13
コンコン。
私は倉持くんから教えてもらった御幸の部屋のドアをノックした。
しかし、中から何の音もしない。御幸の声も聞こえない。
……いないのかな。でももうここ以外にいる場所は考えられない。
「──御幸?立木だけど―」
少し大きい声で扉の奥に呼びかけても、一向に返事がない。
私の左手には御幸に渡さなければならない紙袋が微かに揺れている。
もう御幸がいなくても、これを置いて帰ろう。
思い切ってドアノブを引くと、簡単に扉は開いた。
「……失礼します」
いけない事をしている訳ではないのだが、何となく小声になった。静かに靴を脱いで部屋に上がる。中を見渡せば、男の子のわりには片付いている印象の部屋だった。
そうっと歩を進めると、2段ベットの前で足が止まった。
……寝てる……。
目的の人物は下段のベッドで眠っていた。私がいることも分からないくらい爆睡している。
初めて見た。御幸が眼鏡をかけていないとこ。
──お母さんのマッサージが効いたのかな。
好転反応による眠気だろうか。野球部が練習中に寝るなんて、御幸じゃあり得ない事だと思う。それだけ身体が疲弊していたんだろう。
私は御幸の顔が見える、ベッドの傍に腰を下ろした。
ノートの切れ端に伝言を書いて、持ってきた紙袋の中に入れベッド近くに置いた。これで私が持ってきたと分かるはずだ。
もうやることも無いし、立ち上がって部屋を出ればいい──のに。
何故か身体が、動かなかった。
気持ち良さそうに眠っている御幸の顔を見つめる。
”友達っすか!俺はてっきり御幸センパイの彼女さんかと”
沢村くんの言葉が急に頭をよぎった。確かに私は御幸の彼女ではない。
でも秋大の決勝戦を見てる最中から、自分の中の気持ちが少しずつ、少しずつ変化していくのに気が付いてしまった。
試合の終盤7回、8回、9回と進むにつれ、友達として応援する気持ちとは別の感情が顔を覗かせた。
頑張って、という想いとは別に、御幸が愛しい、ずっと見ていたいという今までに感じたことの無かった感情が私を打ち抜いた。
──それは、恋愛経験が乏しい私でも自覚するには十分だった。
試合が終わると、御幸の助けになりたいと気がつけば身体が動き、「御幸の怪我のケアをしたい」と青道の部長さんに申し出ていた。
……この感情は間違いなんじゃないか。今まで通り友達として、御幸の助けになりたいんじゃないかと思い直したりもしたけれど、今御幸の傍にいて確信してしまった。
私は、御幸のことが──。
俯いた私の目からぽたっ、と涙が零れた。悲しい訳じゃない、泣きたい訳じゃないのに、私の中に芽生えたこの想いは涙となって溢れ出てきたように感じた。
「──っ……」
誰にも気づかれないように、声を殺した。止めたくても、涙はぽたりぽたりと膝の上で握った私の手の甲に落ちていく。
「──んー……」
その時御幸の声が聞こえ、私はハッとして顔を上げた。
御幸は大きく伸びをして目を開けた。
私は起きたばかりの御幸と目が合った。
御幸は起きぬけで焦点が定まらなかったようだが、私の顔を見て驚いている。
「──な、んで泣いて──」
反射的になのか、御幸はベッドから身体を起こす前に私に手を伸ばした。
私は身体をびくっと震わせると、御幸に捕まらないように、御幸の手が届かない位置まで後ずさった。
御幸の驚いた目を見た途端、私の頭が急ピッチで回り始める。
「──起こすつもりなかったのにごめん。倉持くんに部屋教えてもらったの。これ、お母さんが渡し忘れたもの。ここ置いとくね。使い方は教えたから、って言ってたけど分からなかったら私からお母さんに聞くから。携帯にでもメールして」
矢継ぎ早に言葉を浴びせると、私は急いで立ち上がった。
「ちょ、待──」
御幸に背を向けると、早足で部屋のドアまで向かう。御幸が身体を起こそうとしたのか「痛っ」と声が聞こえたが、気付いていない振りをして外に出た。
私は走って寮から出ると、カバンの中の携帯が震えた。
足は止めないまま涙を拭って携帯を取り出すと、メールの受信表示。凛ちゃんから「校門前に着いたよ」とのことだった。
幸い周りには誰もいなかった。私はそのまま凛ちゃんの元に向かった。
校門前に着いて辺りを見回すと、凛ちゃんが大きく手を振っていた。
「澪──こっちこっちー……って、何で泣いてんの」
私の顔を見るなり、驚いた様子の凛ちゃんが尋ねた。自分でも顔がボロボロなのは分かっている。
「……車の中で話すから、とりあえず車出してもらっていいかな」
私は助手席に乗り込むと、青道高校を横目にすぐさま車が走り出した。
凛ちゃんは問いただす事もせず、私の言葉を待っているようで、車内は静かだった。
「……凛ちゃん、私、好きな人できたよ」
涙でかすれた私の言葉が、エンジン音だけの車内に響いた。凛ちゃんは前を向いたままだ。
「……普通は好きな人が出来たりすると、嬉しくてしょうがないもんなのにさ。どうして泣いてるの」
凛ちゃんは私を責めたりしている訳でもなく、淡々と尋ねてきた。
「……自分の馬鹿さ加減に。どうしてもっと早く気付けなかったんだろう、って」
私はまた涙が出そうで、抑えるのに必死だった。
「……それって御幸?」
凛ちゃんの声は、とても優しかった。
「うん……──」
私も凛ちゃんもしばらくの間沈黙していた。どのくらい時間が経ったのか、凛ちゃんが「いいんじゃない」と口を開く。
「──男女の仲ってさ、いつどうなるかって誰にも分からないじゃない。会ってすぐにピンときて付き合う人もいれば、ずっと友達だったのにある時急に恋人になったり」
私は凛ちゃんの方を向いて大人しく次の言葉を待った。
「私は、澪は御幸と友達じゃなかったら、『好き』にまでならなかったんじゃないかなと思うけど。御幸と友達であることは、澪にとってとても重要で、大切なことなんじゃない」
だから馬鹿じゃないわよ、と凛ちゃんは笑った。
確かに、御幸と友達にならなかったら恋愛感情は生まれなかったかもしれない。
「……凛ちゃんが優しい〜……また泣く〜」
「あら、私いつも優しいじゃない」
優しくされると泣きたくないのに泣いてしまう。私の目からはまた涙が溢れて止まらない。
「目、頻繁に拭いてると腫れるわよ。垂れ流しときな」
「……それじゃ凛ちゃんの車が汚れるよ」
「いーわよ。あ、鼻水は拭きなさいよ、花の女子高生が」
「……ぶっ。……ありがとう、凛ちゃん」
どういたしまして、と凛ちゃんは車に備え付けてあるティッシュをくれた。
散々泣いているけど、この想いは決して嫌じゃなかった。
顔はぐちゃぐちゃでも、心はとても清々しかった。
2015.2.5