16


「澪ー、今日代わりに青道行ってくれない?」


 朝食も食べ終わり、学校に行く前にお母さんから投げかけられた一言に私は一瞬固まった。


「今日御幸くん診にいく予定にしてたんだけど仕事入っちゃったのよ。またしばらく行けそうにないから……これチェックリスト、作っておいたから私の代わりに御幸くんの状態見てきて?」


 澪でも診れる程度のものだから、とお母さんからリストを渡される。


「……」

「あ、澪今日予定あった?」

「いや、無いけど……」

「一度引き受けたからには中途半端にサポートするの、嫌なのよ」

「……ハイ、お母さんの仕事に対する姿勢は重々承知しております……」


 青道の先生方には私から連絡しておくから、お願いしていい?と困った顔で頼まれると、嫌とは言えない。なにせ御幸のことは私からお母さんに急に頼んだ事だ。私が拒否できる権利はない。


「分かった、今日放課後行ってくるね。お母さんも仕事忙しいのにごめんね」

「──こんなに忙しくなる予定じゃなかったんだけど。宜しく頼むね」


 じゃあ先出るねー、とお母さんは家を出て行った。私は軽く溜息をつく。


 別に青道に行くこと自体は何ら問題はない。ただ厄介なのは私の精神状態だ。

 御幸への気持ちを自覚してから初めて会うことになる。それに加えてこの前の大失態。


 ……顔合わせづらい……。


 そして自分の気持ちを御幸に悟らせない。その為にはいたって平常心、動揺しないこと。

 こんな風に自分に言い聞かせてる時点でどうかと思うけど、御幸にボロを見せたら不審に思われる気がする。
 本当は行きたくないけれど、逃げてばっかりいてもしょうがない。


 急いで洗い物を済ませると、気合いを入れ直して玄関のドアを開けた。











 カキーン、カキーンと遠くで金属音が響いている。私は青道の校門前で一息ついた。2日前はこんな心境で青道に来ていなかった。お母さんに御幸の事を頼んだ時は、まさか自分がこんな状態になるとは思いもしていなかったのだから。

 ほんと、人生って分からない……。


 私は朝からシミュレーションしていた御幸への対応を、頭の中で再度確認した。普通に「いつも通りでいい」と思うと、意識し過ぎてか今までどういう風に接してきたのか分からなくなる。そして無駄な疲労が押し寄せた。



 野球部のグラウンドが見えてきて辺りを見回すと、野球部員達は各自練習に入っていた。私は御幸の姿を探す。
 会いたいような、会いたくないような。何とも複雑な心境で、私は外から投手・捕手がいるブルペンを覗いた。



「あー!!澪さん!こんちわーっす!!」


 ちょうどボールを投げ終わった沢村くんとバッチリ目が合って、びっくりして苦笑した。


「……こんにちは。今日も元気だねー沢村くん」

「はい!!神宮大会に向けて気合十分っす!!」

「──御幸は、いる?」

「いますよ!暇そーなんで澪さん相手してやって下さい!」


 沢村くんが指差した方を見ると、パイプ椅子を跨いで座って投手にぶつぶつ減らず口を叩いている男を発見した。
 ……しかし私は何故沢村くんに名前呼びされているのか。不思議だったけど嫌な気はしなかったのでそのままにしておいた。


 御幸センパイ!澪さん来ましたよー!と沢村くんが声をかけると、御幸が私に気付いて、こちらに歩いてきた。

 一瞬、緊張する。
 ここまで来たからにはもう後には引けない。
 

「おー」

「暇そうだね、ちょうどよかった。お母さんが今日来れないから代わりに来た」

「悪いな」

「いーえー、こっちが言い出したことだし。お母さんから身体の状態診るよう頼まれてるから、ちょっと時間貰っていいかな」

「いいぜ、じゃあ寮行くか。ここいても誰も相手してくれなくてよー」

「……何ふてくされてんの」


 練習に参加できなくてよっぽど暇なのか、ブルペンからすぐに出てきた御幸と寮に向かう。私は監督さんに挨拶してからグラウンドを後にした。




 ……普通に話せてるし。


 私は朝から抱えていた悩みが杞憂に終わってほっとしていた。その時になってみたら意外と平気だった、というやつだろうか。

 だけど……。


 御幸と身体の状態を話しながら歩いているが、だんだんと不安感が増す。この前のことが全く話題に上らない。何も無い、問題ないと言ったのは私だから、御幸も何も思ってないのかもしれないけど。

 生き地獄のようだ。触れて欲しくないのに、突っ込まれなかったら突っ込まれなかったで気になってしまう。もうどうしたらいいんだ。


「どうぞ」


 御幸の言葉ではっと我に返ると、寮の御幸の部屋の前だった。御幸が扉を開けると、中が若干垣間見えて嫌でも思い出してしまう。


「……またお邪魔します」

「はは。この前は起きたらいきなり立木がいるからビビったぜー」


 御幸から飛び出した言葉に私は固まった。……いや、今がチャンスなのかもしれない。私からもう一度御幸に直接弁解して、早くこのもやもやを解消してしまいたくなった。

 靴を脱いで部屋に上がりながら、私は意を決して口を開いた。


「──ごめんね、びっくりさせちゃってさ。ほんと何でもないから忘れて」


 カバンからチェックリストを引っ張り出し、御幸に椅子に座るよう促しながら笑って言った。


「……立木が泣いてるとこなんて初めて見たからさ」


 御幸の顔はさっきまでのおちゃらけた感じではなく、真顔だった。

 なんかあったんだろ?と聞いてくる御幸に、御幸の言葉で急に冷静になった私は力なく呟く。


「……それを言うなら、私も御幸が泣いてるところなんて見たこと無いよ」


 面食らった様子の御幸に、私は嘘じゃない気持ちを伝える。


「──そんなもんじゃん?友達でも」

「……」

「……本当に御幸が気にするようなことじゃ、ないから……」


 だから安心して、と御幸の顔を見て言うと、御幸もそれ以上何も言わなくなった。


 お母さんの指示通りに御幸の身体をチェックし、記録していく。起きている態勢からうつ伏せに。着々と作業を進めると、そんなに時間が掛かることなく全てのチェックを終えた。


「──全治3週間、って言われたんだよね?この分だと診断より早く治りそうだね。神宮大会は間に合わないけど」

「お陰でベンチメンバーからも外されたけどな……。キャプテンも今は倉持だしよ」

「……御幸が治るまででしょ?」

「まーそうだけど。俺キャプテン向いてねーからなー」


 はは、と笑う御幸に私はくす、と笑った。


「……でも夏から今までやってこれたんでしょ。じゃあ大丈夫だよ」


 すぐにキャプテンが務まる人なんていないよ、と付け加えると、私は帰り支度を始めた。


「帰んの?」

「部外者は長居しない方がいいよ。じゃあお邪魔しました」


 玄関前で靴を履いて、扉を開ける。


「次はお母さんか私か分からないけどまた来るから」

「──おう、門まで送る」

「え、いいよ。練習気になるんでしょ?」


 私は先程のブルペンでの様子を思い出しながら笑った。


「じゃあ、グラウンドまでの分かれ道まで」


 そんくらいさせろよ、と御幸は言った。今日は気持ちに余裕が無くて忘れていたけど、やっぱり御幸といると居心地がいい。何も気兼ねせずにリラックスして話せる。高校生になってもその空間は変わっていないことが嬉しかった。


「……そういやさ、いつの間に沢村と仲良くなったんだよ」


 温かい気持ちをかみしめていると、不意に隣の御幸が尋ねてきた。


「──この前お母さんが御幸を診てる時、食堂で話しかけてきてくれたんだよ。面白い子だよね、沢村くん」

「……ふーん」

「御幸、どんな風に沢村くんと接してるの?恨み辛みがありそうな感じだったけど」


 私は前回の沢村くんとのやりとりを思い出し、笑いを堪えた。あのヤロー、とか言ってたもんな。先輩なのに。


「別にフツーだよ。ただあいつ、すぐ調子のるからな。厳しく接してるだけ」

「……ふふ、そーなんだ」

「沢村、立木のこと名前で呼んでたからどんだけ親密になったんかと……」

「……へ?」

「え」


 私と御幸は同時に顔を見合わせた。

 しばし、お互い無言のまま。


「「……」」




 その均衡を破ったのは、私だった。


「──あ、じゃあここでいいよ。お大事に」

「お、おう。ありがとな、気を付けて」


 最後の最後で居心地が悪くなって、私から御幸にさよならした。

 帰り道を歩きながら疑問が残る。


 ……御幸、何か変だったような。


「……決勝戦、脇腹の他にどこか痛めてたっけ?」
「……何言ってんだ、俺」



 お互い呟いた一言は、相手に聞かれることなく空気に溶けた。





2015.2.20





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