そしておぞましく生きてゆけ
 私のなかで歯車がずれ始めていた。
 自覚と共に過るのは、白髪の青年の笑う顔。
 佐々木琲世。クインクスと呼ばれる特殊な部隊の『指導者』として注目を集める有馬班出身の喰種捜査官。私の弟に瓜二つのひと。
 色の抜け落ちた髪を黒く染めたなら、きっと、私にすら見分けがつかなくなってしまう。有馬さんを慕う彼は、同じように私を慕ってくれていた。他愛ない会話を交わして、笑って「また」と手を振って別れる。ありふれたささやかな交流を重ねて行くたび、胸の中はゆっくりと掻き乱されていた。肉親だというのに私は、彼に研の存在をだぶらせ、私の渇望する“弟”の役目を負わせようと考えている。とんでもない話だ。
 姉である資格も、彼と交流する資格も、こんな私にはない。
 どうして有馬さんは私にハイセくんの存在を教えたのかな? 気になり過ぎて訊ねたことがある。

「いきなり局内で鉢合わせたら、君が動揺するんじゃないかと思って」

 そして、答える有馬さんは、いつも通り淡々としていた。

「ハイセは君の弟にそっくりだろう? 恐らく〔CCG〕内で顔を合わせる機会もあるだろうし、先に会わせておけば驚かなくて済むかと考えた」
「そう、かもしれません……」
「事情を話すのが遅くなってごめん。だけど俺なりにナマエにとって一番な手段を選んだつもりだ」
「ありがとう、ございます」

 私の為だと言われてしまっては、もう何も返せなかった。有馬さんが資料に目を落としたままで、会話の間じゅう私を見ることが無かったことに触れることはもっと無理だった。
 ――私の為の最善。有馬さんが選んだ最善。
 靄が消えるかと思いきや、有馬さんに答えを求めて以来、困惑は増した。ずっと頭の中でハイセくんと研の存在が気にかかって仕方なかった。ベッドに入ってから何時間たったのか忘れてしまったけれど、時計を見てみるともう2時を過ぎていた。今日は完全に寝不足だ。
 今更になって理由を訊いたのは私の方だから、有馬さんが謝ることなんて何もないのに。
 ハイセくんを勝手に研と重ねる私が悪いだけなのに。
 瞼をぎゅっと閉じて、布団の中で胎児のように体を丸める。母の面影がちらつく。私たちの母は二回死んだ。一度目は私たちに手をあげた時。二度目は過労で逝ってしまった時。
 ――私たち? 私は、ちゃんと研を守れていた? 一緒に、泣くことができていた?
 休めない脳が生み出すのはナーバスなことばかり。殊更憂鬱になっていく。
 ……思うように眠ることはできないまま、私は目覚まし時計が鳴るのを聞いた。
 起きた時にはもう有馬さんは先に出勤していた。一人でのろのろと身支度と朝食を済ませ、玄関の鍵をしっかり閉めて出勤した。
 あんなに眠れなかったのに、今になって眠気が襲ってくる。仕事中も一瞬意識が途切れたかと思えば舟をこいでいて、今回の寝不足が相当なものであることを思い知らされた。
 舟をこぐ回数が次第に増えて、このままではまずいと席を立った。コーヒーでも買って飲もう。気休めぐらいにはなるかもしれない。やはりふらつきながら自動販売機を目指した。

「あ、ナマエさん」

 不意に響いた呼び声が、私の意識を覚醒させた。自動販売機はもっと先だけれど、コーヒーを買う必要はなくなったようだ。足音が近づいてくる。

「やっぱりナマエさんだ。休憩ですか?」

 早足で私の元までやって来た声の主は――ハイセくんは、にっこりと笑ってみせた。
 私は狼狽えた。脆さを増した精神状態で彼を見るのは、辛かった。
 笑う顔が、研そのものだった。ああ、あの時に似ている。父の遺した本を読み漁っていて、「この本、すごく面白かったよ」って、両手で掲げて見せてくれた時の顔に。本の内容を一生懸命に語ってくれる研の姿がいとおしくて、私はずっとずっと研の言葉に耳を傾けた。あの子の輝く瞳が、たまらなく好きだった。
 私の、大好きな、おとうと。

「研……」

 最初は自分が何を言ったのか判らなかった。呆気に取られたハイセくんの真ん丸な目とぶつかって初めて、自分が今しがた口にした名を理解した。
 ハイセくんを見て、弟を呼んでしまった。
 慌てて両手で口を押えた。体の体温が一気に奪われていくような感覚がする。目を見開いたまま固まるハイセくんを見ていたら視界が揺らいだ。
 彼は私の弟じゃない。なのに、あまりにもあの子と同じすぎる。驚いたその顔さえも。
 私は駆けだした。ハイセくんが伸ばした手を避け、その場から逃げ出した。
 何処へ向かっているのかもわからない。息がどんどん上がっていく。苦しい、苦しい。急に足を止めると、苦しさはどっと増した。頽れかけた両膝に手をついて上体を支えて俯く。ぜぇぜぇと肩で息をして、乱れた呼吸をなだめようと試みる。なかなか治まらない、どうしてだろう。

「ナマエ?」

 ――心臓が止まるかと思った。
 すっかり聞き慣れた低い声。なのに今の私にとってそれは、ハイセくん以上に避けたいものだった。
 顔を上げたくない。あの白が脳裏でちらつく。嫌でも見なくてはいけないと判っていても、それでも、怖くて動けなかった。

「具合でも悪いのか?」

 無造作に伸びてきた手が私の腕を引っ張っていく。つられて顔を上げた拍子に、遂に有馬さんの姿が目に入る。
 ハイセくんにそっくりの白い髪。ただ顔つきや表情は、有馬さんの方が、鋭くて、冷酷で、こわい。

「大丈夫、何でもないです……」
「何でもないという風な顔じゃない」

 有馬さんは眼鏡の奥でそっと目を細めた。

「ハイセに会ってから、君は少しずつまた歪んできている」

 私の胸を、二つの針が貫いた。ハイセ。歪み。喉の奥がカラカラに渇いて、くっついて塞がってしまいそう。
 この動揺も、混乱も、想いも、全てこの人にはお見通し。だって、ずっと傍で私を“監視”してきているのだから。
 頬の筋肉が変に歪む。きっと私の顔には今、とてもいびつな笑みが浮かんでいる。

「そうです。ハイセくんに会ってから、少しずつ駄目になってきました。元からマトモじゃなかったけれど」
「ナマエ……」
「だいたい、おかしいもの。私が重要参考人だとか局員になってるとか。どうしてあなたに捕まったのか……。肝心なことは何も判らないまま、ここまで来ちゃった」

 この人に出会ってしまった日からおかしくなっていった。
 研がいなくなった日でもなく、母が死んだ日でもなく、お気に入りの喫茶店が潰れた日でもない。この人だ。
 この人が私を捕まえなければ悩まずに済んだ。
 この人が私を見つけなければハイセくんに会わずに済んだ。
 冷たくて鋭い薄氷のような有馬さんの眼差しが、私を捉えて動かない。

「ねえ、私にあの子を……よりにもよって弟に瓜二つな人間をわざわざ見せた、本当の理由はなに?」

 声はすっかり掠れていた。でもここまで来たら引き下がれなかった。
 私だって、ただあなたの鎖で繋がれていた訳じゃない。ただ籠の中にいた訳じゃないの。
 私は知っている。あなたの日常には仕事以外の“別の何か”が潜んでいること。一緒に過ごしていて監視していたのは、あなただけじゃない。私だって、あなたを見つめていた。あなたを監視していた。
 ……有馬さんは、研のことは全て終わったような顔をしている。
 共に過ごしているうちに積み重ねていたのは、喜びや信頼だけじゃない。同じくらいその裏で、あなたへの疑いを重ねていた。
 温もりや安らぎを求めて飛び込んだつもりの場所は、大きくて深い穴の中だった。絶望的なその事実を認めまいと、私は今日まで足掻いて来た。よくよく考えてみればおかしいじゃないか。
 ――自分を檻に押し込めた人を信じる、だなんて。

「有馬さん。私を捕まえた本当の目的は何?」
「……今は、俺がナマエといたいからだ。本心だよ」
「でも有馬さんはあまりにも淡々としてて、わからないの。ハイセくんのことだって、私にいちいちあんな記憶に焼き付かせるような会わせかたをして――」
「どう会っていたとしても記憶に焼き付く相手だと思うけれど」

 どこまでも的確で冷静なこの人が、怖い。
 掴まれている腕が痛んできた。荒れに荒れた感情が爆発した。

「離してっ!」

 有馬さんの手を無理やり振り解いた。肩と腕に強い痛みが走って、顔が歪む。これ以上歪みようがないと思っていた顔が、また歪んだ。
 そうして私は有馬さんから逃げた。走った。この身ひとつで、職場を飛び出して街に出た。人ごみに紛れて、流れに任せて行ったり来たりを繰り返した。出来たらもう二度とあの家には戻りたくない。今まで蓄積していた恐怖が、不信感が、とめどなく溢れてくる。
 ふらふらと覚束ない足取りで私は歩く。
 何処に行けば逃げられるの? 何処に行けば心は安らぐの? 研に会いたい。あの子に会いたい。もう長いこと会っていない。手帳に挟んで肌身離さず持っている研の写真は、くたびれてきてしまっている。本当の研に会いたい。
 有馬さん、ねえ、研の手がかりは少しでも見つかりました? 見つかってないんですよね、だから私に何も言わないんですよね? あれ? 有馬さん……、私の弟を探してくれる、なんて言ってたっけ?
 私が勝手に“有馬さんが研を探してくれる”と思い込んでいただけなんじゃないの?
 視界がぐらぐらする。摩耗した心では昨日のことすら思い出せない。もっと以前のことなんて出てくるはずが無かった。
 研。ハイセくん。そして有馬さん。
 ああ、そうだ。誰一人として悪くはない。悪いのは、何かしたつもりになっていて、実は何もできていない私。勝手に信じたり疑ったりしてる身勝手な自分――。
 涙が零れてきて、両手で顔を覆った。近くの電柱に身を寄せてすすり泣く。誰も私を咎めることは無かった。
 私は何がしたいんだろう。何をしてきたんだろう。
 今まで私がいたのは、とても脆い場所だった。その足場を自ら砕いて、奈落に落っこちてしまった。
 考えがまとまらない。信じたいのに疑いたい。疑いたくないのに信じたくない。
 私を支えるものは何もないんだ。
 過ぎて行く人たちが私をいないもののように見ていった。私は、無ければ無いで困らない程度の、風景のほんのひとかけら。
 静かに私は泣き続けた。逃げ場を探してみたけれど、そんなものは無いと気付いて更に悲しくなった。
 何もかもを私は無下にしてしまった。些細なことで自己中心的な疑心を抱いて、不安定な情緒のままに恩人の手を振り払った。
 無くても、行かなくてはいけない。あの人ともう会わなくて済むように。

「ようやく追いついた」

 ……そう決めた矢先に、これだなんて。
 私はゆっくりと顔を上げた。電柱に背中を預けたまま、真正面にいる人を見上げる。
 眉一つ動かさずに、いつも通りの表情をした有馬さんがいた。

「帰るよ。ナマエ」
「私、有馬さんとはもう一緒にいたらいけないです。有馬さんにもハイセくんにも、弟にも申し訳なくて」
「俺が“帰る”と言ってるんだから帰るんだ」

 また腕を掴まれた。でも、随分と優しい。さっきのような痛みは無い。

「君の心が不安定になりやすいと判っていたつもりなのに、配慮が足りなくて済まなかった」
「謝るのは私の方です、最後までご迷惑ばかりおかけしてすみません」

 有馬さんは嘆息した。何処か物悲しそうな、暗い目が私の胸を穿つ。
 するりと腕から手へと拘束は移っていく。しっかりと右手を握り締められた。有馬さんの温度が伝わってくる。

「まるで今から俺の知らない別の場所へ消えるような言い方だけど、君に行く場所なんてないだろう?」

 図星だった。何も言えなかった。有馬さんの突き付けてくる現実は、雪のように積もって私を圧迫し、冷やしていく。

「両親は幼い頃に死んで、唯一の肉親である弟も行方知れず。寂しがり屋で臆病で常に他人を求めている。そんな君が俺の与えた住みかと職場を無くしたら、本当に何もなくなるんじゃないか。君は既に何もないんだから。……人形以下だ」
「だって! ハイセくんを弟だと思ったり、有馬さんを疑ったりするような異常な脳で、どうやってあそこに戻れっていうんですか! 有馬さんの言った通り歪んで歪んでどうしようもないのに……これ以上おかしくなるぐらいなら、もう、もう、全部要らない……」

 零れる涙を拭う気力も無かった。胸の中反発し続ける複数の感情たち全ても、捨てることが出来るなら今すぐそうしたい。涙と一緒に出て行ってほしい。
 俯く私の手を、有馬さんは握り続けていた。


◆◆◆


 ナマエは泣きはらした目で俺を見上げていた。
 彼女の思うこと、言わんとしていることはよく判る。
 実際、疑われても仕方ないと思っている。何せ一緒に生活しているのだ、他者からの視線を気にするナマエが、他者の動きを過敏に察知しているのは当然のことだ。
 俺がナマエにハイセを会わせた理由だって、嘘はついていないが全ては話していない。全てを話す必要が無い。下手に彼女を刺激して、彼女が壊れてしまうのだけは避けたかった。
 だがその配慮が裏目に出てしまったようだ。何もかもを投げ捨てて彼女は俺から逃げ出した。すぐに捕まえることが出来たけれど、このまま連れ帰っても同じことを繰り返すだろう。一度宿った疑心、落ちた影。それらを覆い隠すか、払拭するか。そのために――楔が必要だ。

「要らないなら、俺がもらう」
「……え?」

 ナマエが瞬きした。瞳の奥のようやく薄暗い感情の別の光が覗いて来た。

「君は“全部要らない”んだろう? だったらナマエが捨てた“ナマエの全部”を俺のものにするよ」

 意味が判らないらしい。ナマエは呆然と俺を見上げている。一番簡潔に伝えたつもりなのに相手に全く伝わっていないというのは、不思議な話だ。
 ぐっと彼女へ顔を寄せて、間近にその表情の機微を映しながら、俺は説明する。

「そもそも君に主導権を与えたつもりは無い。君には“要る”か“要らないか”を決める権限も無いということだ」
「え、え……。どういう……」
「そのままの意味だけど。だから、君の動揺も選択も意味は無い。全部無駄なことだから、もう、しなくていい」

 無駄、という言葉にナマエは怒りを露わにした。

「無駄だなんて――」
「無駄だよ。全部、一緒に暮らすよりずっと前から俺が決めてたんだから」
「意味、わからない……そんな」

 言いかける彼女の口を塞ぐために、自分の唇を押し当てた。面白いほどナマエの体は強張った。
 ……反論する気力を失ったらしいことを認めてから、唇を離す。改めて俺はナマエを見つめ、その両頬を手で包み込む。

「ナマエが欲しいものは知ってる。だから、改めて言おう」

 顔を逸らさせはしない。ナマエも抵抗しない。零れる寸前まで涙を溜め、ひび割れたガラス玉みたいに不安定な乱反射をしている瞳がいとおしい。

「初めて会った時から、君は俺のものなんだよ。俺にはナマエが必要なんだよ」

 必要とされること。愛されること。彼女が何よりも求めているのは、そういうこと。依存し合える相手を欲している。
 ――本当に似た者同士な姉弟だ。
 すっかり大人しくなったナマエに微笑みかける。

「さあ。帰るよ。俺たちの家に」

 こくん、と静かにナマエは頷いた。限界を迎え、ついに涙がぽたぽたと地面に落ちて行く。
 ナマエの顔には、今まで見たことの無い表情が浮かんでいた。
 涙を溢しながら笑っている。その笑みには中身が無くて、どうして笑っているのか彼女自身も判っていなさそうだ。その間も涙は次々と落ちる。それでもナマエは笑っていた。掠れた笑い声がしている。
 訳を聞こうかと思ったけれど、聞いてもどうせ理解は出来ないだろうからやめておいた。
 空っぽになったなら、また器を満たしてやればいいだけ。そうすればまたナマエは直る。
 何処まで彼女が自分を保てるのか。今回試してみて、よく判った。
 ――もう何も心配は要らない。
 大人しく俺に手を引かれるままに歩くナマエの姿は、酷く愛らしかった。
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