あわただしい純情
 ナマエには幼い頃から「危機感を持て」と言い聞かせて来た。
 だがその効果はあまりなかったらしい――、瓜江は数年経った今になって思い知らされた。
 微笑むナマエの隣に立つ無表情の半井の姿。高い木の枝に止まってじっと動かない鳥のようだ。休んでいるようでそうではない。獲物が目の前に来れば容赦なく嘴と爪を突き立てて息の根を止める鋭さを秘めた、油断ならない気迫がある。その気迫はどうしてかすぐ隣のナマエのことだけは上手く避けているようで、彼女は全く気付いていない。
 チッ、と瓜江は舌打ちをした。半井が僅かに眉を動かした。やはりナマエは気付かない。

「瓜江くーん! こっちこっちー!」

 無意識のうちに歩みを遅らせてしまった瓜江に向かって、ナマエは手を振っている。
 そんなナマエを見た隣の半井も、胸の前まで掲げた右手を微かに振ってみせた。無表情を越えて無機質な表情は変わらない。
 そもそも、今日瓜江がナマエを誘ったのは、ナマエとあの男……半井との仲を危惧してのことだった。幼い頃より自分と想いを通わせ合ったナマエと相手が何時どうして知り合ったのかは不明だが、二人の仲は急速に進展していた。ナマエにとっては気の合う男友達なのかもしれない。だが瓜江は、半井がそれ以上の感情を彼女へ抱いていることに気付いている。
 ――俺のナマエに近づくな。
 心の中で悪態をつきながら、瓜江は遠い昔、ナマエと交わした約束を思い返していた。

『ねえ、おっきくなったら、わたし、うりえくんのおよめさんになりたい』
『……わかった』
『やくそく、だからね』

 その時、互いの小指を絡めて誓った想いに偽りはなく、今も日毎に増している。最近「ようやく結婚できる歳になったけど、もう少し仕事に慣れてからじゃないとダメかなぁ」などとナマエが寂しげに呟いたのを聞いたときには、自分のためにも、彼女を嫁として迎えるためにも、早く昇進して確固たる地位を築かねばと再度決意を固めたほどだ。
 ――だというのに、最近のナマエは俺以外の男に無警戒過ぎる。
 ナマエと半井の元へ辿り着いた瓜江は、開口一番こう言った。

「ナマエ。どうして一人じゃないんだ」
「たまたま半井さんと近くで会ってね、私に“一人で待ってるのは危ないから”って一緒にいてくれたの」
「そうか。じゃあ――」

 もう用は済んだな、と半井を帰そうと瓜江が言いかけた時、

「そのお礼も兼ねて半井さんにも一緒に来てもらえたらって思うんだけれど」

 と、ナマエが言ってのけた。
 目が点になった瓜江を見て、僅かに半井が目を細める。瓜江の眉間に皺が寄る。
 瓜江と半井は、不思議なほど互いの感情や思惑が手に取るように判っていた。女性の好みだけではなく思考まで似通っているんだろうか。いや、そんなことあってたまるか。淡白な表情の裏で熱く敵対心を燃やす瓜江と半井の攻防に、やはりどうしてもマイペースな少女は気付くことが出来なかった。
 ナマエの言葉に、半井は少しばかり申し訳なさげに返す。

「ナマエさんたちの邪魔にならないならば、喜んで」
「大丈夫です。ご飯食べてちょっとブラブラするだけだから。半井さんこそ予定とか無いですか?」
「用事があればここにはいません」
「あ、そうですよね」

 瓜江の不機嫌さは増す。彼氏である人間が――そういう関係でいようと口にしてはいなくても、婚約者であるからには恋人同然だと思う――なぜ彼女と他の男の会話をただ聞くしかないのか。なぜ自分だけ蚊帳の外のまま、話が“三人で行動する”という流れに入っているのか……。

「ナマエ。お前が無理に誘うから半井さんが気を遣ってるんじゃないか」
「えっ、あ……。ご、ごめんなさい」
「全くそんなことは無いのでお気になさらず、ナマエさん。それと瓜江“くん”」

 一矢報いるつもりが即答された。予測してはいたが、だからといって苛立ちが緩和されるわけではない。
 ――気安く呼ぶな。ナマエのことも俺のことも!
 ナマエの手前、文句をありのままぶつけることは叶わず、結局奇妙な三人組で早めのランチとしゃれこむ羽目になってしまったのだった……。


◆◆◆


 何がどうしてナマエに惹かれたのか。そんなことはもうとっくの昔に忘れた。今の半井の心には彼女を好きだと言う揺るぎない事実があるのみで、その彼女に幼い頃結婚を約束した恋人らしき存在がいるということも関係無かった。
 だが、ナマエが“婚約者”との関係を無防備な笑みと共に語ってくれた時は、顔にこそ出さなかったが大いに瓜江という青年に嫉妬した。幼い頃の約束を、何年も経過した今でも互いに覚えているだなんて、王道ドラマの筋書きか何かか。純朴なナマエらしいといえばらしいが……。
 ひとり胸中で愚痴を溢しつつ空を見上げる。空を舞うカラスの姿が見えた。

「あ、カラスだー」

 ナマエも気付いたらしい。悠々と飛び回るカラスに目を凝らしている。

「黒くてつやつやでおっきいですねー。半井さん、あのカラスって種類あるんですか?」

 以前半井が明かした、鳥類の観察が趣味だと言うことを彼女は覚えていたらしい。少しばかり嬉しくなった半井は、小さく頷いて説明する。

「あれはハシブトガラスです。出っ張った額と、その名の通り太い嘴が特徴ですね」
「ハシボソガラスもいるってことですか……?」
「いますよ。都心ではあまり見かけないですが。ハシブトガラスより小柄で、生息域が重なるとハシブトガラスに負けてしまったり……」

 半井の解説に、瞳を輝かせて聞き入るナマエ。その隣で無言に徹する瓜江。とりあえずナマエが楽しんでいるうちは文句を言わないつもりだろう、と半井は推察した。

「……という感じです。聞いていてあまり面白いものでは無かったかもしれませんが」
「いえいえ、面白かったですよ! カラスはみんなカラスだとばかり思ってたので!」
「ナマエが昔から描いていたカラスの絵はハシボソガラスだったな」
「あ、確かにクチバシ細くしてたなぁ。こう、シュッとした方がカラスっぽくて」

 まさかの瓜江の横やりで、すっかりナマエの思考がそちらに傾いでしまった。半井に感謝の笑みを向けた次の瞬間には、瓜江との思い出話に移っていた。二人が昔からどんな絵を描き合っていただとか、瓜江の画力は素晴らしいだとか、どんどん半井には手の届かない方向へと突き進んでいく。流石に居心地が悪い。虫の居所も。
 しかし途中でナマエが我に返ってくれた。

「ご、ごめんなさい。半井さん。うっかり昔話してしまって……」

 しょんぼり項垂れるナマエを見た途端、半井の不機嫌は吹き飛んで行った。あまり浮かべたことの無い微笑と言うものをしてみながら、半井はナマエの頭をポンと撫でた。人の頭を撫でるのは初めてだった。つい手が自然とそう動いていた。無論、後悔はない。

「お気になさらず。ナマエさんの幼少期に興味がありますし、さぞかし可愛かったのだろうと楽しい想像を巡らせることが出来るので」

 半井自身が無意識に行っていたことを、ナマエが予期できる筈も無かった。彼女は恥ずかしそうに「そ、そうですか……」とぼそぼそ呟いて赤い顔を逸らした。それを見た瓜江の眉がピクリと動いたのを半井は見た。
 ――判り易い。
 ナマエの他者に対する信頼感とそれゆえの警戒心の無さ。恋人にとっては厄介な代物だろう。だが、恋人ならばその欠点も含めて対処法を練っておくべきだ。少なくとも、自分ならばそうする。

「あ、あの、半井さん。半井さんの方が年上で偉いんですから、さん付けなんて要らないですよ……」
「了解しました。ではこれからはナマエで」
「は、はい、どうぞです」

 俯きがちのナマエには見えていない。だが、半井は瓜江のしかめっ面を確かに見た。よりにもよって目の前で距離を詰めていくだなんて、相当腹に据えかねているはず。それが狙いでもある。
 自分が彼女を好いており、諦めるつもりは毛頭ないという“宣戦布告”だ。
 瓜江が無言でナマエの腕を引っ張る。「う、瓜江くん?」戸惑うナマエに、瓜江は告げる。

「久生でいい(いつものようにな)」
「でも、外では……」
「気にするな、俺が良いと言っている(これ以上ヤツに図に乗られては困るんだ)」
「わかった……」

 青少年らしい対抗心に危機感を覚えることは無い。何とも言えない微笑ましさを感じて、半井は胸中でひっそりと笑んだ。この調子ならば距離はあっという間に詰めることができそうだ。
 食事を終えた三人が目指すのはショッピングモール。ナマエの希望だった。新しい服を買いたいのだと言う。そんな場に同行できる幸福を噛み締めながら、半井は瓜江と無言のにらみ合いを続けつつ歩いた。


◆◆◆


 ――すっかり油断した。ナマエは項垂れていた。
 あの店、次はその店、とどんどん夢中になって巡るうちに勢いが止まらなくなり、いつの間にか瓜江と半井からはぐれてしまっていた。携帯電話に瓜江からの連絡が入っているのに今しがた気付いた。30分も前のものだ。謝罪と共に今自分がいる場所を伝えると、「今から行くから動くな」と返って来た。

「本当にごめんなさい、っと……」

 メールを送信し終えると、近くの休憩スペースへ入り、椅子へ座った。
 小さな子供連れの家族客を眺めて、良いなあ、とぼんやり思う。何時か自分もあんな風に家族をもてるだろうか。こんな仕事をしているとその勇気が出てこない。喰種捜査官になったことを誇りに思うが、同時に怖くもあった。きっとそれは皆同じ。仕方ないことなのだ。
 他愛ない物思いから、ナマエはハッと我に返る。

「あっ、半井さんにどう連絡したらいいだろう……」

 今まで親しくしてもらってはいるが、連絡先を交換していない。探しに行くべきかと思ったが、瓜江に“動くな”と指示が出されている。思わず頭を抱えた。自分の間抜けぶりが恨めしい。

「――ナマエ」

 急な呼び声に、ナマエの体は跳ねた。「え、えっ!?」慌てて辺りを見渡し、ようやく彼女は声の主を見つけた。半井である。
 ふう、と溜息を吐いて半井は溢す。

「探しました」
「す、すみません。つい夢中になって次々と店を巡ってしまいました……」
「夢中だった割にはあまり買っていないようですが」

 ぺこぺこと頭を下げるナマエの傍らに小さな買い物袋ひとつしかないのを見て、半井は首を傾げた。
 ああ、とナマエは苦笑しながら答える。

「服、見て回るのが好きなんです。散々見て回って、でも買うのは1着か、買わないことも多くて」
「そんなに経済的に厳しいんですか?」
「貯金と仕送りをしているので、あまり自由に使えるお金は確保できてないですね……はは」

 笑い話のつもりでナマエは言ったが、半井の表情は全く変わらない。何処か悩んでいるふうにも感じられた。そのせいでナマエもどんどん悩み、困ってきてしまう。
 ナマエはもう一度、深々と頭を下げた。

「ほ、本当に勝手に歩き回ってすみませんでした」
「いえ。無事に見つかったので良かったです」

 捜査官二人をまくのはある意味才能ですよ、と半井が言い添える。その声音にナマエを怒る響きは一切なく、寧ろ優しさが滲んでいる気がして、ナマエの心はようやく緊張を解くことができた。
 ナマエの隣に腰を下ろした半井が、じっとナマエを見る。

「瓜江くんとはここで落ち合う予定で?」
「はい。さっき連絡を取りました。半井さんの連絡先を聞いてなかったのでどうしようと悩んでいたところで……」
「つまりナマエは、私と連絡先を交換したいということで良いのでしょうか」

 半井の真剣な眼差しにやや気圧されながらも、控えめに頷いて返す。すると半井は早速携帯電話を取り出した。

「私も連絡先を交換しておけばよかったと後悔していたので、丁度良かった」

 僅かに微笑まれた気がして、ナマエの心臓は不謹慎にも高鳴ってしまう。
 半井に促されるままに連絡先を登録し合い、携帯電話をしまった。後は瓜江と合流するのみだ。彼のことだから然程時間を掛けずにここまでやって来るだろう。それまでほんの少しの間、半井と二人きり。

「勿体ない」
「え?」
「折角ナマエと二人きりになれたのに、もうすぐこの時間が終わることが勿体ない、と。そういう意味です」

 どういう意味、ですか。
 聞こうにも言葉が喉でつかえて出てこない。代わりに体温が上昇して、脳が混乱しているのが判る。ナマエは半井と目を合わせたまま、動けなくなってしまった。

「私が何の考えも無しにあなたと瓜江のデートに同行したと思ってるんですか」
「で、デート……」
「デートでしょう。なにせお二人は“結婚を約束した仲”なんですから」
「で、でも、その、告白とかしてなくて、彼氏とか彼女とか、そういうくくりは意識してこなかったというか……。確かに久生くんと結婚を、って思ってますけど……」

 たどたどしいナマエの返答に、半井の目が少しばかり細められた。

「そんな隙を見せるからますます良くない。間違いなく瓜江はあなたを恋人として認識していて、私に敵意を持っている。仲を邪魔する相手だと思っているんです」
「いや、えっと、その……」

 叱られているのか、諭されているのか。よく判らないが居心地がよくないのは確かだ。申し訳なさと恥ずかしさでろくに堪えられず、半井の濁りの無い真っ直ぐな目に射抜かれたまま、ただただナマエは困惑していた。動揺していた。
 半井がナマエの右手を掴んだ。羽毛が触れるような優しさとほのかなぬくもりに、ナマエはますます戸惑う。いつの間にか半井が瓜江を呼び捨てにしていることを指摘することすらできやしない。

「皆までは言いません。いつ瓜江が来るともしれないこの状況ですから」
「は、はい……」
「でもこれで判ったでしょう」

 半井が、確かに微笑んでみせる。

「その“隙”があるうちも、瓜江との関係が確定的なものにならないうちも、私はあなたを見つめ、追い続けると」

 ――真摯な言葉と瞳に、ナマエの心は大いに揺さぶられた。
 半井はそれを察したのか、もう一度微笑むと握っていた手を離した。それからはいつもの表情に乏しい彼通りの姿になる。その差が、ナマエの動揺を長引かせていた。
 ――どういうことか、何となく判ったけれど、でも。
 ナマエが赤い顔を両手で覆っていると、「ナマエ!」と馴染みある声が鼓膜を突いた。ただ、何時もより切羽詰まっている。

「久生くん……」

 彼の顔を見て、ナマエは幾ばくか落ち着きを取り戻した。同時に、彼女は痛感する。
 ――久生くんと半井さんって、どこか似てる。
 あまり感情を表に出さないところも、人を一歩遠くから観察しているようなところも、時折見せる“素”の姿と心の在り方も。だから私は久生くんが好きで、半井さんとも居心地が良く感じているんだ、と。
 ナマエのまだ僅かに赤らんでいる頬を見て、瓜江は半井を睨んだ。半井は涼しい顔でその眼光を受け流している。

「ナマエ。店を勝手に移動するな。これ以上俺に心配させるな(それから他の男と一緒にいるな)」
「ごめんね、久生くん。以後気を付けます……」
「瓜江くん、無事に合流出来たんだからいいじゃないですか」
(全然良くない……!)

 火花を散らす二人に挟まれながら、ナマエは胸を押さえ続けていた。
 もっとしっかりしなくては、二人に大きな迷惑をかけてしまう。
 ――それにしても、私がこの間にいて本当に良いんだろうか。
 ――間違いなく喜ばしいことだけれど、一体どうしたらいいんだろうか……。
 幼馴染みとの約束と、年上の先輩の告白。
 ――ああ、駄目だ。こんなこと初めてで、どこから手を付けたら良いのか判らない!
 言葉も無くいまだいがみ合う瓜江と半井に、ナマエが出来たのは、苦笑しながらも見守ることだけだった。
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