目覚めたエゴが呼吸を始める
 金木研。彼はかつてヒトだった幼馴染み。とある事故を境に“喰種”の体を得てしまった幼馴染み。
 ナマエも最初は驚いた。ただ、本当に最初だけ。
 黒かった髪から色が抜け落ちて真っ白になり、爪は赤黒く染まり、ヒトの体ではなくなってしまっても、ヒトの肉を食らう存在になったとしても――彼女にとってカネキは、大切な愛しい幼馴染みであることに変わりなかった。
 だがカネキの方はそうはいかなかった。ナマエが“喰種”と関わることに断固として反対した。自分の知っている人が傷つくこと、それによって自分も傷つくことを恐れていた。昔から彼がそういう人間であることをナマエは知っていた。
 それでもナマエは彼と共にいることを選んだ。
 幸か不幸か、ナマエを縛るものは無かった。あったとしても彼の存在に比べたら、無いに等しいほど無価値だった。人間との接触を極限まで削る世界に身を投じた彼について行ったのも、ナマエにとっては全て当然のことだったのだ。今でも時折、カネキは「ナマエは死にたいの?」と口にすることがある。勿論違う、と答えれば、彼は尚更わからないと言った顔をした。
 ナマエが危うい居場所をを選択したことを、カネキはいまだに“自分のせいだ”と悔いている。
 今日こそはその誤解を解こうと、ナマエは部屋の扉をノックした。「けーんくーん」呑気な呼び声に反応したカネキが扉を開けるなり、抱えていた本を両手で突き出す。

「また本買ってきたから色々教えて」

 そんなナマエの満面の笑みに、カネキは苦笑した。

「ナマエは本当に変わってるよね。読みもしない本ばっかり買ってきて……」
「さ、最近は読んでるから! それに本の話が出来たらここの人たちと仲良くできると思って。ヒナミちゃんは研と同じ本好きだし、本で知識ためたら万丈さんのしてる読み書き練習手伝えるし、イチミさんたちとゲームやってるときに難しい文字出てきたりしたら読めた方が――」
「わかったから、続きは中で聞くよ」

 手招きされるままにナマエは部屋へと入った。ここに自分も住めたら、と考えたこともある。しかしカネキが許さなかった。代わりに彼の仲間のひとりの――と説明を受けたが、その時のカネキの眼光が鈍く光っていたのをナマエは覚えている――月山が見つけてくれたマンションで過ごし、この場所へ通う生活を送っている。
 最初はナマエの存在に戸惑っていたヒナミたちも、何とか会話をしてくれるまでに至った。
 その喜びを、ナマエはベッドに腰掛けて熱く語る。

「ようやくヒナミちゃんが名前を呼んでくれるようになったんだ。前までは、“あの”とか“えっと”とか遠回しにだったんだけど、今日・さっき・いましがた! ナマエさんって、呼んでくれたんだよ……」
「良かったね。あんまりナマエが鬼気迫ってなかったらもう少し早く名前呼んでくれてたと思うけど」

 隣でカネキが呟くと、ナマエはうっと声を詰まらせた。

「いや、だって……あんな小さな子に怯えられたら警戒といてもらおうと必死になるのは普通でしょ」
「ナマエは普通じゃないから、ヒナミちゃんたちも僕も困るんだよ」
「私にとっての普通はこれなんだもの。……さ、それより本だよ。本! 読めない漢字が多くて……」
「辞書使わないの?」
「研と話す口実を潰すのは勿体ないでしょ」

 さらりと返しながらナマエは本をめくる。
 カネキは、彼女の当然だと言わんばかりの返答ぶりに瞬きした。本当にこの幼馴染みは変わっている。
 ナマエはあらかじめ、読めない漢字や意味のわからない単語のそばに付箋を貼ってきていた。ページを開き、付箋と単語を指差し、カネキに意味や読み方を訊ねる。カネキが答えると、単語とその意味を手帳にメモし、付箋を剥がす。少し癖のある丸みを帯びたナマエの字が次々と手帳のページを埋めていくのを、カネキはじっと見つめていた。
 それに気付いたのか、不意にナマエの手が止まる。

「あまり見られると恥ずかしいな。字、綺麗じゃないから」
「読みやすい字だと思うよ。性格が出てる」
「褒められてるん、だよね……?」

 カネキは笑うだけで、ナマエの不安に答えない。腑に落ちないまま次の単語へと視線を移す。ねえ、と問うより先に、カネキが呟いた。

「贖罪」
「ショクザイ?」
「そう。贖罪。……罪滅ぼしをするっていう意味」

 ナマエの手は止まったままだった。微笑むカネキの顔を見つめたまま微動だにしない。
 カネキの瞳が僅かに揺らいだのを、彼女は察していた。

「……研は余計なものまで抱えようとするよね。皆に言われない?」
「さあ、どうかな」
「こうやって私と話すのも、研にとっては、その……罪滅ぼしの一つなの?」

 二回目の質問に、カネキは答えなかった。ナマエから顔を逸らして俯き、ただ苦笑するだけだ。
 ナマエは本も手帳もベッドに置き、カネキの顔を覗き込んだ。視界いっぱいにある、今こうして一緒にいるのすら苦しくて必死に耐えているような悲しい笑い方をしている青年。視線をずらすとどうしても彼の手元に目がいった。組んだ両手の指の赤黒い爪。凝り固まった血に似ていて、痛々しい。男性にしては華奢だった指も今は少し太くなった。傷跡もある。
 ナマエは目を細めた。

「研。私は、研に強要されてるわけじゃない。適当に流されてるわけじゃない。私がしたいから……迷惑なのは申し訳ないって思ってるけれど、今も研のそばにいたいから、こうしているの」
「判ってる、判ってるよ……」
「本当に判ってるなら、そんな顔しなくていいんだよ。私が邪魔なら邪魔って言ってもらえたら諦めるよ。でも研は何も言わないから判らない。だから、なるべく傍で、研の気持ちを見逃したり聞き逃したりしないようにしたいんだよ」
「判ってるんだ、だから、そんなに言わなくていいから」

 カネキがナマエの肩を掴んだ。その時ナマエは、自分が思っていた以上に前のめっていた事実に気が付いた。
 拒絶というには曖昧な距離に彼女を押し戻して、彼は首を振る。

「……でも可笑しいじゃないか。喰種だって知ってるのに、一緒にいよう、だなんて」

 だから、と言いかけたナマエより先にカネキが続ける。

「僕は、みんなを守りたいんだ。強くなりたいんだ。ナマエが傍にいてくれるのは嬉しいよ。でも今の僕じゃ、守るどころかナマエを危険に晒すことになるかもしれない」
「ホリチエさんに色々聞いてうまいやり方覚えてるよ、私も。戦うことはできないけど、隠れるのぐらいは……」
「僕が君を傷つける可能性だって――」

 瞬間、弾かれた様にナマエはカネキに飛びついた。これ以上カネキが辛いことを口にしなくて済むよう、彼の顔を自分の胸に押し付けるようにしてベッドへ倒れ込む。
 抱きかかえられたカネキは驚きのあまり硬直してしまった。喋ろうとするとナマエの腕の力が強くなって、思い切り彼女の胸に顔を埋める羽目になった。恥ずかしさで紅潮すると同時に、形容しがたい香りが鼻孔をくすぐる……。

「おいしそう?」

 歌のような囁きにカネキは我に返った。今しがた自分が感じた香りは、確かに“それ”だった。一瞬のことだったが、ナマエを“食べ物”と本能的に認識してしまっていた。そのことに震えるカネキを、ナマエは更に強く抱きしめる。

「おいしそうなら良いんだ。非常食ぐらいの価値が私にはある」
「ナマエ!」

 ナマエの拘束が緩んだと知るや否や、カネキは叫んで顔を上げた。
 心底嬉しそうなナマエの笑顔が、久しく会っていない親友の影をも思い起こさせる。頭の中も心もぐちゃぐちゃになって、次の句が出ない。
 緩くカネキへ腕を回したまま、ナマエは微笑む。

「死んで燃やされて埋められるより、ご飯になるほうが良いよね」
「今すぐにでも死ぬような言い方は良くないよ。……もう二度と言わないでくれる? 冗談に聞こえないんだ」
「冗談で言わないよ、こんなこと」

 ナマエの眼差しは真剣だった。尚更カネキは困った。
 傷つけたくないのに、このまま放っておいては彼女は必ず傷つく。傷つくだけでは済まないかもしれない。
 泣きたくなった。しかし彼女の前で泣くのだけは止めたかった。小さい頃から散々“泣き虫”とからかわれている。
 ――ナマエだって泣き虫なくせに。そう思いながら、言い返すことは叶わないまま来た。
 カネキの真っ白な髪を、ナマエが優しく撫で始めた。

「パッサパサ。綺麗にごっそり色無くなってさ、もうおじいちゃんみたい」
「うるさいな……」
「研がこんなになっちゃうまで……私は能天気に“きっと研は大丈夫”って思い込んでた」
「何でナマエが責任を感じてるの、本当に変わってるなぁ」
「研が変わってる間に、私も変わったんだよ。これからも変わるよ、色々」

 カネキが抵抗しないのをいいことに、ナマエは手を止めない。時折気まぐれにまた抱きしめてきたりして、挙句に頬擦りまでしてくる。先程までとは別の感情がわき上がってきて、カネキはやはり落ち着かなかった。ナマエの好意は十分に察していたつもりだが、ここまで頑固なものだと気付かされたのはつい最近だ。
 ナマエは、カネキ以外の“喰種”とも積極的に交流を図っていた。勿論カネキの仲間に対してだけだったが、常人ならばまずカネキの異変を訊いただけで逃げるだろう。ナマエはやはり変わり者だ。この社会では“喰種”を守ろうとする人間に罪が下されるというのに。
 ――ナマエは自ら、居場所を投げ捨てた。
 無意識のうちにカネキはナマエの服を掴んでいた。それを見たナマエに笑いながら「赤ちゃんみたい」と指摘され、手を離しかけたが、ナマエに止められる。

「そのままくっついていて。そうして欲しい」
「……うん」

 だったら茶化すようなことは最初から言わないでほしかった。不満を飲み込みつつ、カネキは彼女の言葉に甘えることにした。
 そしてナマエは、しっかり抱きしめたカネキの背中を撫でていた。

「私にとっては研の傍が私の居場所なんだ。だから、研とずっと一緒にいたいって気持ちは変わらない。だから研には、ひとまず私に関しては“贖罪しなきゃ”って思ってほしくない。私は好きで研といるんだから。リスクも何もかも覚悟してる。何も判ってない、って言われるかもしれないけれど、私にとっては研がいない世界なんて死んでるのと同じなんだよ。他には要らない。何も要らない。要らないの」
「ナマエ、それって、まるでさ」
「そうだよ。好きなんだよ。研が好き。とっくにバレバレなんだろうけれど。好きだから一緒にいたいっていうだけ。それだけなの」

 これは直向きと言えば良いのだろうか。歪んでいるのだろうか。酷く偏ったナマエの思考回路に、カネキはどう返すべきか考えた。
 こんな風に全てを知ってなお受け入れてくれる存在を欲していたのは事実だ。しかしそれを本当に手にしてもいいのだろうか。他愛ない頼みすら叶えてもらえなかった“過去”がよぎって、一番出したい言葉はずっとつかえたまま出て来てくれない。

「わかった?」
「わっ!?」

 バシンッと背中を叩かれて、カネキは驚いた。盛大に彼の体が跳ねたのを感じて、ナマエは大声をあげて笑っていた。

「喰種っぽくなってもやっぱり研だものねー、新鮮な反応!」
「……ふざけないでよ、心臓に悪いなぁ」
「スキンシップの一環だよ。で、わかったの?」

 ナマエは体を丸めて、カネキと自分の額をくっつけた。長い付き合いでも、こんなに顔を近づけたのは初めてのことだった。吐息がかかるような至近距離とナマエの留まらない大胆さに、カネキは頬を紅潮させて狼狽える。
 再度、ナマエは問う。

「わかったの? って聞いてるんだけれど、お返事はなし?」
「な、なにを判れって言うんだよ……。ムチャクチャすぎて……」
「言ったでしょ。私はただ“好きなひとのそばにいたい”だけだって。わかった? ほっぺが赤いのはわかったってことで良いの?」
「……うん」

 しつこく問われ、カネキは渋々頷いた。
 ナマエは嬉しそうに笑う。

「なら、改めて聞くね。……あなたのそばにいてもいいですか?」

 散々強がっていたナマエの瞳が、この期に及んで不安げな光を覗かせたのが少しおかしかった。おかげでカネキの狼狽と赤面はどんどん静まっていく。心地良い幸福感がじんわりとこみ上げてきて、形容しがたい安堵に包まれる。それらのあたたかさに彼の顔は綻んだ。

「ナマエさえ良かったら」

 こんなにも自分を必要とされることを喜ばないひとがいるだろうか?
 こんなにも自分を必要とされたことがあっただろうか?
 こんなにも自分の存在には“価値がある”のだと思える瞬間はあっただろうか?
 欲しくて仕方なかったものを、彼女はこうして与えてくれた。
 カネキはナマエに抱き締められたまま起き上がると、今度は自分が彼女を抱き締めた。自分がしてもらったように胸に抱く。
 あまりにすんなりと抱き締め返されたナマエは目を丸めていた。

「力持ちだね、研」
「喰種は力持ちなんだよ」
「それは良いことだね。研はちょっとヒョロ過ぎたから」

 喰種だとかヒトだとか口にしつつも、そんな線引きを全く感じさせないナマエの反応が嬉しい。最初はきっと彼女も驚いたのだろうけれど、すぐに順応してみせた。ふたつの生き物の間に在る複雑なものたちを、彼女は“好き”という気持ちで越えてきてしまったのだ。

(まさか僕にも、こんな人がいてくれるなんて)

 何の変哲もない、ただの人間の幼馴染みが、こんなにも強いだなんて知らなかった。
 ――僕の欲しいものを、注いでもらいたかった想いを、全て君が持っていて与えてくれるなんて、尚更。
 無邪気にカネキの抱擁を受けるナマエの緩み切った顔を見ると、此方もつい気を抜いてしまいそうになる。たまにはこんな時間があってもいいのだろうけれど、最近気を張り続けていたせいで“本当に良いのか?”と何度も悩んだ。
 ――今くらいは、良いか。
 どうせまた考え込んだり悩んだりしていると、ナマエが“何考えてるの?”と問い詰めてくるに違いない。女の勘を侮ってはいけないことを、昔からの付き合いで十分に思い知らされている。現に今だってそうだし、その結果が喜ばしいことであったとしても……質問攻めや説教は遠慮したい。

「そう言えばナマエっていつから僕のことを好きになったの?」
「今は恥ずかしいから言わない」

 上機嫌なナマエに見上げられて、カネキは苦笑した。この状態で“恥ずかしい”だなんて。彼女の頬を撫でてみると、想像以上に熱くて柔らかかった。くすぐったいのか気持ちいいのか、うっとりと目を細めるのが大人めいていた。もっと触っていたかったが、このままでは自分が何をしてしまうかわからなくて慌てて手を離す。好意は有難いが、此方が異性であることをナマエにはもっと意識してもらいたいところだ。
 不思議がる彼女へ、カネキはこう誤魔化した。

「くしゃくしゃの笑顔って、こういうのを言うんだろうな」

 それを褒め言葉とでも思ったのか、ナマエの笑みはより一層深くなっていく。
 ……笑みの裏で彼女は、数分前の出来事を思い出していた。
 『おいしそう?』と問うた時、カネキの左目に一瞬宿った赤色の美しさ。
 彼の香りと温度を感じ取るほど、その赤は記憶に焼き付いてなかなか離れてくれなかった。
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