。他の皆より突出している。エステルはもう一度叫んだ。
「がんばれ、ノア――!」
空をつんざくような大声で、エステルが私に激励してくれていた。熱い思いが私に届く。
「……うん!」
返事が届いたかどうかは分からない。ラピードさんに向き直った私は、強く、力強く、大地を蹴った。地面が削れて、草と土が舞い上がる。さっきまでとはけた違いのスピード。景色の過ぎ去る勢いも違う。今日こそ。今度こそ。ラピードさんとの距離が縮まっていく。ぐんぐん迫る。ラピードさんがちらと私を振り返って、また前を向いた。まだラピードさんが加速する。私はそれに必死にかじりつく。こんなに全速力で走ったのは、いつぶりだろう? 何かに夢中になったのって? そもそも、いつごろから、私はラピードさんと追いかけっこするようになったんだったっけ?
草原に花が混じってきた。甘くて柔らかい香りを鋭くなった嗅覚が捉える。
あと少し。あと少し。――ラピードさんに並んだ! ラピードさんを見る。ラピードさんも私を見る。体を前方へ、前方へと押しやる。足を動かせ。限界以上に。きっともうこんなチャンスは無い。今日こそ、超える。
――視界いっぱいに色とりどりの花々が広がった。彼方からも、此方からも、優しく甘い香りが漂ってくる。数歩花畑に踏み入ってから、ようやく私は足を止めた。後ろを振り返る。ラピードさんが、ワウ、と一声。
やったな。
そう言われて、私は脱力して花畑に倒れ込んだ。はぁはぁ、息が上がっている。やった、やった。遂にラピードさんから一本取った! 四肢をばたつかせながら私は喜びを全身全霊で甘受していた。
しばらくしてエステルたちがやってくる。やってくるなり、エステルは私の胸へ飛び込んできた。
「ノア、勝てたんですね! その喜び方でわかります!」
「うん、やったよ。エステル、応援ありがとうね」
私の顔の傷跡を指先でなぞりながら「どういたしまして」とエステルが微笑む。傷跡のところのぽそぽそした毛の触り心地が好きらしい。エステルに鼻を寄せながら、花に囲まれて私は、勝利を味わう。
花畑を見渡しながらユーリが笑った。
「ノアへの勝利の贈り物ってとこか、ラピード」
「ワォン」
何のことやら、ととぼけるラピードさんに、私は笑わずにはいられなかった。