I hope you'll be very happy.
 ナマエは、今しがた起きた現象を理解出来ずにいた。
 発端は恐らく自分、なのだと思う。
 いつも通りに治癒術を使ったつもりだった。相手はラピード。ナマエの死角から迫っていた魔物の攻撃を、その身を挺して防いでくれたのである。ラピードが怪我を負ったのを見て、ナマエはすっかり動転してしまった。戦い自体は他の仲間たちの活躍で終わっていたから、ナマエは慌ててラピードへ治癒術を使った。
 その時、いつも以上に強烈な光が生じた。その光はラピードを中心に放たれ、辺り一帯を白く塗りつぶした。
 数秒間に渡る発光が収束し、ナマエたちが目を開くと、ラピードがいたはずの場所に、見知らぬ男が座っていた。
 男の髪は跳ねていて、腰辺りまで伸びている。まるでグラデーションのように紺、薄い青、白が混ざった髪だ。その美しさに思わずナマエは息を呑んだ。次いで彼の顔を確認した時、彼女は驚いた。
 青くて頼りがいのある隻眼。片目を塞ぐ傷跡。凛々しい顔立ち――……。
 これは夢に違いない。
 そう己に言い聞かせたつもりが、ナマエの口は、

「ラピード、さん」

 と、動いていた。
 硬直していた仲間たちの動揺を背中で感じながら、ナマエは男を凝視していた。
 もう一度彼女が「ラピードさん」と呟く。
 男は……静かに頷いて応じた。
 瞬間、ナマエの体は後方へと傾いた。男――もといラピードが、弾かれた様に手を伸ばし、ナマエを抱き留める。寸でのところで後頭部を打ち付けずに済んだナマエの顔を、ラピードがじっと覗き込む。

「は、はわわわ……うわわわあ……」

 彼女の体は小刻みに震えていた。顔は熱い湯に浸かり続けたみたいに赤い。両手で自分の頬を必死に隠そうとしているが、無意味だった。ラピードは彼女が心配になってきた。まさか何処か打ったのか、具合が悪いのか。彼はナマエの頭のてっぺんから爪先まで見直し、異常が無いことを確認した。ナマエを支えながら頭のどこかにタンコブでも出来ていないか調べたが、大丈夫そうだ。しかし。

「わわっ、わ……わわ……」

 確認作業が進むにつれて、ナマエの紅潮と震えは激しくなっていた。
「だ、大丈夫です?」流石に黙って見ていられなくなったエステルがナマエに尋ねる。
 当然、ナマエは答えられなかった。

「か、かっこ、いぃ……」

 その言葉を最後に、ナマエは至福の笑みを浮かべたまま意識を手放してしまったのである……。
 ――気絶したナマエを抱きかかえたままのラピードらしき人物を取り囲む形で、ユーリたちは座り込んだ。何がどうなって、こうなったのか。何故ラピードが人間になったのか。
 自分で考えることを早々に諦めたユーリは、大して首をひねることもせずリタを見た。

「解説頼む」
「は!? なんであたしが! ってか原因っぽい奴が気失ってちゃ、いくら話したところで推測の域を出ないわよ」
「推測でも何でもいいから、この夢みたいなお話を飲み込めるような筋書きちょうだいよ」

 まだ呆気に取られているレイヴンの後押しを受け、仲間内で一番の博識少女・リタは渋々推測を始めた。

「……ナマエは変身能力があるでしょ。だったらその逆が可能でもおかしくないわよね。ラピードが怪我をしたのを見て、ナマエは相当焦ってたみたいだし。調子が狂って術式も何かおかしくなっちゃったんじゃないの」
「そうなのか、ラピード」

 投げやりなリタの説明を受け、ユーリはラピードを見る。
 ラピードは眉間に皺を寄せて首を振った。よく判らない、という意味だろう。

「調子が悪いとか、何か変なトコとかは無いんだな?」

 ――変なトコって、まあ、見た目が明らかに変わってんだけどな……。
 ユーリのこの問いに、ラピードは頷いた。一言も喋らないのは、人間の体での発声方法を知らないからなのだろうか。だからと言って壮年の男性にしか見えない今のラピードに「ワン」と吠えられても困る。
 そうこうしているうちに、ナマエが意識を取り戻した。ラピードの腕の中で「はっ!?」と声を上げ、体をびくっと跳ねさせて瞬きする。
 ようやく起きたナマエに、カロルが呼びかけた。

「起きた? だいじょぶ? ナマエ」
「あ、ありがとうカロル。大丈夫だよ……」

 答えてからナマエは、自分がラピードに抱えられていることに気付いた。
 ラピードはじっとナマエを見つめていた。何かを訴えるような眼差しに、ナマエは再度意識が遠のきかけた。だが、そこに込められたラピードの意志を感じ取り、懸命に彼女は訴える。

「ら、ラピードさんが……言ってる。“何もかもが普段と違うから、いまいち感覚が掴めない”って」
「でしょうね。まるっきり変わってしまったもの」

 同情するようなジュディスに、ナマエは「申し訳ない」と目を伏せた。

「私が慌てたばっかりに、治癒術式と変身術式が混ざっちゃったのかも……。ちょっと術式を考えてもう一度やるか、時間が経って戻るのを待てば、いつものラピードさんに戻れると思う」
「本当なのかの?」
「うん。私の魔導器は、変身術式に時間制限を自動的に付加してるから。今確かめてみたけれど……ラピードさんに起きちゃった変化も、その一時的なものと同じっていうか……。とにかく不幸中の幸い、みたいな」
「ふむふむ。興味深いのじゃー」

 パティや仲間たちのいつも通りの態度は、ナマエだけでなく、内心動揺していたラピードの胸中をも落ち着かせてくれた。ラピードの腕に支えられながら身を起こし、彼の隣に寄り添うように座ったナマエは、再びラピードに触れて彼の変化を確かめた。外見など目に見える変化はもとより、作用してしまった術の影響が内側にまで及んでいるのではないか。こんな事態を引き起こした張本人なのだ、やれる限りの手は尽くす義務と責任がある。
 自然と表情を曇らせていくナマエを見て、ラピードはそっと右手を伸ばした。俯く彼女の額を指でつんと押す。

「ら、ラピードさん?」

 戸惑うナマエに、ラピードは微笑んでみせた。何せ人間の体になるという経験は今まで無かったので、上手く笑えたかは判らない。それでも彼は、もとは善意で術を行使してくれたナマエを元気づけたかった。
 どうやらラピードの気遣いは成功したらしく、ナマエは瞬く間に血色が良くなり、ふやけていく。

「そ、そんな……そんな微笑まれたら……私とけちゃいますよ……」
「……」
「いえ、だって、私のせいなんですよ? なのにそんな風に言われたら、私……」

 ラピードが何を言っているのか、ユーリとフレンとナマエ以外には全く判らない。
 しかしナマエの笑顔や、ユーリとフレンの「流石だラピード」と言わんばかりの表情から察するに、とても気の利いた台詞を放ったようだ。
 励まされたナマエは、あれやこれやと様々に術を試してみた。が、ラピードに作用するものは無い。ナマエの気力が削られるだけに終わった。時間が経って元に戻るのを待つしかないようだ。本当に戻るのだろうか、とユーリらは思った。しかしナマエが“時間が経てば戻る”と言ったのだから、信じるしかない。

「でもさ、ナマエ自身でも想定外の事態なのに、ホントに戻るのかな……」

 ぽつりとカロルが溢した不安は、ナマエとラピード以外全員の胸中を代弁していた。
 ラピードはというと、普段は銜えている短刀を手に、戦いの練習中だ。ナマエは赤い顔を綻ばせながら、彼の素振りへ称賛の声を送り続けている。何て呑気なのだろう。

「まさかラピードに恋するあまり、ラピードを自分と同じ人間にしてしまおうとナマエが考えたんです?」
「んでもって結婚するってか? まさか、そりゃねえだろ」
「ナマエちゃんがワンコの意志を無視して強硬手段に及ぶなんてないっしょ」
「あら。恋する乙女の行動力を舐めちゃいけないわ」
「ジュディス、冗談に聞こえないよ……」

 仲間たちは思うままに会話を繰り広げていた。その間に、ラピードの短刀の扱いはめきめきと上達していた。実際に魔物との戦いになっても問題なさそうだ。喜び勇んでナマエが組み手をしようと申し出ていたが、ラピードは首を横に振った。

「ラピード曰く“まだ慣れていない体だ、万が一ナマエを傷つけてはならない”だとさ」
「ラピードらしいね」

 ユーリとフレンの会話の正しさを裏付けるように、ナマエはまた顔を赤くしていた。どこまで赤くなるのか、果たして限界はどこなのか、ここまで見事に赤面が続くと気になってくる。限界を迎える前に熱で倒れる可能性の方が高そうだな、と、一行は思った。

「どうしよう……。自分のミスでラピードさんをこんな姿にしてしまったのに、ちょっと喜んでいる自分がいるのも事実……。何て不謹慎なの! ラピードさん、やっぱり私を殴ってくださいっ!!」
「は!?」
「お、ラピードが喋ったのじゃ」

 驚いたラピードが声を漏らしたのを聞いて、パティがのんびりと笑う。今のは普段の鳴き声や唸りの延長線上のようなものに思われた。
 だが、ラピードが声を発した事実に、エステルが目を輝かせている。

「遂に翻訳じゃなくて、素のラピードの口調がわかるんです!?」
「興味深いけれど、そんな緩い問題じゃない気がするのよね……。あたしがついていけてないだけ?」

 リタの言う通り、これは深刻な問題だった。ラピードが犬を卒業し、人間になってしまうとなると、どんな問題に突き当たることか。言葉、人間としての生活、それと食事、他にも様々……考えれば考えるほど、問題は多い。一刻も早くラピードには戻ってほしいところだ。

「イケワンじゃなくイケメンになっちゃってもう……。壮年のイケメンというおっさんのポジションが危うくなるわ」
「おっさん寝言は寝て言いなさいよ」
「ひどいっ!」

 見当違いなレイヴンの心配を一蹴し、改めてリタはナマエとラピードを見つめた。

「早くラピードさんに戻ってほしいと思う反面、私は、私は……。こうしてラピードさんとずっと過ごせたら、なんて愚かしい想いを抱いてしまってます……! すみませんラピードさん、でもカッコイイです、この姿のラピードさんも普段に負けず劣らず雄々しく勇ましく男らしくカッコイイです……!」
「う……」

 謝っているのか褒めているのか不明なナマエの空回った熱い語りに、ラピードもたじたじである。戸惑い、呻いたのが確かに聞こえる。彼が僅かに後方へ下がったのをリタは認めた。
 ――本当に反省してんのかしら、ナマエ。
 いつになく表情豊かなナマエを見ていると、そう疑いたくもなる。だが、ラピードの姿を変化させてしまったこと自体は故意ではないはず。姿形を変えるというのは、その存在を構成する物質を分解し、再構築させるという途方もない高度な技術だった。下手をすれば生物としての機能を壊しかねない、危険なもの。そんな行為を仲間に――よりによって慕うラピード相手にするはずがない。
 動物や植物というのは、エアルの影響を強く受けやすいという説がある。ラピードが変身してしまったのは、ナマエの術によって特別に刺激されたエアルの影響を受けた結果だろう。リタの中で、ようやく納得いく仮説が整った。

「となると、ラピードのあの姿は、普段ナマエがラピードに抱いているイメージが具体化したものってことでもあるのかしら……。想像力あるわね」

 ナマエ以外の仲間たちは、早々に現在のラピードの姿へ慣れた。ラピードもまた、自身の体に慣れつつあった。その順応性たるや、目を見張るものがあった。華麗かつ迅速に短刀を使い魔物を切り伏せて行く様は、まさしくラピード。ラピードの補佐には、真っ赤な顔のナマエが常について回る。

「まるで新婚夫婦じゃのう」
「ナマエが聞こえる場所で言ったら、卒倒しちゃいそうです」

 パティとエステルの微笑ましい会話――そしてついでのように彼女たちに叩きのめされていく魔物ら――を、ユーリはぼんやりと眺めながら「確かに」とひとり同意したのだった。
 結局夜になってもラピードの姿は戻らなかった。街まではまだ距離がある。
「今日はここで野宿だ」というユーリの号令に、いつものように仲間たちはテントを張り、火を起こし、早速準備を始める。ここでもラピードは活躍した。普段ユーリらがしているのを観察しているお陰か、スムーズに作業をこなしてみせる。その度にナマエが感嘆の声を漏らす。いい加減慣れろよ、とユーリが内心うんざりするほどナマエはラピードに首ったけであった。
 ……しかし、ナマエもただ舞い上がっているわけではなかったらしい。寝ずの番に自ら名乗り出、焚火と仲間の安眠を守る務めを引き受けた。
 焚火を見つめるナマエの頭は流石に冷えていた。ラピードをあんな目に遭わせてしまい、仲間にも迷惑をかけた。彼らの前ではなるべく隠していた自責の念が強く表情に出ていた。
 そんな彼女に、長身の影が歩み寄る。ナマエはすぐにその気配に気付いて顔を上げた。

「ラピードさん……」

 うっすらと微笑みを浮かべたラピードが、ナマエを見下ろしていた。ラピードは“仕方ない”と言いたげに首を振ると、ナマエの隣へと腰を下ろした。

「……ラピードさん。休んでください。今日は疲れたでしょう?」
「お前と、番をする」

 まさか彼が喋るとは思わず、ナマエは動揺した。ユーリやフレンとすら言葉を交わさなかったのに、どうして自分に話しかけてくれたのだろう? 同時に体が火照るのが判って、慌てて焚火へと向き直る。聞き間違いに違いないと己に何度も言い聞かせる。その間も隣からほのかにラピードの体温が伝わってくるような気がして、そわそわとして落ち着かなかった。
 ラピードは、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「ナマエは、悪くない。気にするな」
「……ラピードさん」
「だいじょうぶ、だ」

 ナマエの頭をぽんと叩くように撫でて、ラピードが喋る。ナマエは気恥ずかしさで彼の方を見れなかった。だから、ラピードが本当に口を動かし、人間のように話しているのか正確には判らなかった。もしかしたら実際はラピードは喋っておらず、普段のように意思が伝わってきているのを自分が“会話できている”と誤解しているのかもしれない。
 だが、頭を撫でてくれているこの感覚は、紛れもなく現実だった。

「安心しろ、ナマエ」

 その優しい行為と声音に、ナマエはつい瞳を閉じてしまう。耐えがたい眠気に襲われ、体がラピードの方へと傾いでしまう。ごめんなさい、と口を動かそうとしたが叶わず、そのまま意識は遠のいていった。
 ラピードは、眠るナマエの顔をじっと見つめていた。
 この身に起きた変化を驚かなかった訳ではないが、ナマエの姿を見ていると何故か冷静になった。彼女はラピード以上に慌て、ラピード以上に騒いだ。そして、普段とはまた違った表情を見せてくれた。ラピードもまた、人の体となったことで今までにない経験をすることができた。
 ――ナマエの姿を見下ろす日が来るとは思わなんだ。
 すっかり自分に身を任せて眠る少女を見つめる隻眼は、優しい情に満ちていた。


 ……夜が明けた頃、男の姿は消え、代わりにいつものラピードの姿があった。起きた仲間たちは歓声をあげかけて、はっと口をつぐむ。
 ラピードに寄りかかるようにして、ナマエが眠っていた。両膝を抱え、体を丸め、そうしてぴったりと彼に寄り添っている。よほど安心しているのか、いまだかつて見たことの無い穏やかな寝顔だった。
 物言いたげにラピードは、その体勢を保ったままユーリを見つめる。すぐに彼は相棒の意を汲み取り、仲間たちを振り返る。

「ラピードが、“もう少し眠らせたやりたい”ってよ。いいか?」

 その申し出に、誰一人として異を唱えることは無かった。
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