夢の中で
ジュディスは珍しく、深く寝入っていた。いつもなら起きているはずの時間なのに、すやすやと眠り続けていた。
それに気付いた仲間たちは、せっかくだからと彼女を起こさずにそっと行動していた。藪から出てきた蛇に驚いてカロルが声を上げるまで、ジュディスの眠りは守られていた。
仲間たちの気遣いにジュディスが気づかないはずもなく、もう、とテントから出ながら彼女は呟く。
「別に起こしてくれてよかったのに」
「せっかく気持ちよさそうに寝てるっていうのに起こすのは気が引けるじゃないか」
「え?」
ジュディスはぽかんとした。聞き覚えのあるような無いような、不思議な男性の声がしたからだ。声のしたほうへ視線を向ける。
顔に走る十文字の傷。右目の義眼魔導器。夜明けの空の青に似た髪は、肩辺りでざんばらに切りそろえられている。背が高くそれなりに筋肉のついている体はしなやかな肉食獣に似ていて、表情だけが少し情けなく、弱気そうな笑みでもってジュディスを見つめていた。
「あ、俺はテントに入ってないから安心して。エステルたちから聞いて、そう思っただけ」
ジュディスの視線に耐えられなくなったのか、青年は慌ててそう言い添える。
違う、そうじゃなくて、と呟きかけてジュディスは、はっと辺りを見渡した。……すっかり見慣れた仲間の顔。その中に一人混ざった、覚えのあるような無いような青年の姿。代わりに引かれた仲間の存在。
「……あら、ノアは?」
気弱ながらもジュディスを親友と慕う少女が見当たらなかった。まさか、もしや。そう思いながらもジュディスは一応、念のため、状況を確認するため、そう仲間に問うた。
すると、ユーリが「は?」と瞬きして返す。
「あらもそらも何も、ノアならずっとジュディのご機嫌伺ってそわそわしてるじゃねーか」
「ご機嫌伺ってるわけじゃないよ……」
やはり。ジュディスは一瞬ぐらついた頭と体を、仲間たちに悟られないように持ち直した。
ノアがノアではなくなっている。何故か昨日までは確かに女性だったノアが、今目の前で、男性として存在している。しかも、仲間たちはそれが当然のごとく受けて入れていた。
異変と感じているのはジュディスのみだった。
ひっそりと頬をつねってみる。しっかり痛い。夢ではないようだ。
ユーリにつつかれた青年ノアは、あたふたと朝食の支度を始める。「ジュディスが起きたことだし、皆でご飯で良いよね」誰に確認するでもなくノアはそう溢して、てきぱきと全員分のスープとパンを取り分けていくのだった。
……ジュディスだけが、探るような視線をノアに向けていた。青年は今のところ片付けに集中していて気付く様子はない。
――確かにあのスープはノアの作ったものだったわ。
――そしてパンも、ノアがいつも用意するものだった。
まるで世界はジュディスのほうが異端だとでもいうように、青年と化したノアを受け入れ、進んでいる。
テントを畳み、出立の準備を済ませた一行は、近くの街へ向けて歩き出す。バウルを呼べばすぐなのだが、たまにはバウルも自由に空を飛びたいだろう、とのことで徒歩での移動になっている。
ジュディスはそっとバウルに呼びかけた。もちろんノアのことについて。しかしバウルもやはり青年としてのノアしか知らなかった。ジュディスの問いがあまりに突飛過ぎて驚くほど、彼にとってもまたノアは青年であった。
いよいよジュディスは深刻に悩み始めた。間違いなくノアは女性だった。それが、一晩眠っただけで男性に変わっており、その変化を――まるで“ノアは初めから男だった”ように周囲は受け入れている。
「悪い夢を見ているようね……」
戦闘のさなか、槍を振り払いながらジュディスはひとり愚痴た。この大きく孤独な違和感は想像以上に彼女の心を疲弊させていた。
ノアの鎌を振るうスピードも重みも、技の圧も違う。勢いに身を委ねて敵を潰しにかかる少女ではなく、勢いを完全に制御し、使い分ける青年。義眼が煌めき、「おおおっ!!」唸りながら振り上げた鎌が猪型の魔物を真っ二つにする。エアルを充填したかと思いきや弾かれたように駆け出し、対角線上の敵を薙ぎ払う。
ジュディスは彼の姿から目が離せなくなっていた。自分の知っているノアとは違う。けれど、その勢いは――仲間たちに負担をかけまいと戦場を駆けまわる姿は――誰でもなく、ノアだ。
くるりと鎌を回し後ろ手に構えたノアが、はっとジュディスを見た。ジュディスはどきっとして、しかし、その視線が僅かに後方へずれていることに気付く。
「ジュディス!」
背後から迫る殺気にジュディスが防御態勢を取ろうとするより早く、叫び、狼と化したノアが突進してきた。体当たりで魔物を吹き飛ばし、ジュディスを背に庇い、唸り声をあげる。もんどりうった魔物に仲間たちが追撃を放ち、戦いは何とか終わった……。
魔物の処理を済ませた後、ジュディスに、ノアが話しかけてきた。
「大丈夫か、ジュディス? 何だか今日のジュディス、ぼうっとしてる気がする」
「ええ……。ちょっと夢見が良くなかっただけよ」
「それは良くないね」
困惑させている張本人からの心配に、ジュディスは思わず苦笑を溢す。
ノアは、コートの裏側でポーチの中をなにやら探ると、小さな袋を取り出した。
「ストレスが溜まってるのかもしれないよ。これ、良かったら持ってて」
ジュディスの手に袋を握らせて、青年は笑う。
「気分を落ち着かせるポプリなんだ。ここのところ野宿続きでくたびれる面子も出るだろうと、作っておいたんだよ」
「ありがとう。……とてもいい香りね」
「どういたしまして。少しでも気がまぎれたなら、なにより」
ジュディスはポプリを握りながら青年を見上げた。
――ノアの笑顔だ。
男性になっても、たくさん変わってしまっても、その笑顔は確かにノアのものだった。ジュディスの知るあどけない少女、仲間の庇護に重きを置く少女、誰よりも臆病で、それを覆うように飄々と過ごすようになった少女ノアの、おっとりした笑み。
目が覚めてから初めて安堵したと言っても過言ではなかった。
その時、ジュディスは眩暈を覚えた。くらりと視界が揺らぎ、目の奥でキンと鳴るような痛みが走る。もつれる足には力が入らず、頽れそうになる。
咄嗟にノアがその胸で受け止め、支えてくれたお陰で大事には至らない。それでも青ざめたジュディスを見てノアは酷く狼狽えた。
「ジュディス!? ひどい顔色だよ、休まなきゃだめだ」
「大丈夫、大丈夫よ。少しすればきっとよくなるから……」
「大丈夫な人がこんな風にはならないよ! みんな、ちょっと休もう!! ジュディスが体調悪いみたいだ」
「本当に大丈夫だから……」
ジュディスがノアに凭れながら言うものの、血相を変えたノアは止まらない。短く仲間たちに指示と説明を出して、急遽ここで休息をとることになった。本当なら街に急いだほうがいいのかもしれないけど、とノアはジュディスを抱える。
「街まで行く体力がまず無さそうだから、少し落ち着くまで休もう。そのあとは俺の背中に乗るといい」
「ごめんなさい……ありがとう、ノア」
「良いんだよ。気にしないで。むしろ、こんなの当然のことだろ?」
柔らかな毛布の上にジュディスを寝かせ、ノアははにかんだ。
「だって、俺はジュディスの―――」
視界が暗転する。痛みが遠ざかり、景色が、光が遠ざかり、ノアの顔と声が遠ざかる。
暗い穴を落ちていくように不快かつ不安な浮遊感にジュディスの意識は襲われていた。ぐんぐん落ちる。どこまでも落ちる。果てがないのではないかと思うほど。
しかし、落ち行く先で光がぽつりと灯った。次第に光は大きくなる。と同時に、何かの香り、誰かの声、声の主の存在を近くに感じるようになった。
いつまでも続くと思われた暗黒の浮遊は、一瞬で真っ白な光に破られた。
「ジュディス、起きて〜!」
はっとジュディスが目を開くと、しょぼくれた子犬のような顔をした、見慣れた人物がいた。ゆるくジュディスを揺すっていたノアである。少女の、ジュディスが慣れ親しんだ女性の、ノア。
ジュディスはきつく握り締めていた手を開いた。汗ばんた手の中には、青年が渡してくれた袋が少しくたびれた様子で収まっている。まるで何が起きたか分からず、しばらく呆けていたジュディスは、ようやく昨晩の出来事を思い出した。
この頃寝つきが悪いと悩むジュディスに、ノアが特製の香り袋を作ってくれたのだ。その香りはよく効いて、ジュディスはいつもよりずっとスムーズに入眠することができた。しかし、目が覚めたらノアの性別が逆転したあの世界にいた。
つまり、ジュディスは壮大な夢を見ていたのだ。
「ノア……どうしたの?」
「どうしたのって、ジュディスが寝たままピクリともしないから、流石にびっくりしちゃったの!」
少しつつけば泣きそうな顔をしてノアは言った。
「まるでお人形みたいだったよ。珍しくのんびり寝てるなあと思ってたけれど、何だかそれにしては静かすぎるし、でも浅いけれど呼吸はしてるし、けれど呼んでも起きないしで、焦ったよ……」
ジュディスはノアの心配を他所に、夢の中で出会った青年のノアのことを思い出していた。
――『俺はジュディスの』……何だったのかしら?
一瞬彼の顔に朱が差したのを認めた気がする。そのあとあまりにも早く目が覚めてしまって、続きは聞けずじまいだった。
それにしてもリアルな夢を見たものだ。夢は深層心理を表すと言うが、ノアが男性であればよかったと思ったことは無い。ジュディスにとってノアへの好意は性別により差がつくものではないのだ。ああ良かった起きてくれて、とまだ心配そうに眉尻を下げるノアとて同じである。彼女もまた、性別や年齢、種族によって抱く感情の差別をつけるタイプではなかった。
だとしたら、あの夢は一体。あの体験はどうして。
――ノア、なかなか男前だったわね。
女の子のノアをまじまじと見つめながら、ジュディスは思い返す。
「それにしてもジュディス、一体どんな夢を見てたの」
ようやく落ち着いたらしいノアに問われて、彼女はゆるりと口を開く。
「忘れちゃったわ。でも、とびきり幸せな夢だったのは確かね」
ポプリの香りを確かめながら、クリティアの美女は微笑んでいた。