仰ぐ空の先


 その日ははらはらと雪が舞い落ちていて、キンと澄んだ冬の空気が身体を刺した。
 風も無く、いつもより遠くの音もよく響いた。委員会の居残り作業が終わった頃には辺りも薄暗く、昇降口の明かりの下で靴音を鳴らし外に出ると、私ははーっと息を吐いた。
 白く漂うそれを見て寒さを実感すると、これから帰路を歩く気が少し削がれたが、目線の先に俯いたまま校門を出るクラスメイトを発見した。

 いつもは微かにしか聞こえない、空気を斬る金属音と男子の掛け声が響く中、彼はスポーツバッグを肩に掛け静かに姿を消した。


 ――確か、滝川くんも野球部だったはず――


 野球部が発する活気ある音とは対称的なその光景は、ずっと私の心に引っ掛かっていたんだ。





**





 高校生活に終止符を打つ卒業式が無事終わると、私達卒業生や在校生が続々と校舎の外に集まる。友達や先生達、後輩と写真を撮り合ったりして別れを共有していた。


「澪――!こっちで写真撮ろ―!!」


 友達に呼ばれ向かった場所の頭上には、大きな桜の木。満開とはいかないが思っていた以上に花を咲かせている。
 集まった人数のカメラ分ポーズをとって、シャッターがきれる度笑いが起きる。今は解放感と安堵感、春からの新生活への期待感で何をやっても笑みが零れた。
 全員分の写真を撮り終えると、友達は散り散りに違うところへ走っていく。


「澪は?行かないの?」

「後で行くから、先行ってて―」


 皆は別れ難い人にしか意識が向かっていないが、私はさっきまで写真に協力してくれた桜の木を見上げ、立ち止まっていた。青道高校に何年いるのかな。何回高校生の卒業を見守ったんだろうか。

 穏やかな風に揺られ、桜の木はちら、ちらと花弁を落とす。その姿はとても綺麗で、青道で桜を見る事もこの先無いのだと思うと、この場から離れられずにいた。


「――今年は例年よりも開花が早いんだそうだ」


 後ろで低い声が聞こえ思わず振り向いた。自分に言われてるのか分からなくて顔を向けると、そこには滝川くんが立っていた。
 彼とは2、3年と同じクラスだった。


「滝川くん、卒業おめでとう」

「ああ、立木も。――桜、好きなのか?」

「え?あ……すごく綺麗だな、って思って」

「今年はこっちの桜も開花が早いみたいだな。――隣の木」


 私達の側で可愛いピンク色をつけた大木の桜の木の隣には、比較的小さめの桜の木が植わっていた。滝川くんが指差した先には、白い花弁が花開いている。


「わあ……白い桜の木なんてあったんだ」

「白い方は4月に開花が普通らしいが、最近暖かかったせいか一気に開いたらしい」

「滝川くん詳しいんだね」


 驚きと尊敬で彼を見やると、滝川くんは「父が桜好きなんだ」と少し首をすくめた。
 彼の表情はとても穏やかで、私の意識は自然と昨年に遡っていた。


 2年の時は、クラスでこんな瞳をしていなかった。
 笑っていても、目はいつも暗い何かを宿していたような気がする。
 うちの学年の野球部では実力がダントツだと聞いていたのに、レギュラーから外されたと人づてに聞いたのはいつだったか。


 あの日見た――雪の日の、1人でスポーツバッグを片手に下校する姿が未だにはっきりと思い出される。


 それがいつからだろう。日に日に目が輝きを取り戻し、優しい瞳に変わり。誰も彼に過剰な気を遣わなくなり、皆一様に「クリスくん変わったよね」と言うようになったのは。


 3年の1学期、6月頃だったと思う。
 私には分からない何かが、彼を変えてくれたんだ。




「滝川くんは、大学進学しても野球……続けるの?」


 ずっと気になっていた事を、思いきって聞いてみた。
 彼は一瞬目を見開いた後、ふっと笑った。


「ああ。監督――片岡先生が、野球を続けられるいい大学を紹介してくれたんだ。そこに行くよ」

「そっか……」


 良かった……


 滝川くんは青道でレギュラーとして野球部を引退することは出来なかったが、あれから彼の瞳は濁ることはなかった。
 私は野球部とはなんの関係も無いけれど、滝川くんが野球を続けることが本当に嬉しい。


 清々しい気持ちでまた桜の木を見上げると、同時に強い風が吹き抜けた。
 瞬間、私の視界は白い桜吹雪で埋め尽くされた。風が桜の花弁を空へと解放する。思い思いに舞うその様を見て、あの日の光景が再び思い出された。

 重力に従い、地面に向かってただ静かに落ちていたあの日の雪を吹き飛ばすかのような、また空へと浮上させるような春の風。そして白い桜を追うように、大量の桃色の花弁が空へ舞った。
 

「わあ……」


 風に煽られ花びらは未だ空で踊っている。ずっと私の脳裏に残っていたあの雪の日の残像が、この桜吹雪に見事に吹き飛ばされた。
 こんな吹雪ならちっとも悲しくならない。隣では滝川くんが、私と同じように桜を見上げていた。
 同じタイミングで顔を合わせた私達は、どちらも笑顔だ。



「あ!クリス先輩!」


 遠くから滝川くんを呼ぶ声が聞こえたと思ったら、彼は苦笑した。勢いよく走ってきた男の子は滝川くんの前で急ストップすると、携帯を片手にニカッと笑った。


「師匠!一緒に写真撮って下さい!さっき忘れてたんで!」

「……師匠?」

「――あ、こんちは!もしかしてクリス先輩の彼女さんすか?」

「……へ!?」

「――おい沢村、迷惑がかかることを言うんじゃない」


 滝川くんが珍しく慌てている。「違うんすか?いい雰囲気だったからつい!」なんて言う後輩くんに私は呆気に取られつつも、くすっと笑った。


「――違うけど、人生何が起こるか分からないからね?沢村くんだっけ、私撮ってあげるよ」


 ちょっと悪戯心のつもりで言ったのに、滝川くんと沢村くんは私を見て一瞬固まった。少しの間の後「あざーす!!」とお辞儀した沢村くんに、私と滝川くんはまた顔を見合わせ苦笑した。



 携帯の画面から覗く、涙ぐんでいる沢村くんに、柔らかく笑んでいる滝川くん。
 滝川くんを穏やかに笑えるようにしたのは、きっとこの面白い野球部の後輩なのだろう。


 人生何が起こるか分からない。
 変わることだってある。


 

「じゃ、撮るよー!!」



 桜の木を背に花びらが舞う中ポーズをとる彼らを見て、この先あの雪の日を思い出すことはないだろう、と思った。









2016.2.8








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