七色のアネモネ
東京の青道高校で野球をやる――
家族にそう言った時、皆一様に同じ反応をした。
「青道なんかに行ったらウチから通えないだろう?」
「亮ちゃん家出ていくの?」
「近くにだって強いチームは沢山あるのに……なんで!?」
父さん、母さん、春市の返答を聞いても、俺の気持ちは揺らぐことは無かった。
東京行きを伝える時緊張したのは、1人だけ。
「亮ちゃん…東京行っちゃうんだね」
澪に家を出る、と言ったあの時だけは。
「亮ちゃん、春ちゃん!おはよう!」
「おはよう!澪ちゃん」
「おはよ、澪」
朝のお馴染みの光景。近所に住む立木澪は、小さい時からの幼馴染だ。俺達小湊家と立木家は家族ぐるみで仲が良く、照れ屋な春市も澪には心を開いて自分から話しかける。
登校する時は途中まで3人一緒に歩いていくことが多い。高校の制服を着てる1つ年上の澪と、中学の学ランを着た俺と春市。去年までは澪もセーラー服を着て一緒に中学まで通っていたのに、澪の制服がブレザーになり通学路が変わると、俺はひどく年下になったように感じた。
「澪ちゃん、兄貴から聞いた?高校の話」
「あー…、うん。亮ちゃんが家まで言いに来てくれたよ」
「澪ちゃんは、どう思った…?」
春市は俺が神奈川の高校に進むとばかり思っていたため、まだ動揺が残っているみたいだ。
澪は頬をポリポリとかいて、春市に向き直る。
「亮ちゃんが決めたことだから、私は応援したいよ。家を出ちゃうのは寂しいけどね」
澪の言葉を聞いて俯いた春市に、俺は笑った。
「神奈川と東京なんて近いじゃん。電車ですぐだし、帰省だってすぐ出来る距離だよ。――ね?澪」
澪は話を振られてきょとん、としていたが、春市を慰めようとしたのが分かったのか「うん、亮ちゃんの言う通り」と春市の背中をポンポン、と優しく叩いた。
「春ちゃんはお兄ちゃん子だからね、寂しいのは分かるけど…私はここにいるから。亮ちゃんが東京に行っても一緒に登校しよう?」
春市は澪の言葉に顔を上げ「…うん」と笑顔を見せた。俺は心の奥底がちくん、と痛んだのを感じた。
…分かってたことだけど、俺が青道に入学したら澪とこうやって毎朝会う事も無くなる。
野球をやるために自分で選んだ道だけど、澪に会えなくなることは俺の唯一の心残りかもしれなかった。
青道高校に入寮する前日、小湊家と立木家合同で俺の送別会を開いてくれた。小湊家の方がリビングが広いので、立木のおじさんおばさん、そして澪が家に訪れた。両家が用意した豪華な夕食に、歓談を交えて大いに盛り上がる。
大人達が酔っ払ってきた頃、澪が俺の肩をとんとん、と叩いた。
「亮ちゃん、ちょっといい?」
澪が2階の階段を指差したので、俺は席を立って澪と自分の部屋へ向かった。
「――亮ちゃん、これ。高校の合格お祝いも兼ねて、プレゼント」
部屋で2人っきりになってすぐ、俺の前に包みが差し出された。澪の表情はとても柔らかく、俺を見つめている。
「開けていい?」
うん、と澪から了承をもらうと俺は包装を開いた。中から出てきたのは、バッティンググローブ。
「実用的なのがいいかな、って思って。サイズは春ちゃんに聞いて、どれがいいか2人で選んだの」
ニコニコしながら話す澪と対照的に、今の言葉を聞いて俺は無言になった。
俺は真顔で静かに、澪にプレゼントを突き返す。
「…気持ちは嬉しいけど、受け取れない」
「え……何で?春ちゃんもこれなら亮ちゃんが使ってくれるよ、って言って――」
さっきから自分がイライラしているのが分かる。理由も当然気付いてる。それを澪に伝えてもどうにもならないのも分かってる。
だから俺は敢えて真意を伝えずはぐらかす。
「俺入寮するからって、余分に買っちゃってるんだよね。――春市なら俺とサイズ変わんないし、使うと思うよ。春市にあげたら?」
表情を崩さず発言するのは得意だ。動揺を隠して澪の方を見ると、澪は今まで見たことのない顔で、ショックを露わにしていた。
「…な、んで、何でそういう事を言うの!?」
急に声を張り上げた澪に、俺も感情が溢れ出す。
本当は、気にくわないだけなんだ。
俺へのプレゼントを、春市と選んだ、っていうことが。
「――何で、って俺はこれから家を出て1人で生活していくんだよ。ここへの未練も出ないように、持って行く物も選んだのに――そんな俺の気持ち、澪分かってるの?」
「!それは――ただ私は離れてても亮ちゃんを応援してるって――」
「気持ちは嬉しいけど、やっぱり受け取れない。…それとこの際だから言うけど、もう“亮ちゃん”呼びも止めてくれないかな。母さんと同じ呼ばれ方だから、何かイライラする」
一度溢れ出した感情を抑える術を、俺は知らなかった。澪が年上で、お姉さん的な存在だから、無意識の内に甘えていたのかもしれない。
でもお姉さん以上の想いを澪に抱えてる俺は、今起こっている何もかもにイライラした。毎日使うであろう野球用品を春市と選んだこと、昔からずっと変わらない澪の俺の呼び方、澪への気持ちを押し殺して東京に行くのに、俺の気持ちに1つも気付いていない澪自身。
こんなこと、言う筈じゃなかったのに――
もう隠しきれない感情を出したまま澪を見つめれば、澪は涙をぽろぽろ零して泣いていた。
澪は涙を拭うと、俺を真正面から見据えた後、また下を向く。
「…私の言動が気に障ったのなら謝る――ごめんなさい。でも亮ちゃんへの大切なプレゼントを春ちゃんに使って、なんてことは出来ない」
持って帰るね、と手に包みを握りしめ、澪は俺に背を向けた。
「嫌な気分にさせちゃってごめんね。――東京でも頑張ってね。それだけは伝えたかったから――亮……介」
そう言った後、澪は部屋の扉を閉めて、1階へ降りて行った。
こんな気持ちで、自分の名前を呼ばれたかった訳じゃない。
後悔しても遅い。俺は明日から東京に行く。澪を守ってやれない、そばにいることも出来ない。
明日から野球一本で生活していく俺にとって、この状況をどうにかなんてできやしない。
俺は息を吐くと、部屋の扉を開けた。部屋を出ると、すぐ傍に春市が立っていた。
「…兄貴、澪ちゃんどうかしたの?泣いてたんだけど…」
「――ん?ああ、俺が家出ていくのが寂しいってさ」
「…本当に?もし兄貴が澪ちゃん傷つけたんなら、俺いくら兄貴でも――」
そこまで言うと春市は言葉を濁して黙った。俺はその時確信した。
春市も、やっぱり澪を――
「…春市」
俺は下へ降りる前に弟に呟いた。
「澪を、守れよ。俺はいなくなるから…頼むぞ、春市」
「兄貴……」
俺はそれから澪に会うことなく、家を離れた。
**********
「ただいま」
あれから2年半。最後の夏――西東京大会決勝戦を終えた俺は実家に帰省した。
「亮ちゃん!お帰りなさい」
慌ただしく玄関に顔を出した母さんが、俺を出迎えてくれた。2人でリビングに向かうと、母さんはすぐ誰かに電話をかけた。
――?
「――あ、もしもし?澪ちゃん?亮ちゃん帰ってきたよ!――うん、分かった。じゃあ切るわねー」
俺は澪の名前が出てきたことに内心驚きつつ、母さんの動向を見守った。
電話が終わると、俺は平静を装って母さんに尋ねる。
「……澪?」
「うん、亮ちゃんが帰ってきたら教えて欲しい、って言われてたの」
――あんな別れ方したのに、気にかけてくれるんだ。
稲実との決勝戦の傷はまだ癒えていないし、敗戦後はそればかり考えていたけれど、いざ澪の名前が出ると頭の中は澪でいっぱいになる。
ピーンポーン…と家のチャイムが鳴り、母さんが玄関に向かうとすぐに聞き慣れた、だけどすごく久し振りに聞く声がした。
少しの喋り声の後、母さんの「買い物行ってくるわねー」という声が聞こえたかと思ったら、ダダダと廊下を荒っぽく踏む音が聞こえ、リビングの扉が開いた。
「……亮ちゃん!」
俺の前に、想像以上に大人っぽくなった澪が立っていた。
甲子園にも行けなくて、足も傷めてて、どんな顔して会えばいい?
「…久し振りだね、澪」
あの時は澪は全く悪くなかった。悪いのは子供じみていた俺。そんな気持ちを乗せるように言葉を発したら、澪の目がだんだんと潤み始めた。
「――亮ちゃん、お疲れ様。頑張ったね。……私、決勝戦観に行ってたの」
「……じゃあカッコ悪いとこ見せちゃったね」
「――格好悪くなんかない!亮ちゃんが、本当にすごくて…青道でずっと、頑張ってたんだなあって思ってっ……」
涙声で鼻を啜りながら喋る澪に、愛しさと切なさが募ったけど、結果は結果だ。俺は自嘲気味に笑った。
「――春市、凄かったろ」
「――うん、でもね。ずっと亮ちゃんばっかり見てた。……私っ、亮ちゃんが好きなの。幼馴染としてだけじゃなく、男の子として」
しゃくり上げながらの澪の突然の告白に流石の俺も固まった。うっ、うっ、と泣きながら話す澪の傍に立つ。
「――ちょっと、自分が何言ってるか分かってる?」
「…う、ん。亮ちゃんが青道に行ってから、春ちゃんに言われたよ。『自分の気持ちに正直になって』って。でも亮ちゃんの野球の邪魔したくないし、だから亮ちゃんが引退してから言おうって…」
「春ちゃん、私の気持ちに気付いてたの」と泣きじゃくりながら言った澪に、俺は「…まいったなあ」と呟いた。
俺が気が付いてなかった澪の気持ちを、春市は気付いてたのか。
じわじわと温かいもので心が満たされていくのが分かったけれど、とりあえず目の前の泣き虫をどうにかしないといけない。
俺は澪の手を取った。
「…澪と身長変わらないけど、いいの?」
「――亮ちゃんがいい。身長なんて気にしてないもん」
「…ずっと俺の事想ってたの?」
「…ちゃんと気付いたのは、亮ちゃんが青道に行ってからだけど…」
「…亮ちゃん呼び止めて、って言ったの、覚えてる?」
「……あ」
ごめん、と言った澪の濡れた頬を手で優しく拭う。はっとした澪と俺の視線が絡まった。
「――昔の春市みたいだよ?泣き虫」
俺は澪の額に自分の額を軽くぶつけた。もう長年の付き合いだから、俺の気持ちは分かってるだろう。俺は自分の意見はすぐに言う。好きじゃないものは好きじゃない、とすぐに否定するから。
「亮――介」
泣いててもとても綺麗な笑顔を見せた澪に、俺はふ、と笑った。
2015.6.19