透徹した愛のかたち
 いつもより『あんていく』の扉が、大きく重たいものに感じられた。
 ナマエの胸には期待と不安が渦巻いていて、平常心を保とうと気を張った表情には硬さがちらつく。
 肩にかけたスクールバッグの持ち手を左手でぎゅっと握り締める。緊張しすぎも良くない、普段通り落ち着いていこう。必死に己に言い聞かせる。
 そうしてナマエは、決意の深呼吸の後、店内へと踏み入った。
 ふんわりと漂うコーヒーの香りに思わず気が緩んだところに、

「いらっしゃい、ナマエちゃん」

 と、まるで図っていたように入口のそばにいた古間が微笑んできた。
 びくっと大きく肩を跳ねさせたナマエは、慌てて「こ、こんにちは」と口を動かしたものの、動揺のために声がくぐもってしまう。それでも古間は穏やかな微笑みでナマエを見つめていた。

「実はナマエちゃんを待ってたんだよ。なにせ今日はホワイトデーだ」
「あ、は、はいっ」
「男の中の男である僕としては、先月のプレゼントへの感謝を示さない訳にはいかないからさ」
「お、お気遣いありがとうございます……」

 畏まるナマエの緊張を解そうと、古間は強張った少女の肩をぽんと叩いた。

「いつものようにくつろいでいてくれるかな。今、用意していたものを持ってくるから」

 そう言って古間は鼻歌を歌いながら従業員用スペースへと消えていく。
 呼吸を整え席に着いたナマエの元へ、静かに入見が歩み寄って来た。

「全く、いい大人がはしゃぎすぎよね」
「そういう古間さんの少年っぽいところも素敵だと思います」

 ナマエが即答すると、入見はくすくすとおかしそうに笑い声をあげた。彼女の眼差しや振る舞い、すべてがナマエの目には“理想の大人の女性”として映る。いつか自分が大人になったら、こんな風な女性になりたい。そんな憧れを秘めながら、ナマエは入見を見つめ、入見の言葉に向き合った。
 ――もし私にお姉さんがいたとしたら、こんな風に暖かな顔で見守っていてくれるのかな。そうだと良いな。
 他愛ない想像がナマエの緊張を解す。その要因が自分にあるとは露ほども知らない入見は、淡く微笑みながら呟く。

「もう、ナマエちゃんがそんな調子だからあいつも浮かれてるのよ? 見ていて楽しいけれど、あまり甘やかさないように……って、自覚ないか」
「寧ろ、私が古間さんに甘やかしていただいている状態ですから」

 ナマエは心底そう思っていた。バレンタインデーに此方が押し付けたものへわざわざお返しをだなんて申し訳なくて何度も断ったが、遂には古間の笑顔と厚意に甘えることを選んでしまった。だから今日こうして、緊張しながらも喜びを押し殺しきれない心のまま、『あんていく』まで来てしまった。
 ……まだ自分が大人の女性になれる日は果てしなく遠いのだと痛感させられる。
「ご注文は?」と問う入見へ更に羨望を募らせながら、ナマエはモカブレントを注文した。親からの毎月の小遣いでやりくりしている身にとっては、少しばかり贅沢なセレクトだ。特別な日なのだからいつもと違うものを、という子供っぽい発想にますます落ち込んだナマエがモカブレンドを静かに味わっていると、ようやっと古間が戻って来た。

「お待たせしました、お嬢様」

 まるで何処かの執事のように恭しい口調と動作に、ナマエは思わず「か、かっこいい……」と息を呑んだ。店の隅のテーブル席を片付けながら、どこが、とトーカが小声で呟いたのに気付く余裕などありはしない。
 赤い顔のまま、ナマエは近づいてくる古間に見入る。出来ることならば写真に収めたいほどの眩い姿。だが実際にそんなことをしたらただの変人になってしまいそうで、これ以上変な言動は出来ないという理性が衝動を抑えていた。
 古間の手には一枚の皿があった。何かが盛られていることは判ったが、よく見えない。どきどきと高鳴る胸を押さえるナマエの目の前に遂に古間は来て、その皿を彼女の前に置いた。
 古間が運んできたのは、何とも可愛らしいコーヒーの色と香りを纏ったケーキだった。

「古間円児スペシャル、ホワイトデー・スイーツでございます」
「古間さんスペシャル……!」
「特製ブレンドコーヒーを使ったムースケーキだよ」

 はしゃぐナマエを見て、古間は自慢げに腕を組んで語る。

「男として、お菓子作りに極限までの労力と努力と想いを詰め込んで作った自慢の一品さ。唯一無二、君の為だけに作らせていただいた! ナマエちゃんの好きなコーヒーを使ったものが一番かと思って、試行錯誤を繰り返した結果辿り着いた究極のデザートさ。ぜひ存分に堪能してもらいたい」
「そ、その前に古間さんとケーキの写真を撮っても良いですか!?」
「無論何枚でも!」

 再びデザートの皿を手にしポーズを決める古間を、すかさずナマエが携帯電話のカメラで撮る。一枚ではない。二枚、三枚、更に「一応連写も!」と願い、やはり古間は応じた。店内の人間すべての視線が集中するのも気に留めず、ナマエはひとしきり撮影に没頭した。一寸前まで“写真を撮りたいなんて言ったら変人扱いされてしまうかもしれない”と不安がっていたのが嘘のようであった。文字通り彼女は舞い上がっている。
 数分して満足したナマエを見て、古間は再び彼女の前にケーキを差し出した。

「このケーキの造形美を崩したくない気持ちも判るけど、ナマエちゃんに食べてもらうために作った品だからね。さ、どうぞ召し上がれ」
「はいっ! いただきます」

 ナマエはフォークを手にして大きく頷いた。一口分に切り分けたケーキを口の中に入れた途端、ふわっとコーヒーの香りが広がっていく。次いで控えめな甘さが蕩けていって、口当たりまろやかなムースケーキの食感が至福の時を届けてくれる。
 頬を緩めきったナマエが、感動に声を震わせながら溢す。

「……おいしい、です!」

 そうして彼女はまた一口、ケーキを頬張った。じっくり味わい、飲み込んでから、緩んだ顔のまま口早に語る。

「こんなに美味しいお菓子は初めてです! 古間さんブレントのコーヒーとお菓子のコラボレーション、たまらないです! ちょっと大人な気分になれる甘さ控えめの感じとか、砂糖やケーキと融合してより一層香りと味わいを増幅するコーヒーのうま味というか、何と言うか、とっても本当に美味しいですっ」
「そんなに喜ばれると照れるなあ」
「だって、だって、すごく美味しいんですもん! ただでさえ幸せなホワイトデーが、更に幸せと甘さを増していくんです! 古間さんの手作りお菓子を食べることが出来るなんて、私は何て幸運なんだろう……」

 一口ずつ丁寧に食べ進めて行くナマエの姿に、古間は心から安堵していた。
 なにせ自分は喰種である。彼女の好みどころか、人間の味覚自体がわからない。日ごろナマエが注文している品からだいたいの嗜好を推測し、こっそりと菓子のレシピ本などを見ては試作し、やはりこっそりと他の常連客に試食を頼んでみたりと、出来うる手段は全て用いてこの日の為に尽くしてきた。材料の分量をしくじって甘くなりすぎたり、逆に苦すぎて人間が“お菓子”として食べるには不向きだったり……。その苦悩や疲労、失敗例を挙げれはキリが無いほどだ。
 だが、ナマエがこうして満面の笑みで味わってくれている姿を見ると、全てが吹っ飛んでしまう。他の人間の客に“美味しい”と褒めてもらう時とは少し違う、甘酸っぱい感情が胸中に滲んでいった。
 ――まさかな。
 答えを導き出す前に、古間は自ら思考を中断した。「座ったらどうだい、古間くん」という芳村の促しもあって、古間はナマエと対面する形で座ることにした。
 赤く染まった頬を綻ばせて、ナマエは幸せそうにケーキを食べている。時折古間の方を覗き込むように視線を向けては、何とも言えない少女らしい初々しさに満ちた微笑みを見せた。その度に古間も、笑顔とウインクを返す。
 角砂糖のように甘ったるい時間を、二人は人目もはばからず過ごしたのだった。

「……ごちそうさまでした!」

 ――ゆっくりと時間をかけて、ナマエはようやっとケーキを食べ終えた。両手を揃えて古間に向かって深々とお辞儀して、また満面の笑みを向けてくる。
 いつだったか、「美味しそうにご飯を食べる女の子が好きだ」と店に来ていた青年が語っていたのを古間は思い出した。今ならその気持ちが大いに判る。自分が苦労して作ったものとなると尚更だ。

「食べればなくなっちゃうのは当然ですけど、食べきっちゃうの勿体なくて、すごくゆったり食べてました」

 皿をじっと見つめながら、ナマエは呟いた。眼差しが名残惜しそうなのは、今さっきまで皿の上にあったケーキへ対しての思いからだろう。

「そんなに大事に味わってもらえて恐悦至極だよ」
「此方こそ、こんなに素敵なお菓子を食べさせていただいて、恐悦至極です」

 はにかみながらナマエが返す。まだ赤い頬から、彼女の照れが存分に伝わってくる。
 ナマエと同様に、古間もまた妙な気恥ずかしさを感じていた。いつも以上にナマエの真っ直ぐな好意が心に響いて、彼女の想い描いているとおりの自分でいることが出来ているか不安になるほどだ。
 何とか平常心を保とうと、古間はちらりと窓の外の景色を見た。もう既に日が傾き始めている。

「女の子ひとりで帰るにはちょっと暗いかな……」
「ひとりで帰る女の子、いっぱいいますよ。私もしょっちゅうです」

 コーヒーを飲み干し、一息ついたナマエが答えた。
 しかし古間は彼女をひとりで帰すのは不安だった。どこかぼんやりしていて危なっかしいナマエがいつも以上に夢見心地のまま帰路に着いたら、電柱に頭でもぶつけてしまいそうな気がする。
 古間はうんと頷くと、決意したように席を立つ。カウンターの中でコーヒーを淹れている芳村を振り返り、彼は思い切って訊ねた。

「芳村さん。こちらのお嬢さんをお送りするため、少し早めにあがらせてもらってもいいですか」
「ああ、大丈夫だよ」
「ありがとうございます!」

 何ともあっさりと承諾が出た。古間は声を張り上げ、芳村に向かって深く頭を下げた。
 その状況を見ていたナマエは、驚きに目を見開いている。

「え、ええっ!? こ、古間さん、そんな、大丈夫ですよ!」
「何というかナマエちゃんが心配なのも事実なんだけど、俺が落ち着かないんだよ。途中まででも送らせてくれないかな」
「すごく嬉しいんですけれど、本当に良いんですか?」
「勿論」

 男気溢れる古間のグーサインに、ナマエの血色は瞬く間に良くなっていく。

「ありがとう、ございます」

 少女が必死に絞り出した、嬉しさより恥ずかしさの勝ったか細い声音に、先に抱いた感情がまた湧いてくるのを古間は感じた。
 ナマエの今日の注文についても、古間は自身がもつと主張して譲らなかった。

「俺がバレンタインデーにナマエちゃんから貰ったものたちに比べたら、まだまだお返しが足りないんだ」

 頑なな彼にナマエは深く感謝し、何度も礼を述べた。こんなに至れり尽くせりな記念日があって良いのかと心配になったが、その全てを古間の言動が杞憂にしてくれる。気さくでちょっと抜けていて優しい
 他の従業員より一足先に仕事を終えた古間と並んで歩きながら、ナマエは改めて彼への好意を確信した。

「……古間さんと結婚できる人は、絶対に幸せになりますね」
「い、いきなりどうしたんだい? ナマエちゃん」
「だって、こうして片想いしているだけの私ですら、こんなに幸せなんですもん」
「そうかなぁ、だと嬉しいんだけどね。……結婚かぁ……」

 結婚、という言葉にどこか古間は遠い目をした。触れてはいけないことだったろうかとナマエが眉尻を下げたのも束の間、彼はいつもの気さくな笑みに戻る。

「そうだね、俺のハートを射止めかつゴールインしちゃう子がいたら、その子は世界でも稀に見るラッキーガールだ」
「ラッキーガールが羨ましいです……。でも今日の私は、十分にラッキーですね」

 ほっと胸を撫で下ろしながら、ナマエが笑い返す。

「古間に素敵なお菓子やコーヒーをいただいて、こうして帰り道を一緒に歩けてるんですもんね」

 一生の運を使い切ってしまってないか心配です、とナマエの微笑は苦笑へと変わる。
 いつもと違う、大人びた表情。彼女に自覚は無いのかもしれないが、確実に少女から大人の女性へと歩みを進めていることが感じられるものだった。
 感慨に耽りつつ、古間は頷いた。

「その通りだよ。この僕のエスコートだなんてレア中のレアケースなんだから」
「嬉しいです! それだけでご飯いっぱい食べられそうです!」
「ふふ、喜びが不思議な方向に向くんだね。ナマエちゃんは」
「あ、あの、でもいつも食べてばかりとかそういう訳ではないですよ? 嬉しいときとか食べ過ぎちゃったりってありません?」
「無くは無いかな。今日はナマエちゃんのおかげで僕も幸せ気分だから、良い夢は見れそうだよ」

 嬉しい時に食欲が増す、という気持ちには頷きかねた。だがいつになく饒舌なナマエから伝わる喜びようが、古間に“幸せだ”と思わせてくれているのは事実だった。その感謝を少しでも彼女に伝えようとした古間の心は、しっかりと受け止められた。
 今日一番の幸せそうな笑顔の花を咲かせて、ナマエが古間を見上げる。

「私も今日は……いえ、今日からしばらくは素敵な夢が見れる気がします」

 今こうして古間と歩いていることすら幸せな夢なのではないか。そんな不安が過っては瞬きし、そばにいる古間の姿が幻ではないことを彼女は確かめた。特徴的な髪型や鼻、くりっとした目、癒されるような笑顔。一緒にいると酷く安心する。お茶目な言動とは裏腹に、何だか頼りがいのある男性としての雰囲気が感じられた。古間と接して生まれる様々な発見や感情たちの全てを、ナマエはいとおしく思う。
 そして古間もまた、ひたむきな少女の姿に大きな情を抱いていた。
 ナマエと違ってその気持ちの名前を口にすることは出来なかった。それが尚更感情の存在を大きくさせてしまう。だがそれでも、絶対に古間は応えられなかった。本来ならば今の行動すら、人間であるナマエに踏み入り過ぎた行為だ。とても危うくて、脆い橋を渡っているようなもの。
 いつかこの橋が崩れてしまったら、と想像すると背筋が凍った。そうなる前に引き返そうにも、心と言うのはなかなか理性の通りに動いてくれない。
 それもこれも、全てが、ナマエの向けてくれる想いがあまりにあたたかいから。
 ずっとそれを味わうことが出来るならば、どんなにか。

「あ、私の家、あそこです」

 いつの間にか随分と歩いていたようだ。不意にナマエが一軒の家を指差した。こぢんまりとした、素朴な家。明かりが灯っているのはリビングだろうか、人影も見える。恐らくナマエの両親だろう。
 やや駆け足で古間の前に回り込んだナマエは、両手を膝の前で揃え、ぺこりと頭を下げた。

「今日は本当にありがとうございました、古間さん。とても幸せなホワイトデーでした」
「此方こそ幸せなひとときを有難う、ナマエちゃん。それじゃあね」

 踵を返しかけた古間の背中に、ナマエは最後に一言、こう呼びかけた。

「また明日、お店で!」

 古間は足を止めると、右手をひらりと振って答えた。

「ああ。待ってるよ」

 ――最高にクールに決まった。確信する古間。
 ――何て格好いいんだろう。そして彼の思った通り胸を高鳴らせるナマエ。
 このホワイトデーは、互いに忘れられない想い出のひとつとなった。だが幾つ想い出を積み重ねても、もどかしい二人の距離は縮まることが無い。最後の一線を越えることなく、過ごしていくのだ。今日のように、明日もこれからも。
 それでもナマエは、そして古間は、心から自身が幸せであると感じていた。
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