調子外れのパレ−ドを始めよう
 帝都ザーフィアスは、いくつもの“層”に分かれている。
 誰もが生まれながらにして知る不平等・不条理。生まれた場所が、血筋が、その者の人生のほとんどを抗えぬ力で記してみせる。いくら異を唱えようと変わらぬ理不尽な現状を、ナマエは唇を噛み締めて耐え抜いてきた。
 ――だが、今日こそは。
 決心して精一杯身なりを整え、ナマエは貴族街へと踏み入った。
 その一歩、一瞬で、空気が変わる。まるで糞でも踏んづけたような不愉快そうな者、物珍し気にナマエを物色する者、ちらりと一瞥くれたきりナマエを無かったことにする者。反応は様々であれ、彼らの本質は共通していた。
 ――この場に相応しくない生き物がいる、と。

(ここのお綺麗様たちは、糞自体ろくに見たことも無いんだろうけれど)

 心の中でしかつけない悪態は、より一層ナマエを惨めな思いにさせた。毎日毎日無駄足を踏まされていることが殊更胸を痛くさせる。だが、怖気づいて逃げるわけにはいかなかった。
 貴族に捕まった弟を解放してもらわなくてはならない。
 気が弱いくせに正義感だけは強い弟が、先日、貴族の――不幸なことに根のよろしくないその子息に、口答えをしてしまった。
 我が物顔で道を歩く貴族の子がすれ違いざまに老婆にぶつかっていったのを見て、弟は「なんで謝らないの」と叫んだそうだ。貴族の子はしっかりと弟の顔を睨みつけた。そしてすぐさま親に言いつけた。瞬く間にこの出来事は“下町の人間のくせに貴族へ歯向かった”と大袈裟に歪曲されていった。
 友達と遊びに行く、と家を出たきり帰ってこない弟を案じるナマエの元にその報せが届いた頃には、弟は貴族の屋敷牢に放り込まれた後だったのだ。
 その弟を救うために、全財産を懐に抱えて、ナマエは貴族の屋敷を訪れていた。何度も、何日も。そして貴族の前で這いつくばるように頭を下げ、額を床に押し付け、懇願した。

「――どうか私の弟を返してください。お詫びは致します。一生かけて償います。だから、弟を助けてください」
「下町の人間が我々の要望に応えられる筈もあるまい。口でなら何とでも言える。目に見える誠意というのが必要だ」
「もうこれだけしか無いのです、お願いします、弟を助けてください」

 ナマエの家の全財産など、貴族にとってははした金。ろくに中身を確かめることも無く、貴族の男はその袋を蹴り飛ばした。控えている従者に「一応拾っておけ」と顎で指図し、

「泥臭さが屋敷に移る。早く出ていけ」

 ナマエに視線をやることもなく、無下に追い出した。
 ――今日も、だめ。
 ……唇を噛み締めて、ナマエは下町をふらついていた。視界が霞んで、体が震えて、上手く歩けない。
 幽閉された弟のことを思うと胸が張り裂けそうだった。弟が何を間違ったというのだろう? 貴族と平民の何が違うというのだろう? 貴族になるということは、人を捨てることなのだろうか――……。
 陥った考えのおぞましさに、ナマエは我に返り、首を振った。
 いいや、そんなはずはない。貴族生まれでも素晴らしい人はいる。かつての騎士団長や、以前下町に様々な資源を持ってきてくれたという騎士たちの話を知っている。ただ残念なことに、ナマエが出会う貴族は、誰もがそんな高潔なものではなかった。

「どうしたんだ、ナマエ」

 俯くナマエの前で黒い影が止まった。顔を上げると、そこには艶やかな黒髪と漆黒の衣服を身に纏った青年が立っていた。左手に剣をぶら下げた、何だか気だるげな……それでいて、瞳の奥に確かな意志を持つ光を持った人。下町の人間にとっては馴染みのある彼の顔に、ナマエはわずかながら安堵を覚えた。

「ユーリ……」

 確か彼は旅に出たはずだ。どうして彼が帝都へ戻ってきているのだろう。色々と疑問は有ったが、問いかける元気は無い。
 表情の暗いナマエをまじまじと見つめながら、ユーリは首を傾げた。

「久々に寄ってみたら、なんかハンクスじいさんが“ナマエの様子がおかしい”ってんでよ。何かあったのか?」

 ナマエは面食らった。下町の人々にはひた隠しにしていたつもりが、ハンクスはナマエの異変に気付いていたらしい。さすが下町の住人を束ねる人物なだけある。それでもナマエに問いただそうとしなかったのは、ナマエが隠そうと必死であることも察していたからなのだろう。止まったはずの涙がまたぽろりと零れて、ナマエは慌てて手の平で拭った。
 勿論目の前のユーリがそれを見過ごすはずもない。

「……何かあったわけだな」

 呆気なく看破された。大丈夫、と言い逃れることも考えたが、彼の鋭い眼光がそれを許さなかった。
 観念したナマエは、静かに現状を打ち明けた。弟が貴族の子供へ注意したこと。それを告げ口されたこと。話が収拾のつかないほど大きくなった挙句、弟が捕まったこと。弟を助けるために何度も何度も貴族の家を訪ねていること……。
 涙が一向に止まらず、しかし、不思議と落ち着いた調子で話すことが出来た。これもユーリの頼もしい雰囲気のお陰なのだろうか。

「――もう売るものも無いの。何かのお話みたいに、髪でも切って売ろうかと思ったけど、売れるはずも無かった」

 もう希望が潰えかけていて、放心状態に近かった。ナマエの声は掠れている。いくらユーリに胸の内を明かして安堵したところで弟が戻って来るわけではない。安堵は、すぐ向こう側に淀む絶望に塗りつぶされていった。顔を覆って泣きじゃくりたかったが、これ以上みっともない姿をユーリに見せまいとナマエは堪える。

「でも、弟を助けないと……。だってあの子は間違っていないもの、小さいのに、牢屋だなんて……」
「下手すると、何日も飲まず食わずの可能性もあるってことか。なんてったって貴族サマのお家だからな」
「私もそう考えてしまって、もう、どうしたらいいか判らなくって……。下手に下町の皆に知れて心配をかけさせたくないの。絶対にここの人たちは身を切ってでも何とかしよう、って言ってくれるから……。でも、相手が相手でしょ。皆にまで何かあったら――」
「過去に散々あったんだから今更何かあっても気にしねえっての」

 ユーリの声音は明らかな怒りを孕んでいた。じっとナマエを見据えて、咎めるような口調で続ける。

「言えよ。ここじゃ助け合うのが当然なんだよ。無駄な気ぃ回すんじゃねえ」
「そ、そんな……」
「けどな。おまえの気持ちも判らなくはない」

 不意にユーリは破顔した。子供っぽい無邪気さを秘めた笑み。右手をぽんっとナマエの頭に置くと、彼は深く頷いてみせた。

「おまえが言いたくないって意志を出来る限り尊重してやるよ。ここはいっちょユーリ様に任しとけ」
「え?」
「最高の助っ人がいる」

 とびっきりのイタズラを思いついたようなユーリの笑顔と言葉が、気紛れなどではない確かな自信を持ったものであることが伝わる。
 だから尚更、ナマエは困惑した……。


◆◆◆


 翌日、ナマエは再びあの貴族の屋敷を訪れていた。
 そして目の前の光景に呆然とした。
 ――あの貴族が、頭を下げている。自分たちに向けて。
 正しくは、ナマエの前に立つ二人へ向けてだろう。

「子は親の背中を見て育つんです。あなたの子供は自らの不注意でご老人に迷惑をかけました」
「エステリーゼ様の仰る通りです」
「挙句、勇気をもって訴え出た子供にひどい仕打ちを……わたしは、悲しいです」
「エステリーゼ様に心から同意いたします」

 何故かユーリの仲間である次期皇帝候補の皇女・エステリーゼと、ユーリとは旧知の仲かつ現騎士団を率いる人物・フレンの組み合わせ。これにはナマエも目を剥いた。思わず頭を下げかけて、ユーリに「おまえは良いんだよ」と止められる始末だ。

「ユーリの人脈が怖い……」
「オレが忍び込んで救出するってのも考えたけどな、ここは正攻法だろ」

 腕を組んだユーリは、皇女と騎士に絞られる貴族を見て笑っている。

「忍び込んだりしたらおまえらにまた突っかかって来るかもしんねぇし。要求通り金恵んでやればつけあがるに決まってるし。もうこれでいっか、ってな」
「これでいっか、って……」
「とくにウチの皇女様は、こういう話を聞いちまうと放っておけないんでね」

 どうりで先程から、熱心に貴族へ説教をしている訳だ。ナマエはエステリーゼの後ろ姿を見つめて感心してしまった。初めて会った時は花の妖精か何かと勘違いしてしまったほど穏やかで愛らしい女性が、こうも変わるものなのだろうか。自ら貴族を説き伏せる強い意志。怒り任せではなく、誰もを思いやって言葉を選ぶさま。まさしくこうあるべきという指導者らしい皇女のそれだ。童話で見た清純で凛としたお姫様のイメージそのままの姿が、そこにいた。
 フレンがついて来たのは“念のため”ということらしい。彼の部下がナマエの弟を迅速に救助し、近くの診療所へと連れて行ってくれた。幸いにも食事は与えられていたようで、それほど衰弱していなかった。

「ユーリたちにはもう、何てお礼を言ったらいいのか……」
「まあ、気にすんなって。とりあえず後はあいつらに任せて、弟さんの顔見に行こうぜ」

 ひらひらと手を振りながら、ユーリが踵を返す。ナマエはフレンたちを見た。まだまだ説教は続きそうだ。……少し考えて、彼女はユーリの後を追いかけた。

「――にしても、よく一人で頑張ってたな」
「えっ?」

 診療所へ向かう道の途中、ふとユーリが口にした言葉にナマエは瞬きした。
 いまいちピンときていないらしい彼女を見て、ユーリは改めて告げる。

「誰にも頼んねーでよく今まで耐えてたな、って。おまえが諦めないで通ったおかげで、弟も助かったようなもんだろ」
「ううん。ユーリたちのお陰だよ」
「いや、間違いなくおまえが毎日貴族んとこに通ってたのは意味がある」

 俯くナマエの頭をわしわし撫でながら、ユーリは断言した。
 酷く安心して心地よいものだから、ナマエはユーリに大人しく頭を撫でられていた。緊張の糸がいつ切れて倒れるか判らないぐらい、優しくて暖かい。

「おまえが何日も家に来てるのを、例の貴族の息子が見てたらしい。それで、おまえの弟にこっそり食べ物を運んでたんだと。もう出してあげてくれって親に頼んだけど、根も葉もない噂を信じ切ってて聞いてくれない。相当後悔してたとこにオレがエステルたち連れてって解放したら、安心したみてーにワッと泣き出してたぜ」
「そうだったんだ……」

 ナマエは、貴族の子供に対して少なからず憎しみを抱いていた。それをひっそりと悔やんだ。少年も少年で、自身の行為を悔やんでいたのだ。いつまでたっても捕らえた子供を出さない自身の親、その親に何度も頭を下げるナマエを見て、少年もまた強い不安を募らせ、戦っていたのだろう。だから食事を差し入れて、死なないようにと行動してくれていた。
 弟を追い詰めた原因でありながら、生かしてくれた要因でもあるその子へ。ごめんなさい、ありがとう、と、ナマエは心の中で呟いた。
 弟は優しい子だ。起きたらうんと抱きしめて、事情を伝えよう。あなたの気持ちは少なからず、あの子供に伝わっていたんだよ、と。

「……まあ、あれだ」

 安堵に涙を滲ませているナマエへ、ユーリは呟く。

「おまえが弟のためにしてたことは、何一つ無駄じゃなかったってこった。だからこれは、おまえ自身が解決したも同然なんだよ」
「励ましてくれてるんだね」
「いや、ありのままの事実だから言っといただけ」

 おまえは無駄に控えめだからなぁ、とはぐらかされたものの、励ましを受けたのは明白だ。
 ナマエは満面の笑みで、ユーリを見つめた。

「本当にありがとう、ユーリ」

 ユーリは肩を竦めて笑うだけ。照れているのか流しているのか、どちらにせよ構わない。
 そんなナマエに、ユーリは「そーだ」とわざとらしく目を丸めた。ナマエの頭から離した手と手をパンと打ち合わせ、

「そういや今回のお代いただかねーとな」
「……おだい?」
「そ、お代。オレ、今ギルドやってんの」

 思わぬ発言にナマエは呆然とした。ギルド。まさか知らぬ間に彼がそこまで突き進んでいたなんて思いもしなかった。
 ――というか、払うお金が無い!
 途端に青褪めるナマエを他所に、指折り数えながらユーリは計算を始める。

「まず皇女、護衛の騎士みたいなもんのフレン、あと救出を手伝った騎士のぶんとオレのギルドへの手間賃だろ。それから、おまえの弟の運ばれた診療所への診察やら入院の費用。ああ、おまえが貴族からふんだくられた金を取り戻してやんないとな。まあ、諸々を足して割り引いてサービスして……」

 不安げなナマエの瞳を見つめ、ユーリはニッと歯を見せて笑った。

「オレとデート一回、ってとこでどうだ」

 真っ青だったナマエの顔は、急激に熟れたトマトのように真っ赤に染まり、ついでに緊張の糸が切れた彼女は盛大に足をもつれさせ、挫いた。
 ……負傷したナマエは、ユーリに抱きかかえられながら、「おまえの搬送代ももらわなきゃだな」と付け足されるのを聞いていた。
 何とか全ては丸く収まった。そして同時に、下町の仲間へ特別な感情を花開かせてしまったナマエ。
 今後は、弟の心配だけでなく、奔放なユーリへの想いに悩むことになるのが目に見えていた。
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