ふたりだけのアリア
 両腕でいくつもの包みを抱えて、ナマエは走る。息を切らせながら、「ラピード」と途切れ途切れの声を溢した。ナマエの遥か前方を行っていたラピードは、呆れたように彼女を振り返る。口にはキセルと一緒に、ランタンが銜えられている。幾ら街の中とはいえ、灯りも無しに夜道を歩くのは危ないと判断したナマエの用意した品である。油を使って火を灯す原始的なアイテムだ。何時からか始まった二人きりの夜の散歩では、すっかり必需の品となった。使い込んで味のある色合いを醸し出しているところも、ラピードの感性に合っていた。
 ――荷物は程々にしておけと言っただろう。
 そう語るラピードの碧眼に、ナマエは唇を綻ばせた。

「だって、せっかくの二人きりのお花見、だからっ」

 他の仲間たちは宿屋で休んでいる。ハルルの街の宿屋は、まるで大樹が守ってくれているかのような内装のためか、特有の安心感をもたらす。更にナマエも他の仲間も、ハルルには思い入れがある。旅の途中でハルルに立ち寄ることがあれば、彼らは当然のように宿を取った。いつものように夜を過ごすかと思いきや、ナマエだけは寝床を抜け出し、外で待つラピードと落ち合った。前々から二人は、とある約束をしていたのである。
 何時か二人きりでハルルの樹を見て過ごそう――。
 その約束を、今夜遂に果たすことになった。仲間に内緒で花見の支度を整えたナマエの顔が緩み切っているのを見て、ラピードはやれやれと首を振る。普段のナマエの極端なまでの大人しさが嘘のようだ。普段からこうしていればいいのにとラピードは常々思っている。
 いつもの散歩とは一味も二味も違う道のりを、ナマエもラピードも心から楽しんでいた。
 ラピードが気を遣って立ち止まっている間に、ナマエが追いついた。彼女の両手いっぱいにある荷物を、ラピードは不思議そうに見上げている。

「バウッ」
「え? ただお花見するっていうのも寂しいから、ちょっとした食べ物とかを用意してきました」

 それは楽しみだ、とラピードが返すと、「でしょでしょ?」とナマエはますます機嫌を良くした。
 ハルルの樹の下の広場まで来ると、ナマエは荷物を置いた。

「レジャーシート作っておいたんだよ。よいっしょ……っと」

 ひとつめの荷物・ナマエお手製のレジャーシートが広がる。魔物の毛皮を使用しているのだろう。表面がふかふかとしている。二重構造になっていて、中綿でも詰めてあるのが、見た目より座り心地がよさそうだ。
「どうぞ座ってください!」とナマエに勧められ、ラピードはランタンを地面へ置き、遠慮なくシートに座った。こっそり前足でシートを何度か踏んでみる。ちょうどいい。
 ナマエも残りの荷物と共にシートの上に座る。ぴったりとラピードに寄り添いながら、ナマエは次の荷物を手にしていた。

「寒かったらいけないと思って羽織るものも用意してきたんだけれど……大丈夫かな」
「ワンッ」

 ラピードは“ナマエが羽織っておけ”と促す。“自分は平気だ”とも伝えると、彼女は安心したようにストール――こちらもやはり魔物を素材に作ったもののようだ――を羽織って、ハルルの樹を見上げた。

「この樹って、エステルみたい」
「ワウ?」

 突然仲間の名を挙げたナマエにラピードが顔を向けた。ナマエは楽しそうにハルルの樹を指差しながら、説明してみせる。

「ふわふわって舞ってる花びらの色がエステルの髪、青々とした葉っぱはエステルの瞳と同じ色。薬とエステルが助けた樹だっていうのもあって、尚更……何か、すごいというか」
「ワンッ」
「あ、そうだよね。うん。……にしても、綺麗だねぇ。花の香りも凄く優しい」

 ナマエは目を閉じてハルルの樹の花の香りを楽しんでいた。ラピードの嗅覚にもこの花々の香りは優しい。隣のナマエから伝わる温度や香りもまた、彼の胸にほのかな癒しをくれる。ナマエも同じなのだろうか。心なしか、笑みが深まっていく。
 十分に香りを堪能したナマエは、ぱちりと目を開いた。シートについた両腕を支えに背中を逸らし、咲き誇る花のひとつひとつを眺め始める。ナマエの髪やラピードの頭に花びらがひらりと舞い落ちてきて、二人は顔を見合わせて笑った。

「風流ですね、みやびですねー」
「ワウ……?」
「あ、ごめんなさい。実はちゃんとした意味を判らないまま言ってた。でも何かでこういうのを“風流”って呼んでいた気がして……。本で読んだのかな?」
「ワンワンッ」
「なるほどー、さすがのラピードさん……。語彙が豊か……」

 感嘆の溜息を溢したのち、ナマエは「あっ」と瞬きした。ランタンの灯りを頼りに、なにやら荷物をごそごそと探っている。

「お花見しながら食べようと思って、ちょっとしたお菓子を用意してきたのを忘れるところだった」

 大きな植物の葉を皿の代わりにして、ナマエは、見たことの無い食べ物をラピードの前に差し出してきた。
 三つの卵のようなものがくっついたものだった。三つの玉はそれぞれ、ハルルの花と同じピンク、空に浮かぶ雲の白、草木の葉の緑、と似た色をしていた。鼻先でつついてみると、弾力がある。卵とは違う、甘い香りが漂ってきた。
 そうしているうちに今度は、木をくりぬいて作った浅めの器に、淡い緑色の液体を注ぐナマエ。
 これは何だ? ラピードが問うと、ナマエは口を開いた。

「お花見団子です。一部の地域では、花を見上げながらこの団子というものを食べて楽しんでいたそうで……。此方の飲み物も、その団子にあうように作ったお茶なんだ。ちょろっと読んだ本のうろ覚えの知識と、私の振り絞った知恵で、ラピードにも食べて頂けるお花見団子とお茶を用意したという訳です」
「クゥーン……」
「ううん、全然大変なんかじゃなかったよ! 寧ろ楽しくてたまらなくって……。あとは、お口にあえばいいん、です、けれど……ね」

 途端に余所余所しくなって自信を無くし俯くナマエを安心させるためにも、ラピードは早速お花見団子を食べてみることにした。
 程よい弾力だ。少しばかり口の中にへばりつく様な触感が気になったが、味は全く問題ない。疲れを解す甘みが広がって、とても食べやすい。茶にも口を付ける。へばりついていた団子がすんなりと離れ、一緒に喉の奥へと流れていく。団子の甘みとの調和がしっかりととれた、実に見事な組み合わせだ。
 なかなか甘味を食す機会が無いこともあり、ラピードは大いに喜んだ。

「ワンッ、ワンワン!」
「ほ、本当に!? 良かった……」

 すっかりふやけたナマエの笑顔に、ラピードも嬉しくなる。彼女もまた、自分のぶんの団子と茶を味わい始めた。灯りの乏しい闇夜の中でうっすら見える横顔からでも、どれほどナマエが喜んでいるのかすぐ判る。ラピードとナマエの間柄は、共に過ごした時間こそ短いものの、簡単には語れぬほど深くなっていた。内気でいささか夢見がちで覚束ないナマエを、ラピードは支える。誰に強要されたわけでもないし、彼女に求められたわけでもない。単純にラピードが“したい”と思ったからだ。
 花を見上げ、ナマエの横顔を見つめ、彼は思う。
 ――乙女と花。とても絵になる光景だ。
 自分には絵を描くことも、想いを文に綴ることも出来ない。形にすることが出来ない。ナマエがラピードの意志を的確に汲み取ってくれているのは奇跡としか言いようがなかった。
 自分にも思い出を形に残す方法あれば、どんなにか。ナマエと出会ってから、そんな夢想が頻繁に浮かんでくるようになった。幾ら親密な時間を重ねても、時が過ぎれば少しずつ記憶は風化し、薄れていってしまう。それがたまらなく恐ろしい。万が一にもナマエが自分のことを忘れるなど無いにしても、共に過ごした瞬間全てを明確なまま覚えて生きることは不可能だ。
 だから、人は思い出や知恵を記す。
 他の誰かが見ても知れるように。
 自分の記憶が朧げになった時、振り返ることが出来るように。
 ラピードが柄にもなく落ち込んだのを、ナマエは察したのだろうか。

「ラピード」

 呼ぶと同時に彼女は両手をラピードへ向けて伸ばす。何だろう、とラピードが驚いているうちにナマエはしっかりとラピードを抱きしめ、頬を摺り寄せていた。
 説明を求めるラピードに、ナマエは答えた。

「ちょっと、自分だけじゃ寒くて敵わなくなっちゃったみたい。温度、分けてください」
「……ワフ」
「ありがとう、ラピード」

 ラピードを抱きしめたまま、再びナマエはハルルの樹を見上げた。つられるようにラピードも樹を仰ぎ見る。

「昼間のお日様に照らされた花も綺麗だけれど、こうやって夜に眺めるのも素敵だよねぇ」
「ワン!」
「そうそう、隙間から見える星とかがキラキラして、何だか幻想的で……。樹も花もみんな淡く輝いているみたいで……。結界だからって言ったらそれまでなんだけど、きっとこれはハルルの樹だから、こんなに綺麗で輝いて感じられるんだよね。あとは、その……」

 ナマエの声が、急速にしぼんでいく。

「ラピードと、見てるから……なんだろうなぁ……」

 いくら声を小さくしても、こんなに近くては意味が無い。離れていてもラピードの聴覚であれば漏らさずに拾っている。
 きっとナマエも隠すつもりで声を潜めたのではない。単に恥ずかしかったんだろう。
 微笑ましい彼女の姿に、ラピードは何も言わずに大人しく抱きしめられていた。彼女のしたいようにさせてやりたかった。それに、こうやってくっつかれるのも悪くはない。真綿に包まれているような心地よさだ。不思議なことに、ハルルの樹の花が殊更美しく思えてくる。
 彼女の抱擁に何とか応えたいとラピードは悩んだ。苦肉の策として長い自分の尾をナマエの体にくるりと巻き付けてみた。「わー……!」ナマエが歓声をあげた。どうやら大成功したようだ。

「抱擁を交わすふたりと、舞う花弁……、これではまるで恋仲のような……!」

 恋仲かはともかく、ナマエという人間がいかに感情豊かで大胆になるかを知っているのは、仲間のなかでも自分だけに違いない。ラピードは確信し、己をひっそりと誇った。先程は“他の仲間の前でもナマエはこの調子でいたら良い”などと思ったが、前言撤回だ。満開の花たちに負けぬナマエの輝きを、もう少し自分だけが独り占めしておきたくなった。
 ラピードは、ナマエの叫びには意味ありげな視線を返すだけにして、期待や想像を膨らませてやることにした。ラピードの思惑通り、ナマエはすっかり夢見心地だ。
 些細なことでもいい。ナマエには、少しでも多くの幸せを感じていてほしい。
 出来ることならば、彼女がこの笑みのまま平穏に暮らせる場所が与えられてほしい。
 だからラピードは、旅の最中、ナマエを何処かの街へ住まわせることを考えた。二人きりの散歩で提案したこともあった。いつもならばラピードの言葉に二つ返事の彼女も、その時ばかりは頑なに拒んだ。

『こんな中途半端なところで逃げるような真似、したくない。私は譲らない』

 凛とした彼女の面差しに釘付けになったのを、鮮明に覚えている。

『それに……ラピードとの約束をまだ果たせてないんだから。丁重にお断りします』

 彼女の熱意に対して、ラピードは“失礼なことをして済まなかった”と頭を下げた。途端にナマエはいつもの調子に戻ってしまい、ラピードに頭をあげるようにと懇願したのだ。
 ――今夜、約束は果たせた。けれどナマエは旅を続けるのだろう。
『無様な姿を晒すとしたら、逃げ出すよりぶつかっていって転ぶ方が良いから』と胸を張っていたナマエを思い出し、ラピードは嘆息する。
 ――それでいい。ナマエにとっても。自分にとっても。
 花びらが顔をかすめて落ちて行く。

「また、こうやってお花見出来たら良いなあ……」

 ナマエの髪に引っかかった花弁は、一流の細工師が作った髪飾りかのように映えている。

「本当に、本当に、きれい」
「ワンッ!」

 此処で“お前も綺麗だ”と言ってやるのが男の役目なのだろうが、そこまで出しゃばる訳にはいかない。
 自分たちの距離感は、関係は、そういうものではなかった。
 ラピードはそっとナマエの感想に同意するだけに留めることにした。

「ラピード」

 ぽつりと、不安げにナマエは彼の名を呼ぶ。

「ラピードは、覚えてくれている? 私が以前“逃げるより転んだ方がマシだ”って言ったの」
「ワンッ」

 ちょうど思い出していたところだ、とラピードが応じる。
 ナマエは「嬉しい」と微笑んでから続けた。

「転ぶのは、逃げ出すよりずっと痛い。でも逃げ出した先でも転んで痛い思いをするかもしれない……。正直、今までの私だけだったら、そんな堂々巡りで身動きできずになってしまっていたろうなって判る。それなのに、私が選べたのは……選んだのは、」

 身を寄せ合っていたから、ナマエの緊張が肌から伝わってくる。何かを告白しようとナマエが決意したのだと判った。一体どんなことを言われるのだろうとラピードの体もまた強張る。
 ナマエは、か細い声で、微笑まじりに、告げた。

「みんなや……何より、ラピードがいてくれるから。痛いのも、怖くない」

 本当にありがとう。
 ナマエの心からの感謝が、ラピードの胸をくすぐる。人見知りの子供が慣れぬ大人相手に言うような、はにかんだ感じを覚えた。そしてそれを受けた彼もまた、何とも言い難い気恥ずかしさがこみ上げて口ごもってしまった。
 沈黙がふたりを包む。音は無くとも、心が常に通ったふたりにとっては何ら差し支えない。
 そばにいるだけで良かった。
 安らぎ。約束。温度。鼓動。ほのかな灯り。
 仲間たちに囲まれて賑やかしく過ごすのとは違った、特別なひととき。
 ラピードは、小さく吠えた。
 その声に……言葉に、ナマエは目を丸める。とても驚いたようだった。呆然とラピードを見つめる瞳は、次第に潤み、細められていく。
 ヒトの言葉に表しきれないものを、ラピードはその一声に込めて伝えてくれた。そして彼女は、それを全て受け止めた。自分の中にこんなにも強い感情が生まれるだなんて、知りもしなかった。だがそれが、しなやかな強さの源になるものであることは、瞬時に悟った。
 護り、護られる。想い、想われる。
 ひとえに絆のもたらすもの。
 その存在を確かめ合う一人と一匹の姿を、ハルルの樹がしっかりと見届けていた。
 夜の花見を終え、宿屋へと引き返していく彼らの後ろ姿が丘の下へと消えるまで、ずっとずっと見守っていた。

「……――ラピード、これ見て」

 花見の数日後、ナマエはラピードにこっそりとある物を見せた。小さな袋が二つ、彼女の手の平の上に載せられている。淡い青色のそれからは、同じ匂いが漂っていた。

「お守り。あの夜に拾ったハルルの花びらを中に入れてあるの。他の皆には内緒だよ」

 仲間たちの目を盗んで告げる彼女に、ラピードも律儀に頷き返す。
 彼の返事を確認したナマエがお守りを一つ差し出しかけて、しかし、硬直した。どうしたのだろうとラピードが問うより先に、ナマエは、眉を八の字にして、小声でぼやいた。

「何処にどうやってつけたらいいかな?」

 ――それは自分も失念していた。
 ラピードとナマエは、いつになく真剣な顔で考え込んでしまった。
 結局ラピードのお守りは、彼の短刀の鞘についているベルトの裏側にしっかりとナマエが縫い付けることで解決する。そしてお守りの存在によって、ラピードの中に残るあの夜の想い出は深く強く色づいていった。
 強い絆を胸に、彼は今日も駆ける。
 そしてその背を、ナマエは離れまいと追いかけ続ける。
 またいつか、ふたりで花を見上げられる日を願って。
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