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 もしかしたら、という予感はあった。


 もし。万が一、会ってしまったら。

 その場合を想定して、ほんの少しだけ一也を思い浮かべる。

 何の心構えもしていない時にアクシデントが起こると、感情だけで行動してしまいそうだから──





 7月ももう終わりそうなこの日。職場に比較的近い球場で、一也と鳴のチームが公式試合を行っている。昼過ぎからの開始であるその試合の影響か、今日は職員がどの部署も少なかった。
 やっと仕事が一段落ついた夕方、いまだ忙しそうな外来担当の職員から「プロ野球選手の急患に、念のため帰るまでついていて欲しい」と呼ばれたのだ。



「──諏訪さん、電話終わられました?」


 診察と処置が終わった、手続き待ちの諏訪選手に声をかける。付き添いで一緒に来ていた球団スタッフは、説明を受けたり手続きの真っ最中で、諏訪選手の側にはいなかった。
 諏訪選手は有名で顔が知られているからか、一般外来の待合ではなく職員が利用する通路の一角で携帯通話をしていた。


「……ああ!はい」

「もう少しで書類も出来上がるそうなので。──怪我がひどくなかったのが幸いでしたね」


 苦笑気味の諏訪選手に、私は話を続ける。


「3年連続で打率3割、今シーズンも好調ですね」


 この場を和ますため、ついポロっと知ってる情報を喋った──のがまずかった。
 諏訪選手は意外、といった驚いた様子を見せ、私との距離を若干詰める。


「──野球詳しいんですね、立木さん」

「え!?いや……そう──ですか!?だって諏訪選手有名ですし」

「いや〜、知ってるからって打率まで知ってる女の人ってあんまりいないっすよ。野球好きじゃないと」


 一也の成績をいつもチェックしているため、チームのレギュラーメンバーの成績は大体把握している──なんて口が裂けても言えない。

 私を野球女子だと思ったのか、諏訪選手との距離はもう一歩と近づいた。


「ネームプレートで名字は分かったけど、名前は?」


 胸に付けている仕事用の名札に目をやった諏訪選手は、背を屈め私に目線を合わせて尋ねてくる。
 野球に詳しいかつ「立木」という名字から、同じ職業である兄の涼くんのことを連想したら……と冷や汗を流したがそうではないみたいだ。表情には出さず、心の中でホッとする。
 しかし手に怪我を負ったのに何故こんな余裕があるのかこの人は。


「明日帰るんだけど、連絡先聞きたいなー」

「……諏訪選手ならこんなことしなくても」

「いやいや、そんなことないよ〜。立木さんカワイイし」


 流石有名選手、億稼ぐプレイヤーだからか貫禄と余裕がある。この雰囲気から察すると、今まであまり断られたことがないんだろう。私は顔を軽く引きつらせた。

 どう対処しようか困惑していると、目線の先で球団スタッフの人がこちらに向かってくるのが見えた。私は軽く頭を下げる。


「──諏訪選手、手続き終わったみたいですよ」

「こっちはまだ終わってないんだけどな〜」

「帰ってゆっくり休んだ方が……」


 タイミング良く、仕事が終わって帰り支度をした先輩達もこの通路を使うため歩いて来た。諏訪選手に気付くと、驚きとテンションが上がったのか声が大きく聞こえてくる。

 助かった、とばかりに先輩達に声をかけ、話をそらそうとした時。
 微かな歓声らしきものが聞こえたと思ったら、強めの足音が徐々に大きく廊下に響いてきた。何かと思って音がする方を振り返ると、同時に諏訪選手が「お」と声を上げた。


 現れた人に目を奪われる。


「よー、御幸。ホントに来たのか」


 隣で諏訪選手が手を上げた。
 チームジャンパーを着たユニフォーム姿で、息が上がっているのか軽く肩を上下させながらこちらを凝視しているのは──


 忘れたくても、忘れられなかった人。



 お互いの姿を認めると、一也は走って近づいてくる。
 スローモーションのように感じるその光景を、私はただじっと眺めていた。
 身体が動かない。


 一也の視線は諏訪選手ではなく私に一直線に向いていた。
 走った勢いのまま私の目の前に来た一也は、諏訪選手を気にすることなく私を強く抱きしめた。
 徐々に力が込められていく。


 微かに香る、土の匂い。
 目の前はジャンパーの色一色になり、離れた1年半前から更に鍛えられたであろう身体の力強さが服越しでも伝わる。
 背中に回った腕から。引き寄せ押し付けられた胸から。
 伝わる感触から、泣きそうになるのをぐっと堪える。



「……おい御幸、女に飢えてるからって気でも狂ったか」


 隣で呆然と呟く諏訪選手の声に、私は途端に我に返り一也から身体を離した。
 一也はそれを止めることなく、私から腕を離す。
 私はどうしたらいいか分からなくて、思わず下を向いた。


「違います、彼女です──俺の」


 淡々と明瞭に言い放った一也に、私は顔を上げ一也を見つめる。
 口を大きく開け唖然としている諏訪選手と球団スタッフ、そして先輩達の姿が目の端に入った。


「……は?嘘だろ、マジで?」

「何でここで嘘言わなきゃならないんですか。──な?」


 諏訪選手から私に顔を向け同意を求める一也に、私は動揺し声も出ない。


「返事しねえじゃねーか」

「見ず知らずの人にこんなことしませんって。なあ澪」

「名前……知ってんのか!」

「だから彼女ですから」

「立木さんホント!?」


 諏訪選手の鬼気迫る問いに、周りの視線が一斉に集まる。


「……えー……と、その……」


 どの面下げて“彼女”だなんて言えるのか。
 一也にあんなことをしておいて、今更──


 俯き言い淀んでいる私を、一也は黙って見つめていた。


「──話がしたいんだけど」
 

 周りの視線を気にもとめず、はっきりと言い切った一也に、私は向き直った。
 私からそらさない瞳から、強い意志を感じる。


 一也には、それを言う権利がある。


「……うん。もう逃げないから、大丈夫」


 私の言葉を聞いた一也は一瞬目を見開いた後、視線を諏訪選手に向けた。


「ナイス怪我です、諏訪さん」

「お前……喧嘩売ってんのか」


 「怪我の状態詳しく教えて下さい」と一也が諏訪選手と話し始めると、先輩達が私を引っ張り、“御幸一也”との関係について教えろと詰め寄ってきた。


 これから先輩達へ説明しなきゃならない。

 一也とも──。










2017.7.26








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