△ 淡い雪城
自分の靴音が後から後から追ってくる。
カツカツと、少し走り慣れない足音が。
暗くて冷たい回廊をドレスの裾を掴んだまま走り抜ける。
吐く息は白く、指先からかじかんで凍りそうだ。
それでも、いてもたってもいられなかった。
断崖にそびえ立つ石造りの城は大きいばかりで、この雪の舞う季節でなくても冷たい雰囲気を纏っている。
辺境伯の父を持つ私は次女としてこの侯爵家に生まれた。
辺境というのは隣接する他の国との国境領地のことで、辺境伯というのはその重大で広大な領土を治める任を賜った貴族のことだ。
隣国に睨みを効かせ、有事には軍事力を以てそれを制圧し国境を守らなくてはいけない重要な立場だ。
私には将来を約束された兄と、病弱ながらも美しい姉がいる。
来年の春には新しく弟か妹も生まれるらしい。
父方の家系にかなりの確率で現れるという、少し変わった毛色の髪。
兄にも姉にも、私にもそれは色濃く受け継がれていて、この領地内でそれを知らない者はいないんだろう。
私と兄弟たちとの唯一の違いは、母親だ。
異母兄弟ということになる。私の母は所謂妾で、正式な夫人はあちら。
兄弟間で私の出生だけが正式なものではないのだと、誰に聞かずとも感じられた。
王から重大な領地を任された父の誇る軍事力と統括力は年々勢力を伸ばすばかりで、夫人と兄弟たちの暮らす正面の塔はいつも華やかだそうだ。
私と私の母が暮らす城の反対側の塔は使用人も少なく、私は父に会う機会もあまり無いのでその様子は侍女から垣間聞くばかりだけれど。
私と母は、城の大部分への出入りを許されていない。
もちろん城下へ降りることなど許されるはずもない。行ったところでこの髪色ではすぐに露見してしまうだろうし。
私の行動範囲はとても限られたものだ。
本来であればこの回廊の先の使用人専用の食堂や休憩室も立ち入ることは許されていないけれど、城の内情をよく知る家令や侍女長が内密ですよと見てみぬふりをしてくれるのだ。
それでも、更にその奥にある騎士団の居住区域だけは特に立ち入ることがないように何度も言われて育ってきた。
そして、今夜私の向かう先も何を隠そうその騎士団の本拠地だったりする。
だからもし、こんなところを見咎められたとしたら、連れ戻されるだけではなく部屋での謹慎になる。
もし夫人に伝わることでも謹慎ではすまず幽閉されるかもしれない、と少し不安にもなった。
美しくて綺麗なあの人は、私が少しでも規律を破ったり、決められた場所から動こうとするのを嫌うから。
誰もが寝静まった城内は、物音ひとつ立てようものなら城中に響き渡ってしまうのではないかと思えるほどだった。
薄暗く、凍えるような地下回廊をひたすら進む。
物心つく前から与えられるものが世界の全てなのだと無思い込むようにしてきた。
どうして私だけだとか、なぜ外へ行っては行けないのかだとかは決して口にする事はなかった。
出生をわきまえろと本妻付きの側仕えから釘をさされることもあり、これまでも色々な事を諦めてきた。
母と家族同然の使用人がいれば毎日の暮らしは慎ましくも幸せだったから。
そのまま人生が終わっていっても、何も悔いることはないと思っていたのに。
・・・だけど、今度ばかりは。
あの人のことだけはどうしても手放しで見送る気になれなかった。
使用人の居住区域の向こうには、回廊の天井まで届く大きな重めかしい木の扉がある。
この先には、小さい頃に一度迷い込んだきり来たことがなかった。
こっ酷く色んな人から怒られて、騎士の中にも色んな輩がいるのだから無闇に出入りするべきではないと温和な侍従長にもお灸を吸えられた。
その頃はまだ、彼はこの城にはいなかった。
家に仕える軍人のひとりとして、初めてその姿を見つけたのは塔から見下ろせる演習場でのこと。
何百人もの軍人が行き交う中で、その姿は一際目を引いた。
広大なその場を見下ろすのは毎日の日課だったから、その姿を見つけることもすぐに日課のひとつになっていた。
それからはどうにかして彼のことを知りたくて。
騎士団長に彼のことを聞いてみたり、演習場まで一番近づける部屋まで降りてみたり。
正式な過程を踏んできた軍人ではないらしく、団長が目を掛けている存在だと聞いてその強さと貴族上がりの騎士とは違う雰囲気に納得してしまった。
誰よりも誇り高く見えるその姿を何度も何度も目で追った。
彼のことを少し知れば次は話がしてみたくなって。
侍女の手助けもあってやっとの思いで言葉を交わせた時には、恥ずかしすぎて何も言えなくなってしまったり。
彼の口から聞いた無愛想で短い言葉を、何度反芻しただろう。
彼の目には、さぞおかしな娘に写ったことだろうな。
彼のいるところに偶然を装って通り掛かったりして、後から思い返しては仕事中の彼に本当に悪いことをしたと反省した。
だからそれからは決して自分の名前が出ないように、侍女たちや使用人たちに相談して彼だけじゃなく騎士団全体の助けになるよう遠くから支援したりもした。
彼が出世したと聞けば、その祝いの為の食事を料理長に無理を言って用意させてもらったりもした。
作ったことは勿論伏せていたのに、あまりの不格好さにすぐに私が作ったことがバレたと後から聞いた。
食べてもらえない事も想定していたから、その時はすぐに下げてくれと料理見習いの子にも頼んでおいたのに。
彼はものすごく眉間に皺を寄せながら食べてくれた、だなんて。
そんなことを聞いてしまったら。
その次に会った時に、名前を呼ばれてしまったら。
それがただ料理に対しての短い文句だけだったとしても。
私はもう、堪らなく恋に落ちていたのだった。
季節は移り、長かった日もすぐに落ちるようになった頃。
その少し前から、彼の後ろを付いて歩く男の子がいることには気付いていた。
それが所謂見習いの従騎士だということも、彼に出会ってから騎士団について片っ端から本を読見込んでいたおかげで分かった。
なんとなく彼の地位が高くなっていることにも、気付いていた。
それが嫌なわけない。
遠目にも、素人目にも彼の能力が飛び抜けて長けていたのは分かっていたから。
彼の実力が証明されたことは自分の事のように嬉しかった。
けれど。
そのうちに隣国との関係が徐々に悪化し始め、もう明日にも戦争が始まってもおかしくないというところまで来ていた。
彼はすでに準騎士としていくつかの戦いの場で大きな成果を上げているそうで。
有能な騎士ほど各領地が欲しがる存在はいない。
それが戦争ともなれば、尚更だ。
そう思うと、彼の順調な出世を喜べない自分がいた。
彼ほどの実力者にはすぐに声が掛かるんだろう。
非力な私は、ただ漠然としたそんな思いを抱いたままでいた。
ーーーだけど、こんなに早くその日が来るなんて思っていなかった。
騎士は所謂職業だ。
自分で君主を決め、雇用されればその地で仕える。
夕方聞いた侍女の声が蘇る。
『ーーーエマ様。
エマ様、聞かれました?
あの方と団長、次の戦争に備えてもうお声が掛かったそうですよ。
騎士を大量に育成するために王家直々に騎士学校を創立するという話がありましたけど、昨夜このお屋敷に使者が来たんですよ。
あの方にはその場で戦術を担当してもらいたいとかで、そこでの待遇も破格だとか…』
『そうなったら…あの、エマ様…。
とても寂しいですけれど、喜ばしいことですね。
平民の出の騎士としては大出世ですものね』
複雑そうに曖昧な笑顔を浮かべる侍女に、そうね、と感情の込もらない返事をする自分の声が、脳裏で聞こえた。
目の前の木製の大きな扉に手を掛ける。
彼に何を言うのかまだ自分でも分かっていない。
だけどもしこのまま会えなくなってしまったら、わたしはきっと死ぬほど後悔する。
はあ、と冷たくなった指先に息を吹きかける。
ビクともしなかった木製の扉に食い込んだ鉄のノブは、全体重を掛けて押すと、重くて少し湿気った音を立てて動いた。
そこから奥の回廊は、小さい頃見たはずなのに朧げにも記憶に重ならない。
こんな夜更けには誰も起きていないんだろうか。
いや、警備の為に何人かは必ずいるはずだ。
顔を隠し、侍女のフリをする為に質素で地味なドレスを着てきたのだ。
誰かに彼の部屋を聞かなければ、会えもしない。
回廊を進んでいくと明かりの漏れている扉を見つけた。
中からは何人かの男性の声が低く会話しているのが辛うじて漏れ聞こえる。
何の部屋だろう。
部屋の手前にはよく使い込まれた剣が四本立てかけられている。
そちらに目を滑らせると、見覚えのある装飾がされた剣に目線が吸い込まれるように止まってしまった。
気付けば、それに手を伸ばしていた。
物々しい雰囲気の、重たくてひやりと冷えた感触。
私が見間違えるはずも無い。
何度も彼が握っているところを見たことがある。
きっとこの剣も、自分が許可なく触れていいものではない。
そう思うのに、柄に施された模様から装飾まで、誘われるように指先で辿ってしまう。
飾りも形状もひとつとして同じものはないのだと、一度だけ剣について彼が話してくれたことを思い出す。
その時に彼は、この剣に少しだけ触れることを許してくれた。
「ーーー…まぁ、時期的に丁度いいかも知れないな。
しっかり捕まえて話してこい」
「団長、誰を捕まえるんですか?」
「はは…いや、誰でもないよ」
ずしりとしたその剣を持ち上げてみた瞬間、ふいに部屋の中の声が大きくなって、すぐにその扉が開かれた。
慌てた私は咄嗟に壁横の影に身を隠したけれど、最悪なことに胸には彼の剣を抱きしめたままだ。
「……あれ?団長、隊長。剣が三本しかないようですけど」
「隊長の分ですか?」
「そのようだな。あっちに置いてきたのか?」
「……いや」
「今夜は同盟国の騎士団が到着されるんです、遅れたらまずいですよ」
「そうだな。まずはそちらに向かおう」
がちゃがちゃとそれぞれの剣を回収する気配がしたあと、重そうな装備の音を響かせて、何人か分の足音が反対方向へと遠ざかっていく。
急に静かになったその場で、話の内容と物音から彼も他の人たちと共に外に向かったようだった。
ど、どうしよう。
お仕事をするのに騎士にとって大切な剣がなかったら彼はきっと困ってしまう。
意を決して、その後を追いかけようと物陰から大きく一歩踏み出した。
「……で、こんなところでお前は一体何してる」
(ーーーッ!?)
てっきり誰もいなくなったと思った回廊で、彼が壁に寄りかかっているものだから、それはもう心の臓を吐き出すんじゃないかってくらい驚いてしまった。
足を踏み出した勢いのままだったので、それを押し留めることが出来ずに至近距離で彼と対峙することになった。
「……!!リ、リヴァイ…!」
その瞳はこちらに向けられたまま、私が握ったままの剣にちらりと目線を落とす。
「…悪ふざけが過ぎるようだな。
こんなところを見つかったらどう言い訳するつもりだ?」
はっとして、すぐに剣を彼の方へと差し出した。
「か、返します。ごめんなさい…。
でも私は悪ふざけなんて…」
会えたら言いたいことがたくさんあったのに。
彼の瞳に正面から向き合うと上手く呼吸が出来なくなる。
彼は差し出された剣を受け取りながらふと顔を顰めた。
やっぱり、大切な剣に触るべきじゃなかったんだろうか。
嫌…だったかな。
「どうやって、とは愚問だな。
何しに来た」
すぐに冷たい声に問い詰められて、びくりと肩が震えた。
「ここにいるべきじゃない。
すぐに戻れ」
淡々とした口調に胸が痛む。
触れられそうな距離に互いがいるのにどこまでも遠い気がした。手も、伸ばせない。
言葉に詰まっていると、向こう側から何人かが歩いてくる音がした。
甲冑が重々しく音を立てている。
(……!)
まだ何も言えてないのに。
このまま塔に連れ戻されてしまう…!
他の人に私だとバレれば否応無しに連れ戻されるんだろう。こうして彼と話していれば確実に露見してしまう。
物陰に隠れることも出来ず回廊自体もそんなに広さがない。暗がりであれば多少の誤魔化しは効くはずだったけど、この場は松明でとても明るいのだ。
特に私の場合はフードを取られれば髪色を見られてしまう。不自然に顔を隠して誰かに咎められれば、逃げようもない。
彼に気持ちを伝える時間もないし、やっぱり無謀だったのだ。
もう半ば諦めかけ、思わずフードを被ったまま俯いた。
「リヴァイ隊長?どうしたんですか、そんなところで」
「……!」
一人の騎士から彼に声が掛けられた瞬間、彼にぐい、と肩を抱かれて引き寄せられた。
壁側に抱き寄せられたおかげで、彼の後ろから歩いてくる騎士たちには私の地味なドレスとフードしか見えていない。
髪の一房さえ見えない筈だ。
彼に抱き寄せられたままの私の姿に気づいたようで、その何人かの集団が口々に「あっ」と小さく声を上げた。
「すいません隊長、向こうからは見えなくて!
お取り込み中でしたか」
「隊長に女性のお客なんて珍しいですね。」
「隊長に?本当だ、珍しいもん見たな」
「あ、リヴァイ隊長!明日は全体会議があるので出席お願いしまーす!」
口々に彼に声をかけていく騎士の人たちは私のことなんて気にしていないようだった。
こんな時なのに彼には滅多に女性が訪ねてこないと聞いて心底安堵してしまう。
「ああ、分かった」とすぐ耳元で低い声がして、今の体勢と彼の手の平が自分に触れていることを改めて実感した。
心臓が、破裂しそう。
足音が遠ざかって彼の手が緩む。
それを合図に一歩後ろに後ずさった。
顔が、熱い。心臓がまだ早鐘を打っているようだった。
触れられたこともそうだけど、庇ってくれたことがあまりにも嬉しい。
「もう一度聞く。
こんなところまで、何しに来た」
今度の声色は先程よりほんの少し落ち着いて聞こえた。
彼は正面から私の眼を覗き込んで、名前は呼ばずに「レディ」とだけ敬称を口にする。
誰からもそう呼ばれるのに、彼にだけはそう呼んでほしくない。少し距離を取られた気になってしまう。
「……要件は?」
こちらを値踏みするかのように強い目線を投げてくる。
こうして接してくれる騎士が他にあとどれくらいいるだろう。
一番初めに彼の無礼を団長が前以て詫てくれたけど、私は初めからそんなこと気にならなかった。
形だけでも丁寧にしようとしてくれる彼に、促されるまま口を開く。
「あの…。リヴァイに、中央都市へ行くお話があるって聞いたの」
「……ああ、それか。どいつもこいつも俺の顔を見ればその話ばかりしてきやがる」
「それで、お、おめでとうと伝えたくて」
顔を見れずにそう呟くと、彼の方からの返事が途絶えた。
「…?」
不思議に思って顔を上げると、いつも神経質そうに眉を寄せている彼の眉間が驚いたように和らいでいた。
「……俺に?
そりゃあ有り難いことだが。
その顔だと、とてもめでたいと思ってるようには見えねぇがな」
「…!」
ずばり言い当てられて、顔が一気に熱くなっていくのを感じた。
「ほ、本当よ。
大出世なんだから、喜ばしいことは祝うことは当たり前でしょ?」
「ふぅん?」と、尚も余裕ぶった声が聞こえる。
なんと言えばいいのか、もはや分からない。
なんで思ったことが素直に言えないのだろう。
「だからわざわざこんな夜中に俺を訪ねてきたってのか?
そんな話なら、昼間でいいだろう。
他に用があったんじゃないのか」
昼間じゃ駄目なの。
周りに侍女がいたり、他の騎士の目があったら駄目だから。
意を決して口を開いた。
「本当に、行くの?」
彼に視線を返すと、淡々とした表情のまま彼はそれを受け止める。
彼と会えなくなったら、当たり前だけどこんな風に正面から見つめることも出来なくなる。
「……お前にそれが関係あるのか?」
彼の返事に、つきつきと胸がひりつく心地がする。
だけどそれに気づかないように、見せないように。
すぐに答えてみせた。
「か、関係ない…かも知れないけど…」
「行くって言ったら、どうする」
自分で聞いておきながら、彼からの返答にずきりと胸が痛んだ。
分かっていたことじゃないか。
騎士としての腕を見込まれるなんて、そんな良い話を蹴る理由が無い。
条件も待遇もこの屋敷より良いのなら、彼はきっと行ってしまうんだろう。
その声も、姿も、一生聞くことも見ることも出来なくなる。
もし。
もし本当に行ってしまうなら。
声も届かない場所へ行ってしまうなら。
「…今夜を最後に、もう二度とリヴァイの視界に入らないと誓うわ。
もう追い掛けたりしないって約束する。本当に、諦める。
だから、」
諦める、と口にすると本当にこれきりなのだと思えてくる。
本人に伝えてしまえばもう後戻りも出来ない。
だけど、私にはそれくらいの踏ん切りが必要なのだ。
この期に及んで、我ながら諦めが悪い。
だけどこれは何度も悩みに悩んで、目の前の彼を忘れないようにする為の最後の願いだった。
「最後に、ひとつだけ」
しばらく無言だった彼もそれを聞いて、漸く返事を返してくれた。
「……なんだ」
ちらりと彼をもう一度だけ見て、恥ずかしくなって睫毛を伏せる。
自分の発案なのにものすごく逃げ出したい…。と同時に、最後なのだからどうにでもなれという気持ちも湧いてきた。
思い出すのはあの日のことだ。
忘れもしないあの出来事。
「あ、あの。
一度だけ、レディと付けずに呼んでくれたことがあったでしょう。
でも私、あの時侍女からも呼ばれてよく聞こえていなくて。
最後にもう一度、名前だけで……リヴァイに。
呼んで、ほしいの」
あの日彼から呼ばれた自分の名前。
あるはずの呼称が無いなんて。
もしかしたら、そこには隠された意味がひそんでいるんじゃないかなんて。
迷惑がられていても、周りの目があるからそう振る舞っているだけなんじゃないかとか。
本当の本当は、彼ももしかして私のこと……だなんて思ってしまっていただけに。
「…あぁ?」
彼の反応は想像と少し違っていた。
あの瞬間からほんの少し期待してしまっていた私の心は、彼の次の言葉で一瞬で撃沈した。
「どの時も、俺はレディと付けているがな。
さすがに令嬢様を呼び捨てる趣味はねぇよ」
まさかの。
私のただの勘違いだったなんて。
一瞬頭の中が呆けたように真っ白になって、それから慌ただしく脳内が回り出した。
……勘違い。
「…え、あっ、そ、そうだったの」
慌てて、何でもないように取り繕って声を出した。
もしかして両思いかもと夜更けに訪ねてきたのに全部が思い過ごしだった、だなんて居た堪れない。
これでは完璧に勘違い女だと頭がパニックになった。
「ご、ごめんなさい。
私の…勘違いだったみたいで…。
悪気はなかったのだけど。
本当に、その。
今まで本当に色々とごめんなさい…!」
惨めすぎて、恥ずかしすぎて。
「あちらへ行っても、どうか、お達者で…っ」
言い切らない内にその場から逃げ出そうと踵を返す。
けれど、すぐに後ろから腕を掴まれてしまった。
(っ!?)
その勢いのまま振り向くと、もう一度彼と視線が絡む。
「おい、待て待て。
俺の話はまだ済んでねぇよ。
こっちからもお前に確認することがある」
「え、…っ?」
これ以上は惨めな思いはしたくないと思うあまり、彼を見つめる瞳が揺れる。
それを知ってか知らずか、彼は掴んだままの腕を離そうとはしなかった。
「噂話ならこっちにも入って来てる。
病弱な長女に変わって、今まで蚊帳の外だった次女の方に政略結婚の話が来ている、とかな」
「……!」
今度は私が目を見開く番だった。
軍人の彼がそんなことを知っているなんて。
一体どこから漏れ聞いたんだろう。
でも、彼は私のことなんて興味もないはずで…。
「……お前の相手はお前の父親より歳上だ。
その話、受けるのか」
腕を掴む彼の手に力が込められる。
思わず逸らそうと思った目線は、ぐっと近くから見下されてそれも叶わなかった。
「……っ」
声を出せない私の腕が痛むほど掴まれて、更に言葉に詰まる。
「リヴァイ、痛い…」
「受けるのかと、聞いてる」
だって受けるとか受けないとか、それ以前の問題だ。
私の存在はこの城では厄介者でしかなくて。
夫人の厳しい監視は、ほとんどが私に向けられたものだ。
母も私がいなければここに長年囚われる理由もない。
もし母が他所へ行きたいと望むなら、父と使用人が夫人にバレないよう手筈を整えてくれるはずだ。
唯一の心残りだった好きな人への淡い気持ちも、たった今本人を前に玉砕した。
足手まといで何も出来ない私が、この家や母の少しでも役に立つことがあるなら。
「受けるって言ったら、どうするの?」
淡い期待も消え失せて、自分だけ問い詰められることに悲しくなり咄嗟に彼の真似をしてしまった。
「そんなこと……リヴァイに関係ある?」
関係ないと言ってくれればいい。
戯れに結婚に反対しているだなんて、そんな自分に都合が良いことを聞きたくはなかった。
彼が中央都市に行くときには私ももうここにはいない。
ひとりで彼を思って嘆くより、そちらの方がずっとマシだと思えた。
結婚の相手が誰であれ、彼でないのであれば誰でも同じだ。
「……あるな」
彼がそう呟いたかと思うと、掴まれていた腕が急に彼の方へ引き寄せられた。
完璧に油断していた体は簡単に傾く。
そのまま、後頭部を抑えられて。
ーーー気付けば。
「ーーーん…っ!??」
唇が重ねられていた。
何が起こったのか分からずに抗議の声を出そうとするけれど、その先々で彼の唇に吐く息ごと奪われていく。
「んん…!?」
すぐ近くの壁に押し付けられて。
噛み付くように荒々しく口づけを繰り返されるうちに力は抜けていく。
逞しい甲冑を押し返す腕もまだ掴まれたまま、抵抗の色を無くしていった。
「…っ、……!」
キスをされているのだと途中から気づいていたのに、彼の気持ちが微塵も見えずに落ち着かなくなる。
それなのに重なる唇は寒さを忘れるほど情熱的で。これがあのいつも無愛想な彼なのかと信じられなかった。
押さえつけられたまま、何度も重ねられる唇の感触に酔いが回ったようになる。
正常に思考が回らなくなってから、暫くして。
やっと唇が離され、彼と至近距離で顔を合わせたまま息を整えた。
は、はぁ、と乱れた息を繰り返す。
「……リ、……」
互いに息が上がったまま、まだ近い距離にある唇同士をまた何度も重ねた。
角度を変え、深さを何度も変えながら唇を合わせると、相手の奥まで入り込めるような気さえした。
意識さえぼんやりとしかけた頃、ようやく彼の声が聞こえた。
「……すぐに断れ。」
「……え?断るって言っても……」
断ってなにがどうなるわけでもない。
最後の最後に些細な嫉妬でもしてくれているのかと、沈んでいた心がほんの少し舞い上がる。
色々な感情で揺れる私を他所に彼の瞳は凛と澄んで、ひとつの曇りも、迷いもなく見えた。
「保留でもいい。せめて間を持たせろ。
……あと少しで新月だ。
その夜に中央行きの奴らに紛れて、ここを発つ」
定期的に中央都市に向かう隊のことだ。
その日まではあと一週間ほどしかない。
そんなに早く、行ってしまうの?
それなのに私には婚姻を断れって、どういう意味?
ーーーこんなキスまでしたくせに。
なんて酷い人なんだろうと思いながらも、その瞳から目が逸らせないでいた。
最後の彼を目に焼き付けようとも思ったから。
それなのに、次に聞こえた言葉は予想も出来ないものだった。
「その際、お前も連れていく」
聞き間違いかと、思った。
「…え?」
「ここには二度と戻れないと思え。
母親も、仲の良い顔触れも見納めだ」
けれど間違いではないようだった。
彼はそのまま、いつもより多弁になる。
私にとっては考えも依らなかった…とても突然で、突拍子も現実味もなくて、それでも、どこかで夢見たような言葉が羅列する。
「もう少し中央行きの話を進めてからかと思っていたが…お前がこうして抜け出てこられるのと、その結婚てのを受けるのつもりだってのを考えると話は別だ。
お前をここに置いておくと禄なことにならないだろうからな。
政治と胡散臭い話に巻き込まれたいなら話は別だが」
至近距離で壁に押し付けられていた体が、ふいに解放された。
腕を掴んでいた彼の手はいつの間にか私の手を握るようにしていた。
かじかむようだった指先は、今はもう彼の温度を奪って自由に動く。
不意にその手までもが放され、彼は一歩後ろへ下がっていつものように私と距離を置いた。あまり身分へ執着のない彼の、規律に従順な一面。
いつも通り。
驚くほどに彼はいつも通りだ。
その表情も、淡々とした声色も。
ーーーただひとつ、こちらへ差し出された右手を除いては。
「……お前次第だ、エマ。」
ひと気のない深夜の薄暗い回廊。
空気はきんと澄んでいる。
物音ひとつしない中で。
カツリと静かに、けれども確かな一歩を踏み出した靴音が響いた。
同盟国の騎士団の到着の際、そこにある筈の傭兵隊長の姿は無かったが、それに騎士団団長は言及することも無かった。
ーーーーーーーー
隣国との戦争を控えた辺境領土から中央都市へと向かった騎士団の隊列の中に、二人乗りの馬が一頭いたとか、いなかったとか。
その日を境に伯爵の次女の行方が知れなくなり、その母に当たる妾もすぐに人知れず姿が見えなくなったが、別の街で懇意にしていた誰かから立派な邸宅を与えられたとか、いないとか。
伯爵はさぞかし心労がたたっているだろうと噂されたが、次女との成婚が間近だったという権力者がその城を訪ねてみると思いの外城主は上機嫌だったという。
その後の捜索さえしないので、その婚約者が訝しんで次女付きの侍女や兄弟たちを問いただしても、その答えは何も知らないの一点張りだ。
隊列の責任者への聴取も、のらりくらりと躱される始末だった。
すぐにその不思議な話も、戦争の話題に隠れて民から忘れられていった。
ーーーーーーーー
静かな静かな、淡い新月の夜。
母と侍女たちの協力もあって、あの日のようにあの回廊を抜けた。
寂しさと不安、それからどこかそわそわと落ち着かない気持ちが入り交じっていた。
雪の積もった道ならぬ道の上を乾いた風がどこまでも吹き抜ける。
空気は冷えて澄み渡り、眼下に広がる情景を目の当たりにしては、今迄自分の知る世界がどれだけ小さかったのかと気付いた。
振り返る度、雪に埋もれた古くて大きな城が段々と遠ざかっていく。
凍えそうな世界なのに、革の手袋でもかじかむ手には暖かな手が添えられ、肩には彼と自分とを覆うように大きなマントが掛けられている。
振り向くと近い距離に彼の体温と呼吸を感じる。
雪も止んだ銀世界。
この道がどんな場所へ続いているのか検討も付かない。
けれど後悔するはずもない。
この頼もしい体温に身を預けていればいい。
世界は、どこまでも暖かく感じられた。
クリスマス特別創作
おわり