Father's permission side 御幸一也
「あ…の! 立木さん!」
俺は目的の人を見つけると、声を上げ呼び止めた。こういう場所──オリンピックの選手壮行会で遭遇するなんてこと自体が稀なのだ。この機会を逃してはいけない。
「──お、御幸くんか。久し振りだね」
この風格漂う、俺の親父世代の男性──澪の父親は初見ではなかった。かなり前、中学生の時に二度程会ったことがある。一度目は澪の家で、二度目は実家の近所でだった。
「立木さん、御幸選手とお知り合いなんですか!?」
立木さんの隣にいた部下であろう人が、驚いた顔で俺と立木さんを交互に見やる。俺が軽く会釈すると、立木さんが快活な声で返答した。
「ああ、娘の彼氏だ」
「え! じゃあ凛さんじゃなくて末っ子の…」
立木家の内情に詳しいこの人は、立木さんの側近の空手関係者なのだろう。立木さんが空手の協会の幹部であり、凛さんは日本を代表する有力選手だから知っていて無理はない。頷いていたが、表情は驚いたままだった。
「御幸くんも頑張ってるね、スポーツニュースでもよく話題になってるし。お父さんも嬉しいだろう」
「いえ、まだまだです」
優しい労いの言葉をかけてくれるが、表情は会った瞬間からさほど変化はない。それを肌で感じ、これから言うことを踏みとどまりそうになるが、この先絶対に来ないであろうこのチャンスを逃したら澪の彼氏というだけでなくプロ野球選手の名が廃る。
昔から試合でチャンスは見逃さない方だという自負があるが、私生活にまで生かせているかはちょっと自信がない。
唐突すぎるのは分かっているが、俺は思いきって言うことにした。
「すみません、突然で申し訳ないんですが──立木さん、今度ご自宅にご挨拶に伺わせて頂きたいのですが」
立木さんが「ん?」と疑問を浮かべたので間を置かずに切り出す。
「──澪さんとの、結婚のご挨拶に」
俺の最後の一言に立木さんは目を大きく見開いた。隣の部下の人は居たたまれない様子で落ち着きが無くなっているが、俺もフォローする余裕は無い。ただ立木さんから目を離さずに、じっと返答を待った。
「……御幸くん、今度空いてる日はあるか?」
少し考え込んだ素振りを見せた立木さんから、俺が問おうと思っていた質問を逆に投げかけられ、今度は俺が固まった。一瞬戸惑ったが、すぐに我に返る。
「いえ、お……僕が立木家のスケジュールに合わせますので」
「──いや、家族と顔合わせの前に2人で話さないか。地元の居酒屋でもいいかな? 予約は取っておくから」
あっという間に立木家顔合わせ前のサシ飲みをとりつけられ内心慌てている最中に、手際よい立木さん主導で連絡先も交換してしまった。
「じゃあまた連絡する。澪には内緒にしておいてくれるかな、バレると凛も揃ってうるさいから」
そう言うと、立木さんは早足で仕事に向かっていってしまった。
隣で慌てて踵を返す部下の人は、俺と目を合わせると立木さんから見えない位置でガッツポーズをしてから去っていった。
あまりの急展開に、俺は思わず息を吐いた。が、これは逃げるわけにはいかない関門だ。
**********
ガラガラ、と引き戸を開ける。
立木さんに指定された居酒屋は実家から歩けば着く距離で、子供の時には知る必要もなかった飲み屋がこんなところにあったのかと少し驚いた。
「いらっしゃい!──お、来たよ地元の有名人!」
入口から見えるカウンター越しに、店主らしき人が声を上げた。その声に近くで飲んでいた人達が一斉に俺を見た。
「おー! 御幸さんとこの一也くん! 帰ってきてたのか!?」
「生で初めて会ったわ〜、サインもらっていい? あ、握手して!」
「お父さん元気にしてる?」
矢継ぎ早に飛んでくるアプローチはファンとの交流で慣れてはいるが、いつもと違うのは「御幸さんの息子」前提で話が進むことだ。圧倒されてはいるが、普段経験がない質問に悪い気はしない。
多少苦笑いで応対していると、カウンターの端に座っていた立木さんが手を上げた。
俺は腰を折ってお辞儀をする。立木さんは顔馴染みな雰囲気の店主に声をかけた。
「信ちゃん、奥使わせてもらっていいか?」
「おぅ、いいよ! 一也くん何でも好きなの頼んでな! 稼いでるのは知ってんだからよ〜」
冗談混じりに満面の笑みで話してくる店主に嫌な感情は起こらなかった。
奥を指差され、俺は立木さんの後をついていき座敷席に腰を下ろした。先に料理を頼み、緊張を隠しながら立木さんと対峙する。
おしぼりで手を拭いている俺に、立木さんから口を開いた。
「……澪とはいつから付き合っているんだ?」
「──高校2年生の時からです」
「……そうか。まあこうなることは予想してなかったことはないんだ。中学の時か、澪が“作ったご飯を友達にお裾分けしていいか”って言われた時最初驚いたが」
懐かしいエピソードに記憶を思い返していると、お通しとお酒を持ってきた店主が俺達がいる個室に顔を出した。
「“母親がいなくて家事を自主的にやってるけど忙しそうだから手助けしたい”って言って、誰か尋ねたら同級生の男の子って言うじゃないか。“男”って」
これは立木さんに不快な思いをさせてたんじゃないかと、内心冷や汗ものの俺は即座に頭を下げた。
「……すみません。あの時は澪さんのご厚意に甘えてしまって」
立木さんが「信ちゃん」と呼んでいた店主も、グラスや食器を並べながら聞いていたのか堪えきれなくなったようで豪快に笑った。
「あっはっは! これは根に持ってずーっと言われるぞ〜一也くん!」
「まあ名前聞くまで良い気はしなかったのは事実だが──相手が御幸さんの息子って聞いて妙に納得したよ」
思いがけない言葉に、俺は思わず立木さんを見つめる。
「涼が江戸川シニアで野球やっていたのもあったから、どこからか聞いてはいたんだ。御幸さんの息子も江戸川で野球やってるって。シニアで野球やるっていうのは結構ハードだ、おまけに親父さん1人で育ててるのは知ってたから」
まさか澪の親父さんがそんな風に思ってくれていたとは思わず呆然としていると、立木さんが「よし、乾杯しよう」とグラスを傾けてきたので慌てて自分のグラスを持つ。
乾杯、と軽くグラスを合わせると、立木さんはぐいっと豪快にグラスの半分を飲み干した。俺の父親はちびちびと少しずつ飲むタイプだから、何気なく見入ってしまう。
「すぐ料理持ってくるからな」と言って店主がいなくなると、何か考え込んでいた立木さんの表情がふっと緩んだ。
「……一也くんと面と向かってじっくり話すのは今日が初めてだが──やっぱり親父さんに似てるな」
俺を名前で呼んでくれたこと、意外な言葉に俺は目を丸くして立木さんの次の言葉を待った。
「テレビで野球の試合を見たことはあったが──職人気質だな。親父さんも、一也くんも」
「……えっ」
「1つのことを突き詰める、って点では親父さんの仕事もプロ野球選手も変わらないと思う。ただ1つの分野をひたすら真っ直ぐに進んでいるだろう、親父さんも工場閉めないでずっとあの道ひとすじだ」
俺が思ってもいなかったことを口にされて、頭が働かないまま言葉を繋ぐ。
「……そんなこと思ってもみなかったです。父親の仕事を継がないで野球やっていていいのかって、今でも思う時あります」
「親父さんは息子に強制する人じゃないだろう、職業は違っても仕事に対する姿勢や努力が似てるなってことだよ」
表情を緩めたまま穏やかに話す立木さんを前に、俺は父親も含めて褒められたようで心の底がじんと熱くなった。
嬉しさが募って「ありがとうございます」と頭を下げる。
「──澪を、よろしく頼む」
頭を下げた直後に言われた一言に、俺はすぐさま顔を上げた。
「あれは頑張りすぎるところがある。澪自身も気付かずに、自分1人で何もかも背負いすぎてしまうことがあるんだ。だから凛も過剰に澪に接するんだが……1人で頑張らせ過ぎないように、気を付けてやって欲しい」
俺も重々思い当たる澪の性格に「はい」と気持ちを乗せ、頷いた。
「一也くんも仕事が仕事だから澪のことまでは大変かもしれないが……大事な娘だから」
「はい」
「私の妻のことも、母親のように接してもらって構わない。その方が妻も喜ぶ」
「──はい」
「……急に2人で会うようにして悪かったね。家で顔合わせの時だとここまでゆっくり話せないような気がしたから──凛もうるさいし澪も過剰になるだろうし」
軽く溜息混じりに言う立木さんとの距離が縮まった気がして、俺は心から安心し再び頭を下げる。
「いえ、僕も今日ゆっくり話すことができたので良かったです。この場を設けて頂いてありがとうございます」
「──まあ飲もうか、料理ももうすぐ来ると思うから」
グラスをお互い空にしてお酌をし合うと、俺は酔う前に言いたかったことを思い切って告げた。
「──前は、僕じゃ澪さんを幸せにできないかもしれないと思っていたんです。プロ野球選手は全国で試合があるから、いつも一緒にいれる訳じゃない。澪がきつい時にそばにいて助けてあげられないかもしれない──だったら、常に澪のそばにいれる男の方がいいんじゃないかって」
立木さんは俺から視線を外さないまま黙って聞いてくれていた。
「……でも、無理でした。お……僕がやっぱり澪さんじゃないと駄目で」
これ以上何と言って伝えればいいのか分からず言い淀んでいると、立木さんが口を開いてくれた。
「そこは大丈夫だろう。私も妻もお互い仕事をしていたから、一緒にいれないことの方が多かった。妻は今は仕事をセーブしているが、昔は選手に帯同して海外を周っていた。澪もそんな母親を見て育ってる。一也くんが不安なら、うちを頼りなさい──凛なんか子供産んでからしょっちゅう帰ってきてるから」
俺の気にかかっていることを察してくれたのか、立木さんは温かい言葉を返してくれる。
澪だけじゃなく、立木家の人はいつだって温かい。
俺は、今日一番深く頭を下げた。
「──はい、お待ちどお〜」
話もちょうど一段落したところで、店主が一気に料理を運んできた。
タイミングが良すぎて、俺も立木さんも思わず顔を合わせ苦笑する。
「信ちゃん、気遣わせちゃって悪い」
「いいよ〜! 俺自分のことじゃないのに泣きそうになっちゃったよ〜仕事中なのに!」
「──すみません、ありがとうございます」
今日はお礼と頭を下げてばかりの日だが、全然嫌な気分じゃない。
今までで一番の緊張で、どうにかなりそうだったけど。
俺はこれから立木家と──家族になる。
2019.9.14