ほほえみあうならきみがいい
 小さな頃に下町のそばに捨てられていたナマエは、ユーリと共に〈我が家〉――下町の身寄りの無い子供たちが過ごす場所――で育った。おっとりしていて、まさしくマイペースな少女だ。
 ナマエは、下町の外れにある墓地へ毎日欠かさず通う。他の子どもたちと一緒に下町に暮らす人間としての作業を済ませた後、あるいは朝一番に、そこへ通っていた。
 ユーリは、墓地なんて湿っぽい場所へ彼女が足しげく通う理由が判らなかった。彼女の肉親が埋まっている訳でもないし、墓地には見るものも遊ぶものもないし、墓地は他の大人たちがある程度草を刈ったりして簡単ながら整備されているのだ。だから、何をしているのだろうと気になって後をつけたことがある。
 そしてユーリは、墓地でのナマエの行動を知った。
 ナマエは、小さな桶に水を汲んで、墓地に来ていた。一緒に持ってきていた布を水に浸して絞って、ひとつひとつの墓標を布で拭っていた。そして自分なりの掃除を済ませた彼女は、誇らしげに一人で笑っていたのだ。拭き掃除が終わると、手近な花を摘んできて、これまた墓標ひとつひとつの傍に置いていく。献花のつもりなのだろうが、あまりにも少量過ぎて逆に貧相な気がした。でも満足そうなナマエを見つめていると、それでいいのかもしれないと思った。
 ……月日が経つと、ナマエの墓地通いは掃除だけで留まらなくなった。彼女は墓地のそばに様々な花を植え、育てるようになった。もちろん下町の人々の許可をもらって行っていた。どこから花の種や球根を手に入れているのか判らなかったが、ナマエの作業は日毎に成果を見せた。そして育った花たちのなかから幾つかを手折り、墓へと供える。
 いつだったかユーリがその行動の理由を尋ねた時、ナマエは苦笑しながらこう言った。

「墓地を怖がる子供が多いし、あそこで眠っている人たちも寂しいかと思ったから、周りをお花で囲んだらいいんじゃないかって思ったの。お花好きだしね」

 最後の言葉がナマエの本心なのではないかとユーリは思う。
 以来、気が向くとユーリもナマエの手伝いをするようになった。本当に気が向いたとき、寝坊せずにナマエへついて行けた時だけだったが、彼女は大層喜んでくれた。

「ユーリ、今日もありがとう」

 墓地のそばの草むらに腰を下ろしたナマエが、ユーリを見上げて微笑む。
 微笑み返しながらユーリもまた、草の絨毯へ座った。

「気にすんなよ。何かしとけばハンクスじいさんにもつつかれないで済むから来てるだけだし」
「それでもありがとう。きっと眠ってる人たちも喜んでるよ」
「有難いってか、ちょっと想像すると怖い光景だな……」
「そう? もし私がここに眠っていて周りがお花でいっぱいだったら嬉しいなぁってだけだよ」
「そうなると、花嫌いなヤツにとっちゃ迷惑なんじゃねえか?」

 ユーリにしてみれば何てことは無い言葉だったのだが、ナマエは「えっ」と固まってしまった。微笑みが霧散し、表情が強張っていく。自分がとても酷い行いをしてきたかのような、後悔の念がはっきり浮かんでいる。

「それは……想像してなかった……。でも、そういえばそういう可能性もあったね……」
「おまえな……気にしすぎだっての。冗談だよ、深く考えんなって」

 でも、と食い下がるナマエに、ユーリは嘆息した。
 ナマエは昔から何でも真に受けてしまうきらいがある。もっと柔軟に物事を考えるべきだ。ふざけることや冗談も覚えると良い。その方が普段からぼんやり……いや、穏やかな彼女の雰囲気にぴったりなのに。ちょっとは此方に感化されて身につくかと思いきや、十数年一緒にいても全くそんな兆しは無かった。

「そうやって妙なとこで心配性なのを、じいさんもばあさんも注意してたろ。もっとあっけらかんとしてりゃいいんだよ」

 実際に“ユーリとフレン、あるいはユーリとナマエを足して割ったらきっと丁度いい”などと昔からよく言われてきたものだ。勝手に人を足したり割ったりするなとユーリはむくれたが、フレンとナマエは“どうやったら自分たちを足したり割ったりできるのだろう”と答えの無い疑問に首を捻っていた。今となっては成る程、足して割れば……と最初に発言した人間の気持ちがよく判る。
 生憎人間はくっついたり割れたりできないが、傍にいて影響し合うことが可能だ。そう思っているが、フレンもナマエも変に頑固なところは直らない。自身については置いておいて、そう思った。
 からかわれたことに気付いたナマエが、少し拗ねたような目をする。

「だったら最初から気になるようなこと言わないでよ、もう。サンドイッチあげないよ」
「悪かったって」
「あんまり悪く思ってない気がするんだけど……。でも手伝ってもらったからちゃんとあげます」

 さあどうぞ、とナマエはバスケットを覆っていた布を取り払い、ユーリへ差し出した。いつもだったら具はタマゴのみのところが、今日はハムとレタスも挟んである。
 ユーリは瞬きした。

「なんか豪華だけど、良いことでもあったのか?」
「ううん。たまには贅沢しても怒られないでしょ? ハム、嫌いじゃないよね?」
「もちろん」

 頷きながら、ユーリは早速サンドイッチを掴み、頬張った。レタスも新鮮なもののようだ。欲を言えばタマゴとハムを別々に味わいたかった。そう言ってみようかと思ったが、「やっぱりタマゴはタマゴだけの方が良かったかな」と目の前でサンドイッチを食べ始めたナマエがぼやいたのを聞いて止めておいた。
 こうやってたまに二人きりで過ごすようになって、何年経っただろう。一時騎士団に入団したものの舞い戻って来たユーリに、ナマエはのんびりと「おかえり」なんて言って微笑んだ。騎士団を抜けた理由を訊くことも無く、ちょっと出かけていた友人が帰ってきた程度の調子だった。それは下町の人々みなに言えることでもあったが、ナマエの場合は優しさと言うより、もっと別の何かが要因の気がした。
 ……あの時ナマエが、帰って来た自分を見た途端弾けんばかりの笑顔を一瞬だけ浮かべ、慌てて微笑みを繕い直したのを、青年はしっかり覚えているのだ。

「ユーリ、ここについてるよ」
「ん?」

 物思いに耽っていたユーリの口元についていた食べかすを、彼が舐めとるより先にナマエがハンカチで拭う。母親がいたらこんな感じなのだろうか。ナマエが母親になったらこんな風に子供へ接するのだろうか。また他愛ない考えが脳裏に浮かぶ。
 ユーリは何だか気恥ずかしくなって、一気にサンドイッチを平らげた。

「急いで食べたら喉につまっちゃうよ。はい、お水」

 心配したナマエが、水で満たされた木のコップを差し出してきた。ユーリは遠慮なくそれを受け取り、これまた一気に飲み干した。花か果物でも浸していたのだろうか、水から仄かな香りと甘みが感じられた。「おかわりいる?」ナマエの気遣いに、ユーリは首を横に振って答える。
 急に喋らなくなってしまった幼馴染みに首を傾げつつも、ナマエはのんびりと食事を再開した。彼女は人一倍食事に時間がかかる。ゆっくり噛んで食べろと教わったにしても、のんびり過ぎる。だから彼女は比較的手軽に食べられるサンドイッチを好む。長い付き合いでユーリが覚えたことの一つだった。

「……ごちそうさまでした」

 しっかり両手を合わせて、ナマエは食後の挨拶をした。ユーリもつられて、「ごちそうさん」と呟く。
 それからナマエは、ごろんと草の上に寝転がった。

「お腹がいっぱいになると眠くなるねー」

 日差しを全身に浴びて、彼女がうんと伸びをする。
 ユーリも草へ背中を預けることにした。
 二人で帝都の空を見上げる。快晴に、いつも通りの大きな結界の輪が浮かぶ、代わり映えのしない光景。
 昔から変わらない、空。

「帝都の外って、どんななんだろうね」

 ふとナマエが呟いた。生憎ユーリはその答えを持ち合わせていない。お互い、この下町で、結界に守られながら育った。街を訪れる商人に他の都市の話を聞くこともあったが、全くイメージが掴めなかった。一体どんな場所があって、どんな住民がいて、どんな生活をしているのか……。何も知らない。
 ナマエとてユーリに答えを求めている訳では無かった。

「外には魔物がいるかもしれないけれど、ここはたまに窮屈に思えるんじゃないかな。……ユーリには」
「どういうことだよ?」
「そのまま。色々と窮屈でしょ、って」

 ユーリが横を向くと、笑うナマエと目が合った。空を見ていた彼女は、ユーリと向かい合うように横になっていた。

「私の勘だけれどね、きっとユーリはこの街をいつか離れると思う。あなたはここで大人しくしていられるような人じゃないから」

 穏やかな笑みの隅に見え隠れする寂しさがあった。
 ユーリも体ごと彼女の方を向いた。投げ出されている白い手を握り締める。眠たいのだろうか、掴んだナマエの手はいつもより温かかった。毎日の仕事で若干荒れてはいたが、いくら触れていても飽きそうにない。不思議な感覚だ。

「オレが何処に行くってんだよ」
「色んなところに行くと思うよ。もっと海が近いところや、空に手が届きそうなところ。たくさん、たくさんの場所。ラピードみたいに頼もしい相棒もいるしね」
「そりゃあ、興味がなくはないけどな……おまえ寂しがって泣くだろ」

 半分からかうつもりで、もう半分は彼女の真意を問うつもりで、ユーリは返した。
 ナマエの笑みが深くなる。

「うん。きっと泣くね。でもすぐに、ユーリならどこかで元気にしてるって思い返して笑う」

 ユーリは反射的に彼女の手を握る力を強めてしまった。幸い、痛がる様子もなく、ナマエは此方を見つめている。信頼と愛情に満ちた幼馴染みの姿。ずっと幼い頃から一緒にいたせいであまり実感する機会が無かったが、こうしているとナマエもすっかり女の子ではなく女性へと成長を遂げているのが判った。
 ――ユーリはナマエの手を引いて身を起こした。引かれるがままに起き上がったナマエは、そのままユーリの腕の中へと導かれて行く。

「やっぱ泣くんだな」

 いつもより間近で響く幼馴染みの青年の声に、ナマエはどきりとした。ユーリに包み込まれたまま、動けない。
 優しく背中に回された腕。あのしなやかで無駄のない筋肉のついた彼の腕が、今、自分の体を支えてくれている。想像と実感でナマエの体は熱くなった。

「おまえの言う通り、いつかオレはここを出るかもしんねえ。けど、安心しろよ」
「ユーリ……」

 おそるおそる幼馴染みの顔を見上げて、ナマエは目を見開いた。
 くしゃくしゃの笑顔をしたユーリが、今まで見たことも無いような優しい目をしてナマエを捉えている。今しがたユーリがナマエの成長を痛感したように、ナマエもまた、彼の成長に驚き、胸を高鳴らせていた。
 もうお互い、子供ではないのだ。
 どもってしまったナマエに、ユーリは約束をした。

「もしそうなっても絶対に戻ってきて、外の世界の事、たんまり聞かせてやる」
「うん……」
「んでもって、今度はおまえを連れて旅するってのもいいな。勝手知るなんとやらってか? 合ってたっけか」
「わかんない……。私賢くないから」
「オレよりは多分賢い」

 ナマエがぎゅっと手を握り返して無言で何かを訴える。ユーリは苦笑した。
 言わずとも、何となく心情は察していた。判るようになった。長年共に過ごしてきたこと、その間彼女へ抱く想いが複雑かつ深さを増していったことが、そうさせた。ナマエもまた、何だかんだでユーリの気持ちは痛いほど判っているのだ。
 心地良くて切ないこの絆を二人で重ねて来た。
 だが、いつまでもこうしていられない可能性が潜むことも悟っている。現実は時に非情で、唐突なのだ。
 それでも――。

「大丈夫だ。おまえのいるとこが、オレの帰るとこだ」
「うん」
「だからおまえがここにいてくれれば、オレは迷わないで戻ってこれる」
「うん」

 漠然とした未来に待ちうける旅立ちを思い、決意する。
 ふたりはずっと手を握り合った。互いの顔を見つめて笑っていた。
 自然と顔を寄せて、吐息も伝わるような近さで、ふたりは、ふたりだけの時を紡ぐ。
 この手の温度が、心の道標になる。
 いつか旅立っても、離れても、迷っても、決してその足を止めることなく進むための印。

「そうしたら、オレは、お前を――……」

 耳元で幼馴染みが告げた“誓い”に、少女は頬を赤らめる。
 そして、返事の代わりに体いっぱいで想いを表そうするかのように、彼に飛びついたのだった。
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