愛しい嘘の吐き方と、優しい騙され方
 カナエ、とナマエが呼ぶ。カナエは正直ナマエの顔を見たくも無かった。しかし主人から『僕がいない間、彼女のことは頼んだよ』と仰せつかっている。
 ――習さまに愛された憎き女。
 ――鳥籠の中の“白鳩”。
 ――どうしてよりにもよって習さまは……。
 苛立つカナエに、ナマエは遠慮なしに声を掛ける。

「カナエ。さっきから呼んでいるのだが」
「……何の用だ」
「君の顔が見たくなった」

 ようやく振り返ったカナエに対して、ナマエはそう言ってのけた。ナマエはちっともふざけたつもりは無かったが、カナエにとっては馬鹿にされた気分だった。ただでさえ嫌な相手から、人間ごときから、侮辱されている思いがした。だがここでナマエを罵倒すれば、慕う主人の審美眼や価値観、ありとあらゆるものを傷つけ泥を塗りたくるのと同然だ。
 しかめっ面で沈黙するカナエに、ナマエは勝手に話し続けた。

「ここに捕まってから、誰もが私を箱の中に飾られた脆い標本のような触れ方をする。カナエ、君のように嫌悪感丸出しに睨んでくれる相手の方が私はずっと嬉しいんだ。だから私は正直、月山習といるより君といたい」
「貴様を喜ばせているとはこれ以上ない侮辱だ。そして私を苛立たせてくれるな。必死に抑えている殺意が堪え切れなくなる」
「殺された方が気が楽だが、そんなことになっては君があの男に何をされるか判らないか……。私のせいで君に何かあっては申し訳ない」

 カナエの胸中は荒れに荒れていた。自分が一番羨むものを与えられている眼前の女に対する激しい悪意は、この世にある言葉で到底表現しきれるものではなかった。
 そこに、救いの使者が現れる。カナエにとって光そのものの主人・月山習だった。

「やあカナエ! My sweetieと今日も美しいハミングを交わしていたのかい」
「習さま……!」
「ナマエはかなりの天邪鬼だからね、流石のカナエもたじたじといったところかな。だがとてもイイよ。ナマエはね、君と話している時が一番美しいんだ。僕の心を捉えた頃のあの美しさを放つんだよ。嗚呼……羨ましいよ、カナエ」
「そ、そんな、恐れ多い……。私は……」

 激情を押さえることに必死だったカナエはろくに返事をすることすらままならなかった。だが確かに安堵していた。習さまが戻ったのであれば自分の今日の役目は終わり。少なくともナマエの世話からは解放される。身を焼くような嫉妬と憎悪の炎に耐える苦行に一区切りつく。「失礼いたします」慌ただしく部屋を出て行くカナエを、「カナエらしくもない」と呑気に習は呟いた。
 それを見て、ナマエは鼻を鳴らす。

「ニンゲンはともかく、同じ“喰種”かつ身内の心中すら察していないのか、お前は。あの子が可哀想じゃないか」
「何を言うんだい。僕は心から月山家の皆を案じ、愛し、その心を察している」
「察したうえであんな悪趣味な態度をとるならば相当のものだな」
「悪趣味なのは君が言えた義理ではないよ」

 否定しないのか。ますますナマエは呆れた。
 この場所へ攫われ、捕らわれてから、随分と経った。相も変わらず習はナマエに愛を囁き拘束を続け、接触を求める。そうすればナマエの大切な“姉さん”は守られる。だからナマエは、人形のように、すっかり壊れて中身の抜けた心を投げ出して月山習の好きなようにさせた。憎まれ口や皮肉を叩くのは上辺だけ、そして今までの人生で培った脊髄反射のようなもので、非生産的な行いだった。
 そんなナマエを“面白みに欠けて来た”と感じた習は、信頼のおける使用人である血縁のひとり、カナエを呼び、ナマエと接触するように頼んだ。このセレクトと発想は大成功だった。以前ほどではないにしろ、カナエとの交流の直後のナマエには鮮やかな覇気が蘇る。それを奪っておきながらまた見たいと身勝手に願った。しかし気高く選ばれた血筋の己には、その身勝手すら許されるのだという確信がある。
 ――人間にとって、女性にとって、僕に愛される以上に名誉あることなどこの世にないのだから。

「新しいドレスを仕立ててみようと思うんだ。君の為に。知り合いのデザイナーに幾つか描いてもらったんだが、見てくれるかな」

 デザイン画の束を見せつけられるなり、ナマエが眉を顰めた。

「そんなもの要らん。服をくれるならばワイシャツとジーンズで良い」
「色気が無いな。いいや、ある種の色気を引き立てる装いではあるけれど……月山家の者としての気品に欠ける」
「知るか」

 ナマエが習に向かって、近場のクッションを掴んで投げる。華麗に横にスライドしてそれを避けた彼は、フフンと笑って肩を竦めた。ドレスのデザインを選んでもらうのは後にしよう。そう決めて、側の机の上に紙束を置いた。

「子供っぽいその反抗も愛おしさを掻き立てるだけだよ、ナマエ」
「ならば遠慮なく喰らっておけばいいだろう。私の愛情表現だ」
「ノンノン。そんなスマートな真似は許されない。僕は月山習だからね」

 呆れたナマエがソファーに深く埋もれるように体を預け、嘆息した。もう返す言葉も出てこないらしい。
 その隣に習は腰を下ろした。
 捕らえてきたころから手入れはすれど鋏を入れたことは無い彼女の髪は、随分と長く伸びていた。上質なシルクのような手触りを堪能しながら、溢れかけた生唾を飲み下し、習は目を細める。

「うん、やはりこの方が君らしい」
「私は髪を切りたいんだがな」

 邪魔くさいんだ、とナマエは呟く。さりげなく自分の髪を弄ってくる相手の手を払うことも忘れない。
 だが――。真戸ナマエの本音と本質を、習は見通している。
 双子でありながら姉とは大きな差を持つ彼女は、その形だけでも姉に近づけようと必死なのだ。十分に似通った見た目だというのに、それではまだ足らない。
 完璧な写しとなることを、彼女は願っていた。叶わぬ願いだとしても。
 立ち上がったナマエが歩くたび、紺色のワンピースの裾が揺れた。僅かに空気を孕んで膨らむ様からどれほど柔らかな素材かがうかがえる。
 こんなふうにナマエの“習から一定の距離を置きたい”という心境が露骨に現れるのは、今に始まったことではない。
 ナマエが活発になるのは、今でもやはり肉親のことばかり。

“姉さんを見かけたか? ……男といた? 姉さんの上司か、なるほど”
“姉さんは元気なのか? そうか、ならいいんだ”
“そうか、やっぱり姉さんは姉さんだ。よかった。無事で”
“父さんも母さんもきっと、天国で姉さんを応援してくれているんだ”

 こまめに習に姉の様子を訊ねては、その無事を確かめて胸を撫で下ろす。ナマエにとっていまだに姉の存在は大きく、希望であった。姉が生きている。ならば私も生きていける。生きることを“許される”のだと思えた。
 人形のように習に触れられているときにも、たまに自我が戻ってきて黒いものが溢れてきそうになっても、生きている姉のことを思えば何てことは無かった。
 ――私はアキラ姉さんの重荷であってはならない。
 ――そのためにも、この男の手のなかで生きて行かなくてはならない。
 ナマエはふと思った。世間は自分の存在をどう処理しているのだろう。上官の死体は間違いなく見つかっているはずだ。だとしたら私も死んだことになっているのか。死体すら残さず食われてしまった、とでも。
 ――母さんみたいに、食われた、なんて。
 ――姉さんはきっと傷ついた。
 ――ごめんなさい、姉さん。
 重くて暗い蓋が胸を塞ぐ。思考に鉛の重りが括りつけられる。しかしその奥底で何処か、別のところでつかえていたものが無くなった気がするのも――……。

「ナマエ」

 ――ナマエが我に返ると、鋭い習の眼光が突き刺さった。

「君はまた自身を卑下し、姉のことばかり考えていたね」
「……仕方ないだろう。姉さんが私の人生のすべてなんだ」
「すべてだった、と言えるようになるまで僕は諦めない」

 足を組み、深くソファーに腰掛ける習の姿は、数ある“喰種”のなかでも大きく繁栄した一族の血ならではの威厳と威圧感に満ちていた。表情を覆うマスクのようにあてがわれたその右手の指の隙間から覗く瞳は、ナマエを中心に捉えたまま少しも動かない。

「酷なことを言うようだけれど……ああ勿論、君を想っているからこそだよ? だからこそ、はっきりと言わせてもらおう」

 右手でナマエを指差しながら、習は笑った。

「君は真戸暁の写しにはなれない。君は真戸ナマエでしかない。捕らわれ固執したその思考と生き様では、遅かれ早かれ君は姉のお荷物になっていた。僕のものとなったのは賢明な判断だよ」

 彼女は顔を真っ赤にした。淡白だった表情がみるみるうちに歪み、険しくなっていく。
 一番触れられたくないものを鷲掴みにされ、引きずり出された。ナマエがいまだ抱え捨てきれずにいる劣等感と自虐心を、習の言葉は酷く的確に射抜いた。

「そんなこと! 貴様に言われずとも、私が一番判っているッ!!」

 ガシャン、と派手な音がした。ナマエが力いっぱいテーブルを殴った衝撃で、置かれていたティーカップたちが跳ねた。何度もテーブルを殴りつけ、食器が床に落ちて割れていくのも構わず、彼女は叫んだ。

「一度でも、一瞬でも、お前に“真戸暁の妹”ではなく“真戸ナマエ”を求められた時から! いや、その前からずっと……私は!!」

 叫ぶたびに殴られ、テーブルは揺さぶられ、載せられていたものは全て落ちてしまった。
 ……俯き、ナマエが肩で息をしている。握り締めた両手は何度も固いテーブルに打ち付けたために真っ赤になっていた。皮が剥け、血がにじんでいる部分もあるではないか。
 習は嘆息した。ソファーから腰を上げ、肩を竦めながら愛しいヒトへと歩み寄る。

「全く、お転婆さんだ……」

 恭しく片膝を折って、ナマエの手を取る。傍から見れば童話の姫と王子の睦まじいワンシーンに似ていたが、二人を繋ぎ、この部屋を満たす空気にそんな生易しい甘さは存在しない。
 ナマエの手の傷から滴り落ちかけた血をべろりと舐めあげ、習が呟く。

「癇癪を起こして物を壊すのは構わないが、君が傷つくことは決して許さないよ」

 ナマエが小さく声を漏らした。傷を刺激された痛みに対するものか、習の激情に対してなのか。
 どちらでもいい。習はその声を聞けるだけで、己が昂っていくのを感じていた。
 脆さの際立つ呻き。本当のナマエの姿。弱くて脆くてどうしようもないニンゲン。いとしい愛しいナマエ。

「この美しい肌をどうするのかも、君ではなく僕に決定権があるのだから。良いね?」

 ナマエは頷かなかった。ただ目を伏せ、陰気臭い顔をして習に手を掴まれている。
 仕方ない、と習は立ち上がると、一瞬で彼女を抱き上げた。突然体が浮いて、習の腕に完全に支配され、ナマエは目を剥いた。

「何をする、下ろせ……!」
「僕との約束を守ってくれるならば考えよう」

 一般女性よりは筋肉質だったはずのナマエ。ここに捕らわれてからは必要最低限の行動しか許されなくなった彼女の筋肉は瞬く間に削げ落ちた。代わりに脂肪をもっとつけさせようと思ったが、どんな食事を持ってきてもナマエはなかなか平らげることが出来なかった。ナマエの好みは丹念に調査し、把握済みだと言うのに。食が細いどころか、捜査官としての体を鍛えるために多く食事を摂っていたはずなのに。だからといって運動させる気もしない。我ながら我儘な願いだと思いつつ、習は密かに悩んでいた。
 ――今度の食事は、もう少し辛めのカレーを用意してあげよう。
 習はしっかりナマエを抱きかかえ直し、ベッドへと向かう。それに気付いたナマエの抵抗が強くなった。必死にもがいて腕や足をばたつかせ始める。だが筋力の衰えたナマエの抵抗など、痛くも痒くもない。

「もう一度言うよ。君の体も心もどうするかは僕に決定権がある。こんな怪我はもうこれっきりにしてくれるかい」
「うるさい、私の体は私のものだ……!」
「ならばその体に直接叩き込むしかなくなる。多少荒っぽくても文句は言わせないよ」

 ベッドにナマエの体を放り、その上に覆いかぶさって習は最後の忠告をした。

「約束……できるね?」

 そうでなければ、もう我慢してあげないよ。
 ……相手の意をようやく汲み取ったナマエが、青白い顔で頷いた。可哀想なほどに震えながら、何度も、何度も。

「判った……。もうしない。傷つけない……」

 ナマエは両手で顔を覆った。その隙間から光る透明なものが伝っていくのに習は気付く。
 彼女は泣いていた。
 厳しく叱られた子供のようにぐずって、泣きじゃくっていた。

「わたしの……ねえ、さんっ、姉さんだけが……っ、私の、わたしの生き甲斐なの……、姉さんを、おもうことを、ずっと、やめられないん、だ……。ずっと、ねえさん、すきだから……、家族だから……」

 どうやら癇癪を起こして自分を傷つけたのは初めてではないようだ。
 もしかすると、彼女は今までにもこんな風に自身の能力不足や不安定さにもがいて、双子の姉にでも抑えられてきたのだろうか。繰り返される「ねえさん」「ごめんなさい」「すき」という言葉たち。
 幼児に還ったかのようにあどけなく痛々しい姿を見て、習は思わずナマエを抱きしめた。大人しく抱かれるナマエの髪に頬を寄せ、その背中を優しく撫でてやる。

「ああ、僕の言い方が少し厳し過ぎたんだね。愛しいナマエ。許しておくれ。家族を想う尊い気持ちを理解していない訳ではないんだよ。ただ君の想い方では、君自身が壊れてしまうから。その形を上手く変えられるように祈っているだけなんだよ。本当さ。だからそんなに泣かないでおくれ、meine Liebe」

 力のまま抱きしめてしまえば、ナマエは砕けてしまうだろう。出来る限り強く抱きしめて励ましてやりたいのに、きっと加減が上手くいかない。出来る限り優しく、彼女を包む存在に徹するしかない。
 気ままにナマエを傷つけたり弄んだりしているが、全ては“愛”ゆえの行動、行為。
 様々なナマエの姿を、自分だけの心と記憶に閉じ込めて愛でるため。
 だから時には不安定なナマエが本当の“限界”へ触れてしまったならば、この身を尽くして引き戻し、癒す。
 ――月山習は、間違いなく真戸ナマエを愛している。

「そうだ、君がどうしようもなく苛立った時は、僕にまたクッションを投げつけるといい。松前たちに相談して、運動する時間を幾らか作ろう。君の体に相応しくない量の筋肉がつくのは避けたいから、細心の注意を払って計画しよう。それから、そうだな……」
「……もう、良い」
「ん?」

 いつの間にか泣き止んだナマエが顔を上げていた。両手を習の胸に押し付けてきている。だが突き放す為、というより、寄り添う為、といった緩い押し加減だ。真っ赤な目で、ナマエは習を見つめている。

「……私がおかしいだけだ。だから、もう良い。すまない」
「もう僕の抱擁は要らないと?」
「ああ、十分だ。だが……そうだな」

 習を押し退けようとも、その腕から逃れようともしない。すっかり落ち着いたナマエは、この状況を受け入れたようだ。また一歩、習に心を許した印である。
 ぽんと習の胸を叩いて、ナマエは言った。

「運動の時間は欲しい。あとカレーは好きだが、今出してくれているものより5倍は辛くしてくれ」

 気さくなナマエの声音と表情に、習は目を見開く。
 ――共にベッドに横たわっている時に彼女が笑ってくれたのは、この瞬間が初めてだった。

「……ああ。シェフに伝えておこう」

 調子に乗って彼女の額にキスを落としてみる。すぐにナマエは「気障なヤツめ」と毒づいてきた。ついでに、今までのやりとりも何もかもが気障ったい、いちいちくどい、と駄目出しをする始末。
 しかし、一向に習の腕から逃れようとする気配は無かった。
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