恋の鳥はいずれ鳴く
 お世辞にもナマエの絵は上手いとは言い難い。しかし絵を描く行為自体が好きらしく、瓜江が幾ら「下手くそなんだし止めておけ」と忠告しても聞かなかった。
 たとえば、ある日ナマエが「犬だよ」と言い張り見せてきたものは、どう見ても軟体動物だった。四肢の位置がおかしいし、とにかく酷かった。
 瓜江は溜め息を吐きながら、肩を落とした。出来れば二度と目にしたくないような不思議な生命体の絵から、そっと視線を逸らす。

『おまえの頭の中は一体どうなってる』
『どうって……ほら、これが顔で、体で……』

 ナマエはスケッチブックを瓜江に見せながら、絵とは言いがたいものの輪郭を再びなぞり始める。丁寧さが仇となり、ただでさえ歪な何かの形は濃く、強くなっていく。気味の悪さを引き立てるだけだ。懸命なナマエの説明を、仕方なしに聞きながらも、最終的に彼は「わかるか」と一蹴した。
 そんな非生産的なやりとりが交わされる時間を、二人は幾度となく重ねてきた。気兼ねない友、或いはそれ以上の存在。互いに口にすることはなかったが、抱く感情は同じだった。
 めげないナマエに、瓜江は気負うことなく言葉をぶつける。ナマエはそれを喜んだ。瓜江も楽しかった。幸せだった。
 瓜江の父が亡くなった時、ナマエはひたすら絵を描いた。何枚も、何枚も。瓜江がようやく以前のようにナマエの描いた絵を酷評するようになるまで。
 久々に瓜江が「下手くそ」と溢した時、ナマエは笑って泣いた。

『くーちゃん、ようやく、しゃべってくれた』

 ――相変わらず、彼女の絵の腕前は上がらない。
 何年経っても、瓜江が喰種捜査官となってからも、ずっとだ。

「どうかなー。ハムスター描いてみた」

 シャトーに遊びに来たナマエが描いてみせた“例の奇妙な絵”を見て、クインクスの一同は盛大に噴き出した。散々「絵を見せるのはやめておけ」と瓜江が忠告したのも意味をなさなかった。何故かナマエは、自身の絵に妙な自信を持っている。そしてどう言われようとも、嬉しそうに、誇らしげに笑うのだ。

「ナマエちゃん……それはどう見ても、その……個性的で……」
「ぶっは! な、何で顔がおっさんみてぇなんだ!?」
「まさしく画伯だわ、ナマエっち! 描こうとしてもなかなか描けないガタツキっぷりぞよ」

 六月を混乱の渦に叩き落とし、不知の笑いのツボを的確に突き、才子の関心を得たナマエの笑う顔を、瓜江はむすっとしたまま遠巻きに眺めていた。自分以外とも彼女が“絵”をコミュニケーションツールとして活用して、自分以外の人間が彼女の絵を批判するのが癪だった。
 呑気なナマエも、瓜江と同時期に喰種捜査官となっていた。瓜江は最後まで彼女に反対したが、聞く耳を持たなかった。めげない彼女の性格は、人生を左右する大きな決断の際も十二分に発揮されたわけである。

『いまだに不思議だ。その鈍感さでよく捜査官になれたな、ナマエ』
『くーちゃんと一緒に育ったようなもんだから何とかなると思ってたよ』
『俺をお前と同レベルにするな。あといい加減呼び方を改めろ』
『大丈夫、他の人がいる時には久生くんって呼ぶよ』

 シャトーに来る前、瓜江と共に歩きながらナマエはそう約束した。そして約束通り、瓜江の仲間たちに囲まれているナマエは「くーちゃん」呼びを封じていた。時折彼女が「久生くん」と呼んでくるたび、瓜江は何とも言えない不快感を覚えた。他人行儀な感じがして、ナマエとの間に大きな壁が聳えたような気分だった。止めろ、と言ったのは自分自身なのに。
 そしてひとり不機嫌になっていく瓜江を他所に、ナマエはクインクスの一同に溶け込んでいた。
 ……不知たちと存分に楽しんだナマエは、半ば彼らの輪から引きずり出される形で瓜江に誘われ、彼の自室へ来ていた。殺風景で特に物珍しいものもないと言うのに、部屋の隅から隅までぐるりと見渡し、ナマエは楽しそうだ。特に瓜江の描きかけの絵には、熱心な視線を注いでいた。

「やっぱり才能あると違うよなぁ、さすがくーちゃん」

 昔から変わらない、ナマエの屈託ない感想が瓜江に喜びをもたらす。

「変身ヒーローみたいだよね、クインクスって。すごいなあ」

 瓜江がクインクス施術を受けると告げた時は死人のように青褪めていた顔も、すっかりふやけている。ナマエらしいといえばらしいが、“変身ヒーロー”という喩えはどうなのだろう。そんな冗談めいた調子でクインクスの話題に触れられるほど、ナマエなりにその事実をこなしてきたということかもしれない。

「私は適性なかったもんなー……。あったら一緒にここにいられたんだろうね」
「お前までいたらたまったものじゃない。これ以上うるさくされて堪るか」
「相変わらず辛口っていうかもう、毒舌だよね! 慣れてる私は良いけれど、それ、六月くんたちにまで同じ態度だと気まずくなるよ!?」
「慣れ合う気は元から無い。賑やかしいのはお前で足りているからな」
「そっかー、私だけの特権ってところか……」
「無駄に前向きだな。そういう所だけは感心する」

 いつの間にかベッドに座って寛いでいる幼馴染みを振り返り、瓜江は言った。
 クインクス施術適性テストに万が一ナマエが合格して、施術を受けていたら。そんな想像は出来る限り避けたかった。捜査官になったことも未だに認めたくないし、出来ることなら辞めて欲しい。
 ――コイツに何かあったら困る。
 物言いたげな瓜江の眼差しに、ナマエが気付く。

「……まだ毒を吐き足りないのかな、くーちゃん」

 此方の意を察してくれたのだろうかと一瞬でも考えた自分を祟りながら、瓜江は嘆息する。

「ちゃんは止めろ」
「くーくんだと語呂の感じがよろしくない」
「普通に“久生”で良いだろう。ずっと俺はナマエと呼んでいるんだしな」

 気恥ずかしさを隠すため、彼は視線を逸らした。
 ナマエといる時は、思っていることをそのまま吐き出していられる。頭の中で本音と建前の間に壁を作る必要も、発声するにあたり単語たちをふるいに掛けて選ぶ作業もいらない。どんな言葉を放とうとも、逆にどんなに沈黙していようと、全てをナマエは許してくれる。ナマエが許さないようなことはもとより発言しない。
 何より、プライベートな空間に彼女がいても不快ではないことが重要だった。ずっといてもらっても構わないくらいだ。
 ナマエの方はどうだろう。瓜江の言動を幼い頃から知っている、というのは、ここまで付き合いの良い理由にならない。普通だったら、成長するにつれ関係がフェードアウトしそうなものだ。一緒にいて常に辛辣な――瓜江としてはごく普通なつもりだが一般的に見るとそうなるらしい――言葉や態度を続ける男といて、何の得があるというのか。
 ――まあ、ナマエなりに理由があるんだろう。
 それがなるべく好意的なものであることを祈った瓜江は、視線をナマエへと戻してみた。

「うーん。呼び捨てって何か恥ずかしいなぁ」

 ベッドの上で横になり、ゴロゴロと転がりながらナマエは悩んでいる。両手で抱きかかえているのは、瓜江の枕だ。堂々としたナマエの寛ぎぶりに、部屋の主は首をひねる。幾らなんでも警戒心が無さすぎた。
「くーちゃん、ベッドちょっと固くない? 痛くない?」色々とぼやきながら、ナマエは尚もベッドで転がり続けている。「そんなの人それぞれの好みだ」と瓜江が答えると、渋々彼女は納得したらしい。体のバネを使って思い切り跳ね起きると、真ん丸な瞳で瓜江を捉えた。

「……」

 ぼそぼそと口を動かして、ナマエは何事かを呟いた。抱えた枕が口元を覆っているせいで、瓜江の聴力をもってしても聞き取れなかった。

「何だ? 聞こえない」
「えっ、聴力レベルアップしたんじゃなかったの?」
「お前が貴重なことを言うとも思えないから集中してなかった。完全に気を抜いていた」
「ちょっと! 流石に怒るよ! 私は六月くんたちみたいに甘くないんだからね!?」

 瓜江の枕をばしばし叩きながらナマエは猛抗議する。人の枕をそんなにグチャグチャにするな、と言いかけて瓜江は止めた。シーツも布団も、ナマエによってそれなりに乱れてしまっている。今更枕だけを気にしても遅かった。
 この部屋で寛げるような場所が無いのも問題だろうが、一切躊躇うことなくベッドへ座ったナマエの神経が不思議でならない。幼馴染みだから。それだけで片付けていいものだろうか……そうするしかないのだろうか。

「久生」

 瓜江は耳を疑った。
 恥ずかしそうなナマエが、瓜江の枕に顔を埋めた。「あ〜、今度こそ聞こえたみたいだね!」枕のせいでくぐもっていたが、そう言っていた。足をバタバタ動かして、落ち着きが無い。
 聴覚の次に、自身の不調を疑った。自分は、名前を呼ばれた程度で照れたり喜ぶような単細胞ではない。きっと何処かおかしくなっているに違いない。少し呼ばれ方が変わったぐらいでどうこう反応するような馬鹿げた人間ではない。その、はずだ。しかし。

「何だろ……。自分が呼び捨てされるのは構わないんだけど、こう、くーちゃんを呼び捨てにするってのは、何だかこう、照れくさくてかなわないね……」

 愛称で呼ばれていたのは、一種の“壁”だったのだと今更ながら気づく。
 もしかしたらナマエにとって自分は、単なる幼馴染みではなくて、別の何かなのではないか。頑なに過去からの愛称にすがっていたのは、その何かへ歯止めをかけるためなのではないか。
 自分にとって彼女がそうであるように、もしかしたら、もしかするのではないか。
 楽観的で都合のよすぎる憶測に、瓜江はうんざりした。考えるだけ考えて、正面にいる相手に真相を問う勇気が無いことがますますそうさせる。何もかも俺らしくない。
 憶測は、なかなか頭の中から出ていかない。
 枕を布団へ戻し、立ち上がったナマエの真っ赤な顔が、瓜江をそうさせていた。
 ゆっくり此方へ歩み寄って来た幼馴染みは、むくれながら瓜江の胸を軽く叩く。

「久生! これからはそう呼ぶ! 後から“止めろ”とか言われても知らないからね」
「(どうして“止めろ”なんて言う必要がある)……ああ」
「ん? 今なんか違うこと言おうとしたんじゃない? しおらしすぎる」

 怪訝そうなナマエを見下ろして、瓜江は笑った。

「よく判ったな。鈍い癖に」

 台詞のわりに心底楽しそうな、皮肉のない声音。
 まるで童心に帰ったような懐かしさを覚えながら、ナマエも笑う。

「くーちゃ……久生のことに関しては鋭いの。それに鈍いのは、久生の方だと思うけどね」
「画伯がよく言う」
「え、絵のことは関係ないでしょ! 少なくとも今は!」

 反論してから、ナマエはすぐそばに置かれている瓜江の絵に視線を移した。描きかけで、まだ絵の具ののっていない部分もあるキャンバス。自分は触れたことも無いような本格的な品と、それを使いこなす瓜江への尊敬も込めて、彼女は呟いた。

「本当にすごいよね。久生の真似で私も絵を描こうとしたけど、どうしても上手くいかなかった。私はやっぱり、スケッチブックにグネグネったものを描いてるのが相応しい」
「スケッチブックが哀れになる異形を描いていた自覚はあったのか」

 意外そうに瓜江が返すと、ナマエは苦笑しながら頷く。

「そりゃ、近くにこんな上手な人がいれば嫌でも判るよ。でも、どうしても共通の話題が欲しかったっていうかさ……」

 またちらりとキャンバスに視線をやりながら、ナマエは思い出を振り返る。
 たまたま近所で、たまたま同い年で、たまたま遊んで、たまたま気が合った。
 そこから仲良くなって、一緒にいるようになって。辛辣な言動をとりつつも、ナマエの存在を拒もうとしない彼に、淡い想いを抱いた。月日を追うごとに、その情は深く、大きくなっていった。
 そうして過ごして……悲しいこともあったけれども、瓜江といる為にナマエは日々を積み重ねてきた。瓜江といれば幸せだからと、ナマエなりに努めてきた。血の滲むような努力をして、残念ながらクインクス適性テストには落ちてしまったが、何とか喰種捜査官になることが出来た。
 ――彼に置いてかれたり、離れたり、したくなかった。

「私の絵に容赦なくツッコミ入れてもらって、笑ったりなんだりっていうのが、好きだというか……下手は下手なりに役に立つかなー、なんて思って……」
「腹筋を鍛えるのには有効な手段かもしれん」
「トレーニングの一環? ふふ……じゃああのハムスターの絵、リビングの目立つところに貼り付けて帰ろっかなあ」
「単なる嫌がらせだな。全く……」

 瓜江の溜息に、ナマエは小さな笑い声をあげていた。
 間近にある幼馴染みの顔。決して愛想が良いとは言えないし、目つきも鋭い。何も知らない人は“怖い”という印象を持つだろう。こっそり六月たちに聞いたところによると、同じ班ではあるものの非協力的な行動が多いという話だ。
 困ったことだが、彼らしくもある。
 念願の喰種捜査官になった瓜江の心情を察して、ナマエは、想いを告げることを止めた。
 彼の心と生活に水を差すような真似はしたくない。瓜江の部屋に来たのも、誘ってもらえたからだ。自ら瓜江の部屋へ行きたいという考えは微塵も無かった。こうして話しているのも、瓜江がそれを許してくれているからだった。
 ――だから、今はこれ以上を考えない。
 ナマエは「よし!」と気合の入った声を上げた。

「かなり久生の口を滑らせまくったし、そろそろお暇しようかな」
「そうか。家まで送ろう。一応ナマエも女だしな、夜道を一人で歩かせるのは危ないかもしれない。一応な」
「色々引っかかるけど……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。また話し相手が欲しくなったら招いてね」
「お前は暇人か」
「はい、久生よりは!」

 二人は最後にまた笑い合って、揃って部屋を出た。
 一回に降りると才子が「今夜はお楽しみでしたね」などとからかってきたが、瓜江は無視した。ナマエは「でした」と快く返していたが、瓜江の見間違いでなければその頬が若干赤くなっていた。
 ――まさか、な。
 他の面子がいる手前、過った考えを口にするわけにはいかない。

「さっさと行くぞ、ナマエ」
「あーい。久生くん」
「久生でいい」
「あ、そっか。そうだったね、久生」

 シャトーの面々の生暖かい視線を背中に受けつつ、瓜江がナマエの手を引いて外へ出る。「今呼び捨てだったよね、まさか……」「何だ、どういうことだよ、まさかって?」「強引に部屋に引き込んだ時点で判ってたよ、うんうん」「おい、オレにもわかるように話してくれよ!」「乙女にみなまで言わすな、シラギン」好き勝手に騒いでいる彼等に、帰ってから灸を据えると瓜江は誓った。
 隣を歩くナマエはしっかり瓜江の手を握りながら夜空を仰いでいる。

「ふー、今度はいつ来ようかなー」
「本当にお前は暇人なんじゃないのか……。こっちはそんなに暇じゃないぞ」
「わかってるってば」

 昔から当たり前のように引っ張って来た彼女の手のぬくもりが、今日はやけに強く感じられた。
 ……互いに抱く想いが実は通じ合っているものであることを二人が知るのは、そう遠くない未来の話だ。
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